夏目漱石は「英文和訳」をどう教えていたのか――松山中学時代の授業に見る「シンタックスとグラムマー」の世界――

明治時代の英語教育というと、多くの人は「難解な英文を和訳するだけの授業」をイメージするかもしれません。
しかし、実際の夏目漱石の授業は、それほど単純なものではなかったようです。
赤木桁平『夏目漱石』(講談社学術文庫、2015年)の中には、漱石が1895年(明治28年)、愛媛県尋常中学校(1899年に愛媛県松山中学校と改称。現在の愛媛県立松山東高等学校)で英語教師を務めていたころの授業風景が紹介されています。
教材は、Washington Irving の『The Sketch Book』です。
そして、その授業について、教え子の一人は次のように回想しています。
「言葉ばかりか、文章の解剖までして、シンタックスの説明がやかましい。」
この一文は、当時の漱石の英語教授法を理解する上で、極めて興味深い証言です。
「シンタックス」とは何だったのか
現代の日本では、「文法」といえば grammar を指すことがほとんどです。
しかし、明治期の英語教育では、grammar と syntax はかなり意識的に区別されていました。
grammar は、いわば単語レベル・品詞レベルの規則です。
時制
冠詞
前置詞
動詞変化
関係代名詞
などを扱う。
一方、syntax は「文の構造そのもの」を扱います。
つまり、
主語はどこか
動詞は何か
修飾関係はどうなっているか
従属節はどこにかかるか
文全体の骨格はどうなっているか
を細かく分析する作業です。
漱石の教え子が「文章の解剖」と表現しているのは、まさにこの syntax の授業だったのでしょう。
単に「この単語はこう訳す」という話ではなく、
「なぜ、この語順になるのか」
「なぜ、この副詞がここに置かれるのか」
「この関係詞節はどこまで続くのか」
を徹底的に読み解いていました。
つまり、漱石の授業は「精読(close reading)」そのものだったわけです。
なぜ漱石はそこまで細かく読ませたのか
ここで重要なのは、漱石自身が「英語を外国語として学んだ日本人」だったことです。
漱石は、決して幼少期から英語環境にいたわけではありません。
ネイティブ教師の自然習得型教育を受けたわけでもありません。
むしろ、
漢文素養
文法分析
構文把握
精密な読解
によって英語を身につけていった世代でした。
だからこそ、漱石にとって英語とは、
「感覚で読むもの」
ではなく、
「論理的に解剖するもの」
だった可能性があります。
実際、当時の旧制中学・旧制高校・帝国大学の英語教育は、現在の英会話中心教育とはかなり異なっていました。
音読や会話練習よりも、
原書読解
文法分析
和訳
構文解析
が重視されていました。
これは単なる「時代遅れ」ではありません。
当時の知識人にとって英語とは、海外の学問・思想・文学へアクセスするための「読書言語」だったからです。
つまり、「話せること」よりも、「難解な文章を正確に理解できること」が重視されていたのです。
その意味で、漱石の授業は、当時としては極めて本格的な学術的英語教育だったとも言えます。
『The Sketch Book』を教材に選んだ意味
ここから先は

「英語関連記事のまとめ」
当マガジンでは、2025年4月以降にnoteで発表してきた英語関連記事をまとめてみました。ふだん何気なく使用している英文法や英単語の語義・…

「つれづれなるmy歳時記」(2023年5月執筆分~)
2023年5月以降にnoteにおいて発表してきたエッセイや短編小説・クイズ・言語に関する練習問題などからピックアップして、当マガジンにまと…
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
