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【映画評】「天国」はどこにあるのか 『私たちは天国には行けないけれど、愛することはできる』

※本作には直接的でないけれど、性暴力描写がある。いじめや体罰(という名の暴力)の描写もあるので視聴の際は注意してほしい。

 1999年の韓国。孤独な高校生ジュヨンは親の都合で同年代のイェジと同居することになる。イェジは少年院を出所したばかりだった。初めはぎこちないふたりだが、次第に心を通わせ、密かに愛情を交わすようになる。しかしある事件に巻き込まれ、ふたりは残酷な決断を迫られる。

 「天国には行けない」という台詞はキリスト教の文脈で「神様を信じていない」という意味だ。それでも「愛することはできる」と続く台詞が、「愛」を標榜するキリスト教の矛盾を的確に突いている。現在のキリスト教では到底届かない、むしろ見向きもしないところにもちゃんと「愛」はあるのだ、と。近年の韓国映画はキリスト教に批判的なものが多いが、本作もその一本だろう。

 一見理解がありそうなジュヨンの母親が、実は娘の感情に無頓着だったり無理解だったりする。一方でイェジの保護者を名乗る女性は子どもたちに平気で酒を勧めるが、偏見を排した目で彼らを見る。子どもにとって大人は不可解な存在かもしれない。

 しかしテコンドー部のコーチは表裏のない悪党だ。初めから危険な存在として登場するが、後半にかけてますます危険になっていく。そしてジュヨンの幼馴染の少年ミヌは「いいやつ」だが薄っぺらい。その点で本作は、男性キャラがステレオタイプに寄って見える。

 ジュヨンとイェジの関係は周囲の大人から失敗や間違いのレッテルを貼られる。まだ若いから愛情と同情の区別も付かないのだ、と。ではそう言う大人ははたして愛情を「正しく」認識できているのか。むしろ説明できないのではないか。そして子どもをコントロールするために愛情を利用しているのではないか。

 つくづく、子どもは大人の都合で人生を左右されてしまう弱い存在だと思う。子どもにとって人生は、(本作の女性たちのように)時として危険極まりないサバイバルになる。

 それでも本作には希望がある。初めは「女の敵は女」と言われても仕方ないような女性間の暴力が繰り返されるけれど(それだって男性の暴力に起因する暴力なのだけれど)、終盤には連帯していくからだ。警察も親も守ってくれない絶望的な状況の中、もはや傷ついた者同士で手を取り合うしかないというのは悲しい選択だけれど、だからこそその手は強く、固く握り合わされるのかもしれない。

 私個人はキリスト教が提示する「天国」は説得力があまりに弱く、全く希望にならないと考えている。熱心なキリスト教徒はそんなことはないと反論するだろう。けれど少なくともジュヨンとイェジは私と同意見だ。彼女らは「天国」を拒否し、同時に互いの中に「天国」の可能性を見ているから。

 『私たちは天国には行けないけれど、愛することはできる』は3月14日(金)公開。

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