眠りの森の植木屋さん 第十一話「雨上がり・前編/高宮 花」
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第十一話「雨上がり(前編)」
「バーについて、一のポジションから」
レッスン場に母の声が響き渡り、壁際のバーに手を添えたレオタード姿の生徒達の背筋が一斉にピンと伸びる。
足の形は、基本のアン・ドゥオール。左右の踵を背面同士でつけて、右のつま先から左のつま先まで一直線に。初心者が悪戦苦闘するこのポーズは、物心が付いた時には自然と身についていた。
レッスン場が心地の良い緊張感に包まれ、ジュニアクラスの子ども達の手が、足が、次々と同じ形をたどる。そしてその合間合間に飛ぶ、母の声。
「〇〇ちゃん、もっと背中を意識して」
「△△ちゃん、いいわよ、その調子」
私はそれを聞き流しながら、当り前の様に身体に染みこんだポジショニングを繰り返しつつ、自分の口元がニヤけている事に気付く。
この後は、発表会の配役が告げられる予定だ。ジュニアクラスが演じるのは、『眠れる森の美女』。
それは私が、プロのバレエ団による全幕物の舞台を初めて観た際の演目でもあった。
繊細で美しい踊りを次々に披露する妖精達や、妖しくもコミカルな邪悪の精霊・カラボス。手に汗握る緊張の場面が続き、フィナーレはお祭り騒ぎの結婚式で迎える。そして、オーロラ姫とデジレ王子の、ため息が出るようなグラン・パ・ド・ドゥ。
幼心に受けたあの衝撃は、今も新鮮なまま心に焼き付いている。
そんなオーロラ姫は私にとって最も思い入れのある役で、ジュニア・バレエコンクールで初めて受賞した時に踊ったのも、オーロラ姫のバリエーションだ。このクラスのメンバーを考えれば、間違いなく私が選ばれるはずだと信じて疑わなかった。
けれど主役に指名されたのは、一学年上の大橋あずみちゃんだった。
当時、母のバレエ教室のジュニアクラスで受賞歴があったのは私とあずみちゃんの二人で、だけど賞のランクは私の方がずっと上。レッスンが終了し、教室と自宅を繋ぐ扉をくぐったと同時、私は母に抗議をしたが、母はまるで厄介者でも見るかのような目でこう言い放った。
「自分の教室の発表会で、そう何度も娘に主役をやらせるなんて出来るわけが無いでしょう。そのくらい、私が言わなくても分かりなさい」
私がオーロラ姫を演じられない理由は、十一歳の私の力不足でも何でも無く、むしろ原因は母の方にあったというのに、私が理不尽に受けた悔しさや悲しみはその本人から一蹴された。
大人には大人の事情があるだろう。結果は同じでも良かったはずだ。ただあの頃の私は、娘である私の心の内に耳を傾けてくれたり、親子としてきちんとぶつかり合ってくれる事を、切ない程に求めていた。母が私を見てくれる唯一の場、バレエの事ならばと、すがるような思いで切り出したのだろうに。
こんな思い出も、あの時の感情も、母親への期待と執着も、冷静に分析する今の自分すらも、全部消えて無くなってしまえばいいのに。
こうやって、黒い沼に引きずり込まれそうな時は、いつも千早の声がする。
「花、また落ち込んでるの? 大丈夫?」
千早は、いつも私の一番の味方だ。千早が居れば、きっと大丈夫。
たとえ、お前は頭がおかしいと笑われ、他の大切な何かを失うのだとしても。
・・・・・
最近の私は、自分でも笑ってしまうほどに不安定だった。
自分から終わらせたくせに高虎さんの事を思い出しては涙し、荒ぶる感情を仕事にぶつけて何とかやり過ごしていた。銀ちゃんが居る事もうっかりと忘れるくらいに千早との会話もだだ漏れで、それでも動じない銀ちゃんの存在が心強く、そうだ、どうせ私はこの先一人で生きるのだから、もし私が突然に車に轢かれてこの世を去るような事があれば貯金は全てこの子に贈りたいと、遺言状の書き方を検索する始末。
そんな日々を送る中で、普段はなるべく控えている寝酒をした晩、私の事をずっと地味に悩ませ続けている、ある人物の事が頭を過った。
三年前に別れた元恋人、赤間。私からは一切の返信をしていないのにも関わらず、復縁と謝罪を求める脅迫じみたメッセージを定期的に送って来る、全くもって理解不能な男だ。
以前、あずみちゃんに相談した時、彼女は医師の顔になってアドバイスしてくれた。
実害が無いのであれば、そういう人間からのメッセージは下手に遮断しないほうが良い。一方的であれ、連絡をする事で何とかガス抜きをしているのだから、それが突然断たれてしまうと暴走してしまい、そこから事件に発展した例が少なからずあると。基本は完全放置にして、くれぐれも反応や刺激をしないようにと念を押された。
そしてもう一つ、「これは友達として」と前置きをした上で、彼女はいつに無く厳しい口調でこう言った。
「そいつが目の前に現れるような事があれば、全力で逃げな。家を知られているとしたら、完全に逃れる方法はただ一つ、引っ越ししかないと思って。大袈裟なって思うかもしれないけど、お願いだから、あたしの言った事を覚えておいてね」
それらを肝に銘じていたはずだったのに、つい、やらかしてしまったのだ。
『いい加減、気持ち悪い もう一生連絡してくるな!!』
三年ぶりの返信をし、知られている可能性のある私の連絡先全てで徹底的にブロックをした。
つまり、危険人物のガス抜き方法を完全に遮断してしまったのだ。それも、思いきり刺激をした上で。
翌朝、冷静になってから自分を責めたが、幸いにも私は赤間と別れた直後に引っ越しをしていた。仕事も辞め、以前の職場に通っているわけでも無い。突撃される可能性は、まず無いだろう。
ホッと胸を撫で下ろし、三年分の鬱屈から解放された喜びから、思わず一人で拳を突き立てて歓声をあげると、ドアの隙間、銀ちゃんの綺麗な瞳が冷ややかに私を見つめていた。
そして、昨夜。新国立劇場で『くるみ割り人形』を堪能し、その余韻に浸りながら帰路に着き、電車を降りた時の事。
駅の階段で、ああ、ここで高虎さんに助けてもらったなと、またうっかりと思い出してしまい、視界が涙で滲んだ。そのままハンカチを片手に、駅近とは言えない自宅まで夜道を歩いた。
マンションの敷地内に足を踏み入れたタイミングで、通話がかかってきた。銀ちゃんだ。
『まだ帰ってないんだ? 僕の方が先に着いちゃった』
「ああ、鍵が無いもんね。私ももう目の前に着いてるから、そのままドアの前で待っててね」
私がその言葉を口にした直後、すぐ背後ではっきりと舌打ちをする音がして、それから走り出す足音が聞こえた。思わず振り返ると、ステンカラーコートにリュックを背負った男性の後姿が、外灯に照らされながら角を曲がって行くのが見えた。
もし、単なる近所の住人だったとしても、舌打ちが聞こえたのは明らかに不自然な距離感だった。そもそも、なぜ逃げるように去っていったのか。
ーーーーーつけられていた? 一人暮らしの女性を狙った性犯罪者か、押し入り強盗か。グズグズと泣いていたせいで、全然気付けなかった。きっと、隙があると思って目を付けられたんだ。
恐怖心から足がもつれ、必死になって銀ちゃんを目指し、玄関前で立ち尽くす九頭身の高身長が視界に入った瞬間、心の底からホッとした。銀ちゃんは私の様子がおかしい事に気付いたようだが、そもそも最近の私はずっとおかしいので特に何か尋ねられる事は無く、私は私で一秒でも早く横になって安心したくて、今起きた危機についての話は明日にしようと後回しにした。
「散歩、行かないの? 今日は僕も一緒に行こうと思ってるんだけどな」
翌朝、私より早起きをしていた銀ちゃんはジャージ姿で、珍しく散歩に付き添いたいと言ってきた。
私は一晩考えて、昨夜のあれが赤間である可能性に思い至った。後ろ姿だったが、体型や雰囲気は似ていたように思う。
そして、私がイブにくるみ割り人形を観に行く事は、彼と付き合っていた頃からの恒例だ。三百六十五日のうち、昨夜だけが私を待ち伏せする大チャンスだった。本当に赤間なら、すでに劇場からつけられていたという事になる。どう考えても、尋常では無い。
「……散歩は、行くかどうか迷ってるところ。ねぇ、銀ちゃんがうちを出て行くの、明日だったよね」
「うん。明日のお昼過ぎにここを出て、福岡行きの便に乗る予定だよ」
何てタイミングが悪いんだろう。実家には頼れないし、あずみちゃんの家に泊めてもらうのは物理的に無理がある。祥子おばさんなら、事情を話せばきっと受け入れてくれるに違いない。しばらく泊めさせてもらって、その間に新居を探して……。
ーーーーー私、この町とお別れをするのか。
「銀ちゃん。散歩、行こう。一緒に来てくれるの、凄く助かる。事情は歩きながら話すけど、念のため変な人が居ないか気を付けながら歩いてね」
自宅を特定されてしまったとしても、赤間は普通の勤め人だ。こんな平日の早朝に再びやってくる事はまず考えにくいし、銀ちゃんが一緒の今が出歩くチャンスだ。
ここを去る前に、もう一度ちゃんと見ておきたい。あの人との宝物のような思い出が詰まった、この、大好きな町を。
東の空がぼんやりと白み、朝が夜を追い払っていく。この瞬間のこの町が、一番好きだ。
住宅街を抜けて公園に足を踏み入れると、大きな池に浮かぶ鴨達の姿が目に付く。水鳥を数えつつ池に沿って歩くと、やがて遊歩道に入る。紅葉の絨毯は姿を消し、すっかりと冬めいた空気が私を包んだ。
私は道すがら、昨夜の出来事と、それから相手が赤間である可能性を銀ちゃんに説明した。話がひと段落すると銀ちゃんは足を止め、いつになく真剣な顔で言った。
「警察に行こう。今から、この後すぐに」
「実害があったわけじゃ無いし、赤間だっていう確信も無くて。今の段階で、まともに取り合ってもらえるかどうか……」
「赤間さんだとしたら花の事が心配だし、別の人だったとしてもやっぱり花が心配だ。それに、もし通りすがりに目を付けられたのなら、他の女性が被害に遭うかしれないんだから、不審者の情報を伝える事は大切じゃない?」
確かに、それはその通りだ。ああ、銀ちゃんってば、すっかり大人になって。
この子が小学校に入学する時、中学生の私にすがって「一緒に通いたかったのに」と泣いていたランドセル姿を思い出し、一人、感慨に耽った。
「分かった、警察に行こう。でもその前に、見ておきたいコンビニがあるの。お店に寄るんじゃなくって、離れたところからそのコンビニを見るだけだから。それだけはさせて欲しい」
私がそう言いながら再び遊歩道を進みだすと、銀ちゃんも横に並んで「別にいいけど」と不思議そうな顔をし、歩きながら話を続けた。
「僕、仕事はキャンセルしてしばらく花と一緒に居るよ」
あまりにさらりと言われ、耳を疑った。
「舞台に穴を開ける気!?」
銀ちゃんの主な需要は、そもそもが空席を埋める事にある。男性ダンサーが足りない、あるいは、男性の頭数は揃っていても技術的に演じられない役があるため、相手は決して安くない料金と交通費や宿泊費を支払う。
こんな直前でキャンセルをすれば違約金の支払いが生じるだろうし、個人でこの仕事をしている銀ちゃんにとって信用を失う事は致命的だ。
何より、今回の仕事内容は知らないが、プロでもアマでも関係無い、バレエダンサーだけでは無く、そこに携わる全ての人達がそれぞれに切磋琢磨し、一所懸命に創り上げてきたその舞台はどうなってしまうのか。
驚いて見上げた綺麗な顔は、一見いつものポーカーフェイスだったが、わずかに泳ぐ視線から動揺を隠しきれていない様子が伝わって来た。
踊る事しか知らず、バレエでもそれ以外でも、どこに行っても集団に馴染めなかった銀ちゃん。けれど、その才能とバレエを愛する気持ちは本物だ。人の舞台を台無しにした挙句、踊れなくなるかもしれないなんて、考えただけで足がすくんでしまう事だろう。
「仕事は行って。キャンセルなんか、絶対にダメ。銀ちゃんだって、行きたいでしょう」
「一人じゃ危険だって。花って、楽々運べちゃうし。どこか離れたところに避難するか、それが無理ならせめて男手が一緒に居ないと」
「後で祥子おばさんに連絡するつもり。しばらくは、銀ちゃんの実家に泊まらせてもらうね。私の事は大丈夫だから、全力で踊って来てね」
まだ幼かったこの子をあやした時のように、つとめて優しい口調で説得をした。しかし、返って来たのは肩透かしの現実だった。
「うちの両親、台湾に旅行中だから留守だよ。ついでに言うと、僕は実家の鍵を持ってない」
思わず足を止めた私を見て、銀ちゃんが苦しそうな顔で「やっぱり」と言いかけた、その時。
「おはよう!!」
私にかけられた言葉かどうかも分からないまま、反射的に声の方を振り向くと、遊歩道の木々の下、私がずっと心の中で思い描いていたツリ目があった。大きな挨拶の声とは裏腹に緊張した面持ちで、なぜか左耳を触っている。朝陽を背負った作業着姿が、眩しい。
ーーーーーどうして?
私の心の声に答えるかのように、銀ちゃんが言った。
「ごめん、前もって言っておくつもりだったんだけど、それどころじゃ無かったから。あずみちゃんが、二人は一度きちんと話をしてみた方がいいって。それで、散歩の時にこの公園を通る事を教えたんだ。今日、僕が付き添うって条件で。勝手な事して、本当にごめん」
銀ちゃんは私に早口気味に説明をすると、高虎さんに走り寄った。その銀ちゃんらしくない慌てた様子が、やはり私を取り巻く状況が緊急事態なのだと思い知らせて来る。
「室見さんもごめんなさい。僕達、今から警察に行かないといけなくなったんだ」
高虎さんに、会いたく無かった。どうしようもない感情を一人でなだめながら、吹っ切る努力をしていた最中だったのに。
ー----けれど、あなたの顔が、見たくてたまらなかった。
また涙腺が決壊しかけながらも目を離せずにいると、警察という不穏な言葉を聞いた高虎さんの表情が一気に険しくなった。
「どうかしたのか!?」
「花が大変なんだ!! あなたのゴリラのような胸板で、花を守ってよ!!」
銀ちゃんが真面目な顔で放ったその言葉に、高虎さんは思わず吹き出した。目尻に笑いジワが広がり、その強面が一気に崩れる。
ああ、もう二度と見られないと思っていたこの笑顔が拝めるなんて。サンタさん、かけがえの無いクリスマスプレゼントを、ありがとう。
それから銀ちゃんと高虎さんは、私そっち退けで二人で打ち合わせを始めた。
「僕の仕事は三日後の夜に終わるんだけど、福岡って市街地と空港が近いから最終便に滑り込む予定」
銀ちゃんの言葉を聞いた高虎さんは、「十八年分の恩を返してもらう時が来た」と言ってどこかに電話をかけた。電話相手とずいぶんと揉めたあと強引に話を終わらせ、「ちょうど明日の昼からの半日と二日間、スケジュール空いてたわ」と白々しく笑った。
「花、僕が帰って来るまでは室見さんと一緒に居てね。絶対にだよ」
戸惑っている私を見た高虎さんが、左耳を触りながら複雑そうな顔をした。違う、あなたの事を嫌いなわけがない。だからこそ、これ以上優しくされたく無い。またお別れする時に、きっと苦しくて耐えられないから。
「何を迷ってるの? こんな時なんだから、大人しく僕の言う事をきいてよね。千早さんは実態が無いから物理的には守ってくれないんだしさ」
ーーーーーああ、どんなに大人びたように感じても、やっぱり銀ちゃんは、銀ちゃんだ。
高虎さんの目の前でデリケート過ぎる話に触れられ、まるで辻切りに合ったような気分だった。いっそこのまま失神してしまいたい。意識を宇宙に飛ばして現実逃避をしていると、突然、「ああ!!」という声があがった。
声の主は、高虎さんだった。
「やっと分かった。俺、もしかして花さんは他に好きな男が居て、それを俺に言えなくて隠してたのかって……つまり、イマジナリーフレンドか」
イマジナリーフレンド。主に学童期にみられる、空想上の友達の事だ。実際あずみちゃんからも、千早はその延長線上のようなもので、自分にとって必要な存在なら治療なんてしなくていいんだよと言われた事がある。
そして高虎さんは、心底ほっとしたような顔をして、事もなげに言った。
「何だ、そういう事か。紫の一つ下の甥っ子にも居た事があってさ。俺は専門的な話はよく知らねぇけど、本人にとっては凄く大事な存在なんだろ? 変な勘違いして、ごめん」
それこそ赤間を含め、元恋人達から散々否定されてきた千早の存在。それをあまりにもすんなりと受け入れられた事に対する衝撃と、そして昨夜から続いていた強い緊張が重なって、私は早朝の公園で、まるで幼い子どものように声を上げて泣いた。
そんな三十六歳の私を、大の大人の男二人は、オロオロとしながら、だけど愛情一杯になだめてくれた。
・・・・・
その晩、いつもならリビングで横たわる銀ちゃんが、どうしても心配だからと言って私のベッドの下で寝息を立てた。すっぽりと寝袋に包まれ、顔面だけが露わになったその滑稽なはずの寝姿は、それでもやっぱり美しかった。
銀ちゃん色の薔薇の香りに包まれながら眠りに落ちた私は、不思議な夢をみた。
夢の中の私はオーロラ姫で、実にスッキリとした気分で百年の眠りから目を覚まし、爽快な足取りで窓辺に向かった。
オーロラ姫が目を覚ましたというのに、カラボスの呪いが完全には解けていないのか、お城のイバラは消え去っていない。だけどそのイバラ達は乱暴にお城を覆いつくしている訳では無く、すっかりと綺麗に切りそろえられ、見事に整えられていた。
ドレス姿で窓から顔を出した私の瞳に、中庭に咲きほこる沢山の薔薇と、それから逞しい体つきの男性が映る。
それは白馬に乗った王子様では無くて、ニつ折りにした長梯子を担ぎ大きなハサミを携えた植木屋さんで、今しがた仕事を終えたといった様子の彼は、素敵な笑いジワを浮かべながら嬉しそうにお城を見上げていた。
最終話『雨上がり(後編)』に、続く
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