小ぎたない恋のはなし①イントロダクション※創作文芸
僕はガキの頃から新しい言葉を受け容れるのが苦手だ。逆になんで皆そんなに軽々しく言葉を受け入れられるのだろう、と思う。
言葉は自分を構成する。言葉を組み合わせれば、自分を説明できてしまう。
新しい言葉を知るとき、僕は僕の中に「決定権を持つ人々」の存在を感じる。
つまり「僕」という企業を経営する偉そうなやつが僕の中に何人かいて、僕の言語野的な箇所が新しい言葉を認識した時、果たして僕が日常においてその単語を使うべきかどうかについて会議し始める。「僕が新しい言葉を知った暁には、ぜひ僕の中で会議をしてくれ」なんて頼んだことはない。
会議に出席している役員たちは「旦那(僕のことだ)、そうは言うけどそれは流行語ちゃいまっか?新し物(あたらしもん)が嫌いなのはわかりまっけど、今のうちに使っておかへんとゆくゆくはなんも説明できんくなりまっせ」「出資者(僕のことだ)の決めたことだ。出資者には自分のお体を自由かつ気持ちよく利活用する権利がある」みたいなことを話し始める。
僕が10歳の頃に、パブリック・ロックのグループが解散してしまった。もうその歌を公共の場で、楽器からリアルタイムに奏でられた常態で聴くことはかなわない。
その中の一人が新しくグループを組んで歌を出した。僕は割と躊躇いなくそれを聴いていた。
歌やCDが幾度となくリリースされていき、またナチュラルに僕はそれらを聴いていた。ある時気づいた。そのグループが新たに創られたとき、ぼくはそのグループ名を特に気にせず受け容れていた。それまでに聞いたことがない言葉だった。僕の身体の中で会議は開かれなかった。
やがてその新しいグループもなくなってしまう。ぼくはそれなりに若くして、文化的喪失を2回も経験してしまうことになった。文化的喪失には色々ある。好きな少女漫画や少年漫画が最終回になっても、それはそれで大きな文化的喪失だし、僕はついぞ観ることがなかったが朝とか夕方に流れている戦うヒーローとかのテレビ番組が数ヶ月に一度は確実に終わるのだとすれば、僕の同級生たちもそれなりの文化的喪失を経験していたのだろう。
その意味において、確かに僕は「文化的喪失慣れ」を体験する機会が少なかったのかも知れない。文化的喪失が起きたときに、喪失がもたらすダメージに耐えうる心理的体力づくりがまともにできていなかった。かっこいいヒーローが出てくるテレビを見ず、仲間がいて何かに勝つ漫画を読まなかった。
当時の僕よりも上の世代では、特に僕と同じようなジャンルの歌を聴いていたファンがグループ解散のような文化的喪失を体験してしまうと、自殺する例も少なからずあったみたいだったが、感受性が豊かであり、喪失慣れをしていないのであればそれも仕方ないように今の僕は思える。当時の僕は自殺するほどのダメージを受けていなかったし、自殺の概念を知らなかった。
ともあれ、その時間経過により誕生したふたグループのうち、片方がなくなったときは、演奏者の一人が死んでしまったことが原因だった。グループの構成員は解散のずっと前から、メディアでのインタビューなんかで構成員のうち誰かが死ぬでもしなければ一生続けるよ、と息巻いていた。
その言葉が予言になってしまったかのように構成員の一人が死に、そのグループが今までのように舞台に立つ状態を再現するのは不可能になった。だから解散した。僕には喪失感があったが、理由に納得した。
合計2つの喪失を体験した僕の前に、また新たなパブリック・ロックを演奏するグループが登場した。1つ目の解散後に2つ目を立ち上げた者が、また新たに立ち上げた。そのグループ名を聞いた時、僕の身体の中では会議が開かれた。
僕は12歳になっていた。
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