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悲しみが天使の顔でやってくる


小ぎたない恋のはなし:Ex15「悲しみが天使の顔でやってくる」

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https://note.com/fuuke/n/nee84a222eb70


僕は、当時るなが書いた詩を急に思い出した。

……

京都の寺で木の葉が赤く染まった時
ドイツの巨大な川を戦艦が横切る時
悲しみが天使の顔でやってくる

煮え切らない架空を指差して
マジでしょうもない絵をかいている
左側にいる命
届かない手

失われた時の空
その土曜日の朝に
揺り動かされた命を思うだろう

さあ目を開けて
不必要になった橋を渡ろう
誰も隠せない声で話している
未来を僕は選ぶだろう

燃え尽きた星の色
虫がたどり着けなかった草の根
そのすべてに
悲しみが天使の顔でやってくる

……

僕には詩を評価する能力がない。それどころか、詩歌をして「味わい深い」だの「楽しい」だの思える感性を多分持ち合わせていない。

当時、10代にもなっていたかどうかの折の僕だったらより持ち合わせていないだろう。いきなり詩歌を評価しろと言われても、料理された甲虫(かぶとむし)を目の前に出されて、食って感想を言えと言われているようなものだ。

僕はるなの寝汗について思う。果たしてこのような詩を書いて、るなは後から「恥ずかしい」と思っただろうか?

別に僕は思い出した詩歌について恥ずべき成績だとか感じたわけじゃない。一般的に、幼少の頃書かれた文について人は後悔することが多い気がする。

僕の中にきっとそのような常識があり、るなをそれに当てはめようとしたのだろう。でもるなを常識で測ろうとする行為は建設的だったり文化的なものと言えるだろうか?

僕は衝動的につまらない考え方に囚われている自分を恥じた。当時の子供が恥ずかしがっているかも、と思ったその口で自分を恥ずかしく感じてしまった。

るなは何を考えてこの詩を書いたのか僕にはさっぱりわからないが、僕が彼女の名字を思い出せないのにこの詩を覚えていた事に意味があるように感じる。

僕は電車の中から窓の外の桜を見る。まるで電車の中から観られるためだけに植えられた桜のように見える。るなもこのような気持ちで詩を書いたのだろうか?それとも別に意味なんてなく、国語の時間に命令されて作らされたに過ぎなかったのだろうか。


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