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特攻隊と言われた祖母

8月6日に 祖母の涙と被爆3世の9歳だった私。という記事を書いた。


祖母が戦争について語ったのは1度きりだった。
しかし祖母の死後、遺品の中からメモやノート、原稿用紙が出てきた。
それらは鉛筆で、決して上手ではない文章で書かれている。

その中に1つだけ、大久野島で働いていた頃の体験を綴ったものが見つかった。

祖母の手書きのメモ


大久野島は毒ガスの島とも呼ばれており、昭和4年から昭和20年まで太平洋戦争に使用するための毒性のガスが大日本帝国陸軍によって秘密裏に製造されていた。
昭和初期は「地図から消された島」となっていた。
現在は国民休暇村ができ観光地となっている。島にはたくさんの野生のウサギが生息し「ウサギの島」とも呼ばれている。

日本軍が毒ガスを製造していたことは1984年(昭和59年)まで日本では殆ど知られていなかった。

そんな島で祖母は働いていた。
大正15年生まれの祖母。働いていた当時は18、19歳だったと思われる。


そんな祖母のメモを記したいと思う。
※祖母のメモをそのまま書き写しているため、読みにくいところがあります。

まさかの体験

午後の仕事始めに、黄燐塔に行った。(昨日受け入れた『ちび』の)製造年月日を見たら数を数え、帳面に書くため。

丸窓を開けると、小鳥は生きてゐた。
鍵を開け戸を開き、中の臭い空気を入れかえるのに二、三分程。中に入らず、外で待ち、それから入る。
入口の方から見てゆき、目が、慣れたら、奥の方へ行くつもりで、下の方から、年月日を見ていたら、右側の頭に、強いゴーンと言ふ痛みが走った。
それぎり、気を失った。
気がついたら、守衛さん、工員長、准慰、衛生員の人々の顔が、ずらりとのぞき込んでゐた。

一番新しい、一番強い毒ガス『ちび』が、自然発火し、私は、上に置いてあった枕木二間物が落ち、うつぶせに気絶したのだそうだ。
うつぶせに成って、ゐたので、助かった、と、言われた。
皆んなが、それぞれ、手や、足等、一生懸命さすって下さったそうだ。
血が止まるやうに、頭には包帯が巻いてあった。
黄燐塔の、天井には、黒輪が出来てゐた。
丸窓の小鳥も死んでゐた。

出口で、あった事と、うつぶせに、たおれた事が、幸せであった。
体がだるく、頭が、少し痛いぐらいで、その日は、定時に、帰った。

それから當分日、はち巻で、みんなに特攻隊と、言われ乍ら、きづの手当を三日程、久野島陸地病院でしてもらい、それからは、衛生室で包帯をかえてもらい休まず通った。

丸窓を開けると、小鳥は生きてゐた。
炭鉱のカナリヤならぬ毒ガス島の小鳥。大久野島がどれほど危険な場所だったのかを物語っている。

そして祖母が気絶から目覚め、見た黄燐塔は
天井には、黒輪が出来てゐた。丸窓の小鳥も死んでゐた。
祖母がうつ伏せに倒れていなかったら?
黄燐塔の奥に入ってからちびが自然発火していたら?
毎日が死と隣り合わせだった祖母。
母も私も、この世に生まれて来たことは奇跡なのかもしれないと思った。

それから當分日、はち巻で、みんなに特攻隊と、言われ乍ら
頭に巻いた包帯から「特攻隊」と言われた祖母。
負傷した祖母に「特攻隊みたいでカッコいいよ」と言いうニュアンスがあったのだろうか。特攻隊のことを思うと、切なくて複雑な気分になった。


そして祖母はこの後、広島市内に入市し被爆するで被爆した友人の体にわいたウジ虫を割り箸で取ることになる。


叔母(母の妹)によると祖母は晩年、自分史を書きたいと言っていたそうだ。

祖母の、拙く決して上手とは言えない文章。でもその文章から、字から、わかることが沢山ある。
私は時々、読み返す。
読むと大好きだった祖母を近くに感じる。
でもそこに見えるのは、私の知らない祖母の姿だ。

祖母が書きたかった自分史を、私はいつか何らかの形にしたい。

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