【99%が誤解/教科書のウソ】ヘーゲルは「正・反・合」なんて一言も言ってない衝撃の事実。学校で習った「弁証法」実はデタラメでした。
ヘーゲルは「正・反・合」という言葉を使っていない
ヘーゲルの哲学を、しばしば「 тезис(正)→ антитезис(反)→ синтез(合)」という三段階で説明されますが、ヘーゲル自身がこの用語を自身の哲学の核心的な方法として使ったことはありません。ヘーゲルが用いた中心的な概念は「アウフヘーベン(Aufheben)」です。
アウフヘーベンは、「①否定する(aufheben)、②保存する(aufbewahren)、③高める(aufheben)」という三重の意味を持つ言葉で、ある段階が次の段階によって否定されつつも、その中身は保存され、より高い次元へと引き上げられる、というダイナミックな運動を指します。
「正・反・合」という定式化は、ヘーゲルの哲学を分かりやすく解説しようとした後世の研究者(特にハインリヒ・モーリッツ・ハリュベウスという哲学史家)によって広められたものとされています。

「正・反・合」はフィヒテの言い方に近い
先行する哲学者フィヒテの哲学、特に彼の「知識学」において、「我は我を定立する(正)」→「我は非我を定立する(反)」→「我は、非我によって限定された我を定立する(合)」というような三段階の思考構造が明確に見られます。ただし、文章が指摘している通り、フィヒテ自身もこれを「弁証法」とは呼んでいませんでした。
「弁証法(ディアレクティーク)」の本来の意味は「問答法」
古代ギリシャのプラトンが用いた「ディアレクティケー(dialektikē)」は、対話(ディアロゴス)を通じて、相手の意見の矛盾を明らかにし、より真なる認識へと至るための技術を指しました。これは、師であるソクラテスが実践した「エレンコス(吟味・論駁)」、すなわち文章が言うところの「問答法」が元になっています。これは相手の主張を一度受け入れた上で、質問を重ねていくことで相手自身の口から矛盾を引き出すという方法です。

まとめ
一般にヘーゲルのものとされる『正・反・合』は、実はヘーゲルが使った言葉ではなく、フィヒテの考え方に近い。そして、弁証法の本来の意味はソクラテスやプラトンの問答法であり、『正・反・合』とは直接関係がない。この混同が広く誤解として定着してしまっている。
日本の高校の倫理の教科書など、多くの入門的な解説書では、今でもこの「正・反・合」の図式で弁証法が説明されることが多い。

一般的に「弁証法」と言うと、ヘーゲルの説に基づく「正・反・合」で説明されますが、実のところ、この「正・反・合」という説明は、ヘーゲルの説の中には存在しません。
お互いに対立した意見を言い合って、落としどころで両者をまとめるのが「弁証法」と呼ばれるわけですが、大本となるはずのヘーゲルは、そんなことは一言も言っておらず、もちろん正・反・合などという言い方もしていません。
この正・反・合というのは、実はフィヒテの言い方なのです。
ところが、フィヒテもそれを弁証法とは呼んでいないのです。
ところが、多くの日本人が正・反・合が弁証法だと思っていますし、弁証法と言えば正・反・合であると説明されているのです。
「弁証法」を意味するドイツ語の〝ディアレクティーク〟は、古代ギリシャ語のディアレクティケーから来ているのですが、このディアレクティケーは「問答法」と訳される言葉なのです。
この「問答法」は、プラトンが始めた概念で、ソクラテスのやり方として説明されるわけですが、その基本は、相手の議論の中に一旦入り込み、相手にすべてを語らせた後、その言動の矛盾を示すことで、議論そのものを否定するというものです。
ソクラテス自身はエレンコスと呼んでいますが、よく言われるところのソクラテスのちゃぶ台返しは、正面から相手を否定するのではなく、相手にトコトン語らせた後、相手の中の自己矛盾を指摘して、最終的にひっくり返すというもので、実はこれが〝問答法〟の一番基本となるスタイルになるのです。
つまり、弁証法も本来はこの方法を意味するものに、正・反・合はまったく関係がない概念です。
もっともソクラテス的というか、プラトン的な議論のやり方は、相手に反論するのではなく、相手の主張をすべて確認した上で、その中に出てくる矛盾を指摘することです。
日本人の議論があまりうまく行かない理由は、お互いに論点が異なっているのにもかかわらず、自分の主張のみをぶつけ続けるからであり、それゆえ、相手を的確に批判することができないのです。
問答法の一番の基本は、相手の逃げ道を塞ぐことです。
相手の主張をすべて確認した上で、「あなたの主張からは、あなたの結論は出てこないのではないか?」という形で批判すれば、相手は「ごめんなさい」と言うしかないわけです。
ただし、このやり方では、相手を潰すことはできても、自分の意見を通すことはできません。
つまり、「問答法」というのは、相手をいかに潰すかという技術なのです。
現在語られている正・反・合とはまったく違うもので、ヘーゲルの語った「弁証法」は、この「問答法」に近い技術であり、それにもかかわらず、いつの間にかヘーゲルの説とフィヒテの説が混同され、しかも間違った意味で伝えられ、それがまるで常識であるかのように、高校の教科書レベルにまで書かれていることを、ここでひとつ指摘しておきたいと思います。
