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書かれたものと書かせたもの / 青木淳悟・論 (1)「四十日と四十夜のメルヘン」

古谷利裕

※「四十日と四十夜のメルヘン」は、新人賞受賞(「新潮」掲載)バージョン(=『匿名芸術家』所収バージョン)と、単行本バージョンと、文庫本バージョンと、それぞれの段階で大幅に改稿されていて、かなり違ってますが、ここで書いているのは単行本バージョンについてです。

1 「四十日と四十夜のメルヘン」


1.


 「四十日と四十夜のメルヘン」の冒頭、主人公は、住んで いるアパートのポストを確認した後、スーパーの買い物袋を下げて四階にある自分の部屋まで階段をのぼってゆく。階段をのぼりつつ、この建物「都営住宅メイフラワー下井草」が、四階建てであるとか。エレベーターがないとか、三階には誰も住んでいないとか、玄関の扉が緑色だとかいうような、住宅についての説明が主人公=話者によって述べられる。そして主人公は、自身の住居のある四階まできて、隣室(四〇二号)のアルミ格子に挟んであった新間に肩が触れてそれを落としてしまい、その新聞をひろって自室に持ち帰る。この時に主人公は、はじめて隣室の新聞を盗む。後に出てくる日記の記述と照合するならば、この冒頭の出来事は、七月六日の日曜のことだとわかる。

 その後、一行分のスペースが空けられ、さらに、隣室は表札がない、男女二人で住んでいる、女の様子はこうで、 男の様子はこうだ、というように、アパートについての説明の延長のように、隣室についての記述がなされる。だから読者は、ここでは当然時間が連続しているように感じる。 しかし、隣室についての説明が一区切りつき、段落がかわったとたんに、《四〇二号の新聞を盗みつづける。《最近はいつも部屋を出がけに隣室の新聞を抜き取り、そっとバッグにしまい込んでそのまま外出する》などと書かれる。いつの間にか、新聞を盗むことが習慣化するほどに時間が経ってしまっている。

 この小説の地の文の一人称の話者=主人公は、冒頭にポストを覗き、《今日》全く同じチラシが五十枚以上まとめて役されていたことを嘆いている。

ポストを開けると同じ顔をしたチラシが二枚ほど収まっている。わたしはうなずいて、そのどちらか一枚を捨てるだけだ。しかし今日、ポストにはまったく同じチラシがおそらくは五十枚以上( ! )投函されていたのである。こういう心無い干渉が人を痛めつけることになる。 だってわたしは集配物で、その日その日を占ってきたのだから。

「四十日と四十夜のメルヘン」

 ここに《今日》という、話者が存在する時間的地点を特定するような言葉がなければ、話者はどこか確定出来ない未来から、過去の出来事について語っていると考えられるので、この唐突な時間の飛躍をそれほど不自然だとは感じないかもしれない。しかし、話者が《今日》と言うからに は、少なくとも冒頭の一まとまりのシーンについては、 今日のことが今日のうちに語られているはずだと感じる。だが、この《今日》という特定は、いつの間にかどこかへ行ってしまう。ここでは、たんに「描かれている時間」が飛躍しているのではなくて、それを語っている視点(語りの基盤)そのものがずれ込んでしまっているの だ。七月六日の日曜日であったはずの《今日》に置かれて いた「視点」は、断層を挟むことなく(住居についての説明がつづいているうちに)、滑らかに、どこか不確定な別の点へと、知らないうちに移動してしまっていたのだ。

 さらに、ここで《今日》が見失われている以上、後に書かれ る、いつも出がけに新聞を抜き取っているという《最近》が、一体いつのことなのか、どの地点からみられた《最近》なのかも、さっぱり分らなくなる。《今日》というある特定された時間的地点が、《最近》という曖昧な幅のある時間へとずれ込んでいる(しかもこの《最近》には《今日》は含まれない)。冒頭のほんの三、四ページの、描かれた内容からするとなんということもないこの冒頭部分だけで、この小説は何ともいえない、気持ち悪い、納まりの 悪い感触を、読者に突きつけている。

 通常の一人称とし て、話者としての「わたし」と、それによって語られる主人公の「わたし」との距離の操作が安定しているような小説であれば、決して《今日》や《最近》と書かれることはなく、おそらく「この日」とか「この頃には」と書かれる はずであろう。


2.


 しかし、この小説における「わたし」の位置の不確定さは、なにも時間的な位置にばかりあるわけではない。例えば、この物語を語る者でもあり、この物語によって語られ ている者でもある「わたし」が、男性なのか女性なのか、 それをはっきりと特定出来るものがこの小説の内部には存在しない。
男性名の作家による、特別になにかしらの性別的な徴をもたせていない「わたし」という一人称の小説を読む時、読者は当然のように、それは男性であると思い込んで読み進めてしまう。しかし終盤になると、どうもこの主人公は女性ではないかと思わせる徴が多くあることに気がつく。メルキュールをメーキューと読み違え、グーテンベルクをブーテンベルクと書き間違う主人公を、読者は男性だと読み違えてしまっていたかもしれないのだ。

 このことは、終盤、 上井草という名前をもつ「彼」が登場することからも察せられる。主人公の部屋に溜まったチラシを捨てるためのアイディアを出し、それをわざわざ隣りの区のゴミ捨て場まで運んだり、引っ越しの時に、ベッドを廃棄するために一緒に下まで運んだりする、一緒に住んでいるらしい「彼」の存在によって、主人公の性別が女性であったのではないかと推し量られる(この「彼」も、いつから一緒に住んでいるのか分らず、ある時突然にあらわれる)。だがここで 「わたし」がはっきりと女性と特定出来ることが書かれているわけでもない。主人公は男性で、上井草は、ただのルームシェアしている同性の友人かも知れないし、二人はゲ イのカップルであるかもしれない。しかし、一度、主人公を女性ではないかと疑い出すと、その徴候は小説中のいたるところに埋め込まれていることが、事後的に分る。

 些細なことがらに対する過剰なこだわりが感じられる記述には注意が必要だろう。そこに往々にして、こだわりが示されている過剰な細部そのものではなく、その過剰性の目くらましによって隠そうとしている別の何ものかが 存在していて、そちらの方が重要であったりする。「四十日と四十夜のメルヘン」では、何度も反復的に記述される日常的細部はあきらかに暗号解読的な読みを誘うようにして書かれている。

 そしてこの小説は、読み込めば読み込むほどに、めくるめくような細部同士のあやしげな反響がみえてきて、その反響関係によって示されるものに注意が誘われるようになっている。しかしここでは、そのような暗号解読(と人を向かわせる誘惑こそが、別の何ものか、もっと言えば、ごく散文的な事実を隠しているように も思われる。

3.

 この小説でまず最も目につく「あやしさ」は、同一の日付をもつ日記が、何度も繰り返し書かれていることだ。つまりここでは、日記につけられた日付と、それが実際に書かれた日付との対応関係が、まったくあてにならないものとなっている。

 この日記は、日付と曜日のみが記されているだけで、そ の年次までを特定することが出来ない。だが七月四日の金曜日から、七月七日の月曜日までが繰り返される曜日を頼りに年次を推測することは出来る。七月四日が金曜である最近の年は、1997年と2003年である(この小説は 2003年に発表されたものであるから、それ以降はとりあえず省く)。そしてこの日記には、七月六日に杉並区長選挙があったと、繰り返し書かれている。この二つの事実 を組み合わせると、97年には杉並区長選挙はなくて、03年にはあるので、この日記は、ほぼ2003年のものだと言えそうである。しかし、小説を読みつづけてゆくと、主人公は短冊状に切ったハガキに「今月、恐怖の大王が降りてきませんように」などと願い事を書いている。

 ノストラダムスの予言は1999年の七の月であり、そして、99年には杉並区長選挙は行われている。しかし、89年の七月六日 は日記と違い日曜日ではないのだ。さらに、主人公は月曜 にフランス語を習いにいっているのだが、《ともあれ月曜日は西東京市へ、というか、あの頃はまだ二市合併前だから正確には田無市へ、わたしはフランス語を習いにいった》と書かれている。

 田無市と保谷市が合併したのが2001年であるので、そうなると日付の年次が2003年ではありえなくなる。だとしたら、チラシの裏に書かれた、 断片的な日記の日付と曜日との対応がそもそも信用出来ないものなのではないか、と不安になる。これはたんなる一 例に過ぎず、このような時間の混乱は作中にいくつも仕掛けられている(読めば読む程、驚くほどにごろごろ出て来る)。そしてこの混乱は、主人公がアパートの部屋に雪崩を起こしてしまうほどに溜め込んだチラシの山や、小説教室の講師である小説家「はいじま みのる」が、二年の月日を費やして翻訳した「ユルバン記」の千枚にも及ぶ紙片、メルヘンのなかで舞い散る紙吹雪などと響き合いつつ、この小説の圧倒的な迫力をつくりだしている。

  だが、このような、自らの立ち位置が崩れてゆくよう な、細部相互の圧倒的な反響と混乱の迫力によってみえなくなるものは何だろうか。例えば、この日記はなぜ、七月 四日からはじめられ、七月七日までつづけられて、その間 を何度も繰り返しているのだろうか。その点に関しては、 それらしい答えがこじつけられないわけではない。主人公はメイフラワー下井草というアパートに住んでいる。メイフラワー号と言えば、清教徒たちがアメリカに移住するために乗った船の名前であり、だとすれば七月四日とは、アメリカの独立記念日を意味するのではないか。

 実際、この小説にはキリスト教的な主題が散見される。イエズス会や ロシア正教から、エホバの証人まで、「キリスト教ネタ」は、陰謀史観にも通じるような、この小説のあやしさを一層あおりたてているように思われる。あるいは、この小説 は常に「四」という数字を巡って仕掛けられている。七月四日からの四日間が繰り返し日記に書かれるし、出来事から予想される年次1999年と、曜日と日付から予想される年次2003年とは四年のズレがあるし、主人公は四〇一号室の住人である。そして、杉並区長選挙は四年に一度だ。この「四」という数字は智天使ケルビムの顔の数に起源をもつのではないか、等々。

 しかし、そのような細部の反響に煽られることなく、もっと素朴に読んでゆくと、一体何が見えてくるだろうか。 七月四日に日記が書き始められる直前に起こったこととは何だろうか。おそらくその出来事が、日記を書く動機に なっているのではないだろうか。この小説の、細部の混乱と充実にまどわされずに、あくまで素朴に読むならば、それは、主人公が文芸創作教室の最終講義を休んだという事実であり、その同じ講座の受講生からかかってきた電話に対して、ボーリング大会やお食事会といった「打ち上げ」 には参加出来ないと告げたことであろう。文芸創作教室の講師「はいじまみのる」は、主人公に課題作品の返却が出来なくて困っている、という旨を、その受講生に告げている。

 だが、小説の記述によれば、主人公とはいじまと は相当に親しい関係であり、主人公ははいじまの自宅へも度々訪れ、彼のデビュー作「裸足の僧侶たち』のもととなった「ユルバン記」さえも読ませてもらっている。それどころかはいじまは、昭島にある自分の家が火事になって燃えているその時に、その事実を知らせる電話を主人公にしてさえいる。それほど親しいのならば、課題作品は本人に 直接に会って返せばよいのではないか。それが出来ないと いうのは、二人の関係が、それが出来ないようなものになったということだろう。そして、主人公はどうも女性ではないかという疑いが生じた後で、一番考えやすいその理由は、二人の恋愛関係が破綻した、ということではないだろうか。そしてその破綻が、そもそもこの小説は「はじまり」にあり、それが小説が(記述が)たちあがる「とっかかり」となったのではないか。

 主人公は、はいじまが口にしたという「新しい小説を書いて下さい」という言葉に執拗にこだわっている。《ニコライ先生のいう「新しい小説」とは、新たに書き出せという意味に過ぎないのだろうか。あれにはもっとほかに意味があったのではないのか。新しい小説を書いて下さい――― その言葉を人から伝え聞いたとき、何となく励まされた気がしたのだ。響き方が普通じゃない、きっと何かある、と 思った。しかし小説はまだ書けていなく、最近はなぜか日記をつけることしかできないでいる。》ここで言われる 「新しい小説」を、読者は、はいじまが主人公の才能を見 込んでいて、従来には無い「新しい」小説を書くようにと励ましていると読むのだが、しかし、実は、たんに「新しい恋人を探してください」程度の、つまらない言い換えに 過ぎないかもしれない。

 日記の日付は、七月七日から先に進むことはない。この日に主人公は、「新しい小説」を断念して「メルヘン」を書こうと思い立つ。これ以降主人公は、メルヘンを書き継ぎつつ、七月四日から七日までの四日間の出来事を繰り返し何度も日記として書くことになる。何度も書き直され、 書き加えられるうち、この四日間の記述のなかに、それ以降の出来事も混じり込んで来る(例えば、隣室の新聞をは じめて盗んだのが七月六日であるはずなのに、同じ日付のうちに、いつの間にか部屋には盗んだ古新聞がたまってゆ く。それどころか、ノストラダムスの予言した七の月は無事に過ぎた、という旨の新聞記事を、七月であるはずのその日に「古新聞」で読んだりする)。

 メルヘンは、日記の記述と互いに密接に響き合うように書かれる。つまり、メルヘンの記述は、日記の日付以降の主人公の生活を反映しているといってよいのだろう。それは主に、理不尽な労働 と、叶わないであろう恋愛に関する事柄で埋められてい る。ただ、メルヘンと日記との違いは、主人公は女性である(と思われる)のだが、メルヘンの主人公クロードは男 性であること、そして、クロードが画家であることだ。

 しかし、クロードが画家だという設定は、メルヘンが書き始められた当初からあったわけではなく、小説も終盤に近くなってからいきなり、《クロードは簡単な夕食を済ませると、画材屋へ行くため画架に被せてあった夏外套を取り上げました。》という文章があらわれ、画家だということが 知られるのだ。そして、メルヘンのこの部分が示されたすぐ後に、画家である「彼(上井草)」が、はじめて、唐突に姿をあらわす。このことを考えあわせると、主人公がこの小説の記述の外で上井草という画家と出会ったことによ り、主人公の、性別を反転させた分身であるクロードに、 上井草の属性(画家)が付け加えられたのだとみることが できる。

 それに対応するように、メルヘン内で、クロードの隣室にシモイグサという名の「女性」があらわれる。この女性は、無数の紙片を用いてコラージュする人である。 男性であり、絵の具を扱う上井草が、メルヘン内では、女性であり、紙片を扱う者シモイグサへと反転し、女性であ り、紙片を扱う者である主人公は、男性であり、絵の具を扱うクロードへと反転している。この仕掛けられた反転的関係が、主人公が女性ではないかという推測の一つの根拠ともなる。そして、上井草は、主人公の部屋で雪崩れるほどに溢れていたチラシを片付ける存在であり、また、雪崩れ を塞き止める「ダム」を描く画家でもある。(隣室に住む 《絵画制作に励む》男性が、上井草があらわれた後で姿を消してしまう、という、隣室との反転的関係もみられる。)

 以上のことを考えれば、「四十日と四十夜のメルヘン」 の語る物語はおどろくほど単純であると推測される。主人公は文芸創作講座に通ううちに講師の小説家「はいじま みのる」と親しくなり、恋愛関係になるものの、その関係 は、最終講義を前に破綻する。主人公は、新しい小説を書き出す気にはなれずに日記を書き始めるが、毎週月曜に通 っているフランス語講座のテキストをその前夜に眺めている時、テキストの登場人物、クロードとクロエを使って、 パリを舞台に現実逃避的なメルヘンを書こうと思いたつ。 しかしそのメルヘンもまた、否応無く自身の現実を反映するものになってしまい、ハッピーエンドにもってゆく筋道 がみえない。日々の生活は、同じ日付の日記を反復するように単調につづく。そんな時に、新しい恋人、上井草に出会う。

 しかし、これらのことを、この小説は、直接的にはまったく語ってはいない。これらのことは全て、この小説というテキストの「外側」で起こっている出来事なのだ。

 ここで主張したいのは、この小説が、分り易い物語を、わざわざ分り難く描いているということではない。この小説に書かれている言葉は、読み返すたびに、細部相互の複雑な反響をあらたにつくりだすような、それ自体としてきわめて充実した構築性をもつものである。

 だが同時に、それは表面的な記述とは「別のなにか」を隠し持っているのではないかという予感を、読者に強く与えるものでもある。それ自体として充実していると同時に、その背後にある謎へと人を誘おうとする。しかしその謎は、いかにも解読を誘発するようなあやしげな細部の深読みによって得られるものではない。それはトラップである。勿論、そのトラップにハマってしまうこともまた、この小説の愉しみの一つである。しかしその謎とは、実はテキストの外側にある、きわめてありふれた、しかし現実的な事柄との 関係をもっている(のではないだろうか)、ということなのだ。

 散乱し、読んでいるこちらも自身の位置と時とを見失ってしまうような細部の反響が、単純な物語(ツジツマ) へと回収されてしまうというのではない。そうではなく、そのどちらともが、(書かれた)ポジティブな形と(書かれていない)ネガティブな形として、緊張を保ちつつ、拮抗しているということなのだ。
(つづく)

初出 「新潮」2008年2月号 (「フィクションの音域」所収)


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