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『インディペンデントな日々』 - 第十一話 「好きとか嫌いとか」

前回で回想もひと段落したこの連載、今回は意識を現在に戻して綴ろう。


SNSを使い出して3年目、最初はインスタグラムだった。写真を投稿する、テキストはとくに添えない、好きの表明、そんな感じで。その一年後、今度はSNSの言論空間に参加するようになった。文字列主体のX、それからthreads。自身の作品や活動を発信したくなったのだ。

ぼくのなかでは「好き」の反対側にあるのは「無関心」で、"嫌い"はまた別の場所にある。好きと無関心は同列に扱うから行ったり来たりは比較的らく。グラデーションの中にあるから。

でも「嫌い」を語るのには別の熱源が必要。同列のグラデーションの中にはないから別のところから取ってきてそれがうまく混ざるように調理し直さなくてはならない。うまく言えないけれどそんな感じ。

自分の中に「好き」を設けることは、その対象に権威を持たせることだ。これまで生きてきてぼくはそのような言葉にしてそのことを理解してきた。ぼくは自分の好きに対してはバリバリの権威主義者なのだ。

文字列主体のSNSに触れていると、自分が権威を持たせている当のものに同じように権威を持たせている人に出会う。ぼくはついつい手を振ったり握手したりしたくなる。

じゃあ、それを嫌っている人を見かけた場合はどうなのだろう。何をしたくなるのか?

理想を他人に押しつけてばかりいたかつての自分の顔が浮かぶ。その顔は実にいやな表情をしている。うんざりする。ため息も出ないくらいに。

個人の「好き」を民主化しようとする人間の心理。ぼくはそれをかつての自分を通して(でしかわかり得ないところが身勝手ではあるけれど)把握している。あくまでも個人的に。

賛同や承認を得るプロセスが自分の「好き」に降りかかる状況、あるいは、それを他人に促す振る舞い。そういうことからは距離を置きたいのだと頭というよりは身体が叫ぶ。その叫びに理由を求められても、うまく説明できない。

民主的な意見の合意。そんなものがないところでやりたいこと、過ごしたい時間、向き合いたい事柄、浸りたい相手、そういうものがぼくには必要なときがあるのだ。

インディペンデント。
そのラベルはなにも「支援者なくやってますよ」という諧謔やセールスポイントでもなければ、「いつか売れてみせます」的なサクセスストーリーに必要な道具立てでもない。ただたんに今のこのぼくにはこの立ち位置でなければならないそういう事情がある、ってだけの話だ。

個人の「嫌い」を好き勝手に弄んで、弄ぶにとどまらず民主的に合意を得ようと振る舞う大人がこの世界に当たり前にいる。クソだなと思う。(ほら、ぼくも同じ穴のムジナだが、民主化の皮なんか着せるつもりがないだけまだ大人だろう?)

汚れちまうことが大人になるってことなら、ぼくも御多分に洩れず汚い大人だ。

だからせめて自分の「好き」だけは自分で護りたい。だれにも邪魔されたくない。人によりかかることなくその場にいてほしい。

熱くなってしまう。
そう、好きを汚されるとぼくはこんなふうになってしまう自分を知っている。だから思う。自分の「好き」を護ってやれるのは自分で、それはだれかとの合意の形成や世の中フィルターの検閲以前の話だろう、って。

あくまでぼくの場合は、という話。
あくまでインディペンデントな話。


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