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新しい布クッションは消耗品ではなく仲間


クッションは消耗品ではなく仲間

たとえば靴下とか歯ブラシとか、毎日使うけど感情の移入がほぼ発生しないものって、“消耗品”なんですよ。壊れたら替える、汚れたら捨てる
でもクッションはそういうカテゴリには入らない。ただの物じゃない。
一緒に同じ季節をくぐり抜け、同じ夜を横切り、同じダラけ方をしてきた仲間なんです。
日常のズルさと疲れを、全部知ってる。

たとえば何もかも投げ出して布団に突っ伏したとき。
理性も努力も放棄して、ただクッションを腹の下にねじ込んでダラける時間。
ひとりでやると虚しさが襲ってくるけど、クッションがそばにいると、虚しさがなぜか軽減される。
クッションは虚しさの分散装置なんじゃないかってすら思ってる。
自堕落の空気をふわっと吸い取って、布の奥に逃がしてくれる。

しかもクッションってのは“なぜか怒られない存在”でもある。
リモコンをぶん投げても、八つ当たりして蹴っても、潰して寝ても、なぜか許される。
許されるどころか、「もっとやっていいよ」とすら言ってるような無言の包容力がある。存在としてどうかしてる。
でもだからこそ安心できる。
無言で共に堕ちてくれる存在ってそうそういない。
だいたいの家具は“ちゃんと使えよ”って顔してるけど、クッションだけは「お前が壊れても、俺はここにいる」って顔してる。怖い。でも優しい。

だからぼくは、クッションを買い替えるときに毎回ちょっと申し訳なさを感じる。だから買い替えないのか
ありがとう、お前のぶんまで次のやつも大事にするって気持ちになる。
それって物に対する感謝というよりも、一緒に悪事をやってきた仲間への弔いなんですよ。
だからこそクッションは“使うもの”じゃない。“背負って生きる影”なんです。

寝る道具からクッションを解放した

多くの人がクッションを「寝るための道具」としてしか見ていない。
でもそれはあまりにも視野が狭い。クッション側に対しても失礼……は言い過ぎか。
なぜなら、あいつらの働き場は夜だけじゃない。
朝も、昼も、夜中の3時も、クッションはちゃんと“起きてる”。
床に座っているとき、ベッドの隅っこで携帯いじってるとき、飲み過ぎて廊下に倒れてるとき、いつでもそこにいる。

これはもはや、“寝具”っていうジャンルに収まる存在じゃない。
むしろ、“生活と感情の中間地点”にいる特殊な存在だ。
ぐったりするとき、油断するとき、どうしようもなく自分を諦めかけるとき、すべての瞬間にクッションは黙って寄り添ってくる。
あんなに都合よく働いてくれる道具が他にあるだろうか。

で、“寝る道具”としてクッションを捉えると、必ず“効率性”で測ろうとしてしまうんですよ。
「このクッションは沈みすぎる」「これだと腰が痛い」「反発力が足りない」みたいな。
そういう基準でしか見られなくなると、クッションは“性能不足”ってレッテルを貼られてしまう。
でもちがう。クッションの本領は、“役に立たない時間を支える力”にあるんです。

だからぼくは、寝るとき以外でもクッションを抱えるようにしている。
なんか心が騒がしいとき、予定をサボって横になってるとき、ただ無音で時間を浪費してるとき。
腕に何かがあるだけで、少しだけ自分が「ここにいていいんだ」って思えるようになる。

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中村風景 このサイト内ではいかなる場合でも返信行為をしていません。

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