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《引用》【わからないが、私をつくる。】──くおりぃあさんの「産声は哲学のはじまり」を読んで、感じたこと。


「産声って、哲学のはじまりかもしれない。」

そんな一文から始まるこの記事に、私は思わず、深く深く引きこまれてしまいました。
読み終えたときには、心のどこかがそっと揺れていたんです。



想像を、飛び越えてきた感覚

生まれた瞬間に上げる“産声”が、「問いのはじまり」だなんて。
それは、私にとって、想像を軽々と飛び越えてくる発想でした。

たしかに赤ちゃんは、まったく予想もつかない世界に突然放り込まれる。
暗く静かな胎内から、まばゆい光、重力、呼吸──
そのすべてが“わからなさ”に満ちていて、思わず泣き出す。

それを「哲学の原点」ととらえる視点は、今までの自分にはなかったものです。



「なにがわからないか」も、わからない

私自身、何かに迷ったとき、「なぜ不安なのか」「なにがひっかかっているのか」を
ことばにできず、ぼんやりとしたモヤの中でもがくことがあります。

でもこの記事を読んで、ふと思ったんです。
「問いにならない感情」も、「まだ名前のない違和感」も、
それ自体がすでに、“考える”の出発点なのかもしれないって。

問いにならないからといって、哲学じゃないわけじゃない。
むしろ、「なぜか分からないけど、泣きたくなる」──
そんなときこそ、“哲学”の原風景なのかもしれません。



「わからなさ」を愛すること

社会の中で生きていくにつれて、私たちはどこかで
「すぐに正解を出すこと」や「答えを知っていること」が
“えらい”とされる空気に染まっていきます。

でも、本当は、「わからない」をちゃんと見つめて、
そのままそっと抱えていることのほうが、
ずっと大切で、ずっと尊いのかもしれません。



感謝をこめて

このような視点を与えてくださったくおりぃあさんの記事に、心から感謝を伝えたいです。

「哲学者は、専門家ではなく、“わからなさ”に立ち止まることができる人」
──その言葉に、私はどこか救われた気がしました。

正しさより、正直さを。
正解より、問いを。

そんなふうに思いながら、
今日も「わからない」と共に、生きていけたらいいなって、思います。



素敵な記事をありがとうございました🫧‪

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