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ウタをわすれたカナリヤは

最後に心から「書きたい」と思ったのはいつだっだか。
自分の心の奥底から溢れる言葉を絞り出し、綴ったのはいつだったろうか。

いつのまにか私は、人の言葉の記録者であること、誰かの心を代弁をすることが「書く」ということだと信じ切っていた。

「相手を満足させるものを書く」
それがライターとしての自分の価値であり、アイデンティティーであり、使命なのだ。
そう信じていた。

しかし、出発点は違っていた。

「好きを仕事にする」という、いかにも脱サラした中年世代が目を輝かせて飛びつきそうなライフスタイル。
勇猛果敢だった(能天気とも言う)当時の私は4年前、自分の直感に従い、その世界に飛び込んだ。

昔から「書く」ことは好きだった。
それまで「書く」を仕事として選んだことはなかったけれど、私の人生はいつも「書く」という行為がセットだった。

中・高時代、友人とノートを交換しながら夢中になって書いた恋愛小説。
大学時代、兄のワープロを借りて、見様見真似で書いた初めての小エッセイ。
出産・育児の中で感じていた社会との断絶や孤独感を救ってくれたのは、息子との記録を綴った育児ブログだった。
そして、その文章を面白がって読んでくれた読者の存在が「こんな私でも存在価値があるのかもしれない」という希望の光となった。

少なくとも私にとって「書く」という行為は、ChatGPTに要旨をブチこみ、誰にでもわかりやすく、論理的で、卒ない文章を書くことなんかではなかったはずなのだ。
もっと本質的で、自分の心の中から湧き出る強烈な何かを、カタチに残すことだったはずなのに。

「書く」ことを仕事に選んだ私は、いつしか自分の心の中から湧き出る言葉を封印するようになった。

自分の言葉はお金にならない。
人が満足する言葉を綴るからこそ、そこに「価値」が生じ、それが「対価」となる。

「書く」ことの本質からどんどん遠ざかっていった私は、やがて疲弊していく。
あんなに好きだった「書く」ことが、納期に追われ、お客様の意図によって修正を余儀なくされる「誰かを満足させるための納品物」としてしか、捉えられなくなっていた。

あ、誤解のないように申し上げておくと、これはお客様のせいではない。
私の中で無意識レベルで起きていた「一人コント」のせいなのだ。

自分の言葉はお金にならない。
だから、誰かが満足するものを提供せねば、おまんまが食べられない。

この思い込みが、全ての発端だったのかもしれない。

そもそも直感型の私にとって「左脳で考え」「意図的に」「戦略的に」実践することは、自分に負担をかける行為でもある。
サラリーマン時代に鍛えた「左脳派思考」で、人並みに戦略も計画も立てられるし、実行するための手段も知っている。
だが、この世界は私には合わないのだ。
だから、私は会社員を辞めたはずなのに。

もとの木阿弥。
同じループの中に、いつのまにか舞い戻っている私がいた。

カナリヤが忘れてしまった「ウタ」は、私にとっては「自分の言葉で綴る」ことだった。

自分の言葉を忘れたライターは、いったいどこへだとりつくのか。
都会の雑踏に捨てる?
地中の奥深くに埋める?
自分のお尻に鞭を打ち続けて、今の延長で生き続ける?

ピンポンパンポン♪大正解!の答えがどれかなんて、わからない。
でも、きっとどれも違う。
それだけはなんとなく、湧いてくる。

そして少なくとも今、この文章を書いている私は、少しずつ自分の言葉を取り戻し始めている。

複雑にしているのはいつも自分自身だ。
真理は本当はシンプルで、いつも私に語りかけていてくれるものなのだ。
その声に気がつかないのは、さまざまな恐れや不安が生み出す「思い込み」という蓋で、自分の耳を塞いでいるから。

ひとまず今夜、ぼーっと一人静かに月を見上げ、自分の言葉の海に揺蕩うところからはじめてみようか…。

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「金糸雀(カナリヤ)」
詩:西城八十 曲:成田為三

唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は
後(うしろ)の山に棄てましょか
いえ いえ それは なりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は
背戸(せど)の小薮(こやぶ)に埋(い)けましょか
いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は
柳の鞭(むち)でぶちましょか
いえ いえ それはかわいそう

唄を忘れた 金糸雀は
象牙の船に、銀の櫂(かい)
月夜の海に 浮かべれば
忘れた唄をおもいだす


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