「舐められない私」のつくり方
「人から舐められたくないのですが、どうしたらいいですか?」
最近、年下の女性たちからこんなふうに尋ねられることが増えてきた。
私自身、かつては舐められやすく、自分を強く見せようと試行錯誤してきた。でも、その度にこれで合っているのだろうかと首を傾げていた。
そんな私がたどり着いた結論は——。
暮らしの中で感じる違和感、気持ちに寄り添うエッセイです。(文月悠光)
先日、私がXでこんな投稿をしたところ、思いのほか反響を呼んだ。5,000を超える「いいね」が集まり、その反応の大きさに驚かされた。
「人から舐められたくないのですが、どうしたらいいですか?」と年下の女性から尋ねられる機会が増えて、私自身も舐められやすく試行錯誤した経験があるのだが、経験上「強く見せようとする」のは逆効果のような気がしている。少し考えた結論としては「いい人でいるのをやめる」というものだった。
— 文月悠光|新刊『大人をお休みする日』 (@luna_yumi) May 19, 2025
実際のところ、「いい子でいないと周りから認めてもらえない」というスキーマを抱えている女性はとても多いと思う。「いい人をやめても大丈夫」と思えるように、自分の安全基地を作ろうね。
— 文月悠光|新刊『大人をお休みする日』 (@luna_yumi) May 19, 2025
この投稿にもある通り、ここ数年「人から舐められたくないのですが、どうしたらいいですか?」と年下の女性から尋ねられる機会が増えた。トークイベントの質疑応答の時間に、20代の女性が手を挙げてくれたこともある。特に、若い世代に共通の悩みなのではないかと思う。
誰かに軽んじられる体験も、その悔しさから「舐められたくない!」と思うこともすごく苦しい状態だ。少なくとも、20代の頃の私にとってはそうだった。
私も当時「舐められたくない」「自分を強く見せたい」と不毛な戦いをしていた。舐められるのは「弱そうに見えるからだ」と思っていたのだ。
だから似合わない濃いメイクをしたり、耳の軟骨にピアスを開けたりして(そんな細部は誰も見ていないのだが)、とにかく「武装」していた。いつしか、幼く見えそうな服、大人しそうに見える服など「これを着たら人から舐められてしまうかも」と感じる服は避けるようになっていた。
それでも出かけた先で、肩書きを軽んじられたり、セクハラまがいの発言を受けた。最初は何も言えなくて、でも少しずつ言い返せるようになった。だけど、「舐められたくない」という当初の問題は一向に解決しなかった。
強くなろうとした先に待っていたのは、「いくら頑張っても認められない」という苦しさだった。「舐められたくない」「傷つきたくない」「負けたくない」そんな願いの裏には、「強くなければ生きていけない」という思い込みがある。なんだかベースからハードモードだ。
舐められない人の共通点
30代になってからうっすらと気づきはじめた。「周りに舐められない人」って、どこか見た目や喋り方に「胡散臭さ」を持っている気がする。
この「胡散臭さ」という言葉は私なりの表現なのだが、次のように言い換えることもできる。
「根拠のない自信」「ひとクセありそう」「何を考えているのかつかめない」「扱いづらさ」「警戒対象」「これが私ですが何か?という感じ」「振り切っている」「嫌われることを恐れていない」など。
第一、小柄で薄顔の自分がどんなに「強そうや怖そうなイメージ」に寄せようとしても限界がある。というか無理だ。ならば、あえて相手の警戒心をくすぐることが大事なのではないか。
おそらく「舐められやすい人」は、見た目から誠実さが溢れてしまっているのだ。私は美容の専門家に顔タイプを診断してもらったことがある。事前の予想通り、見事に顔タイプ「フレッシュ」であった。フレッシュは、子供顔で親しみやすく、清潔感のある雰囲気が魅力だが、よく言われるデメリットとして「舐められやすい」という特徴がある。自分で言うのもなんだが、私は見た目の「真面目そう」「大人しそう」な印象が強い。子どもの頃からそのことで勝手に期待されたり失望されたりするので、長年悩んできた。
真面目で純粋そうな雰囲気は、残念ながら「都合よく扱っても大丈夫」と思われがちだ。素直で従順な印象のままだと、仕事の場面でも雑に扱われやすい。ただ同時にそれほど「親しみやすい」「良くも悪くも信用されやすい」とも言える。足りていない、私には「胡散臭さ」が足りていない。
胡散臭さは、純粋さとは正反対だ。でも「舐められやすいタイプの人」と、ある種の胡散臭さを掛け合わされると、他人から見たときに「ちょうど良い塩梅」になるのではないか。
見た目や態度に、ちょっとした「扱いづらさ」を演出する。何も「悪い人になれ」「意地悪になれ」というのではない。自分の個性を知り、自分に足りない部分を知り、研ぎ澄ませてみよう。
見た目が優しげな人こそ、「良い人とは限りませんよ」という空気を持っておく。普通の人が黙ってしまいそうなところで、意外と引かない。「ちょっと面倒くさそう」な印象を混ぜると、「私を舐めないでくださいね」という相手への牽制になる。
それで本物の「胡散臭い人」「詐欺師」のように見えたらどうしよう、と思ってる? 実は私もそう思ってきた。「『なんだこいつ!』と思われたらどうしよう」「ああ、さっきの振る舞い、大丈夫だったかな」。
しかし「舐められやすい人」に限って、私は断言する。
大丈夫、絶対に悪い人に見えないから。
むしろそれこそが、他の人には得られない、あなたの価値だと誇るべきだ。
いい人でいないと愛されない?
「いつも誠実にふるまっているのに、なぜか損をしている気がする」
そう感じている方は、自分に一度質問してみてほしい。
「いい人でいないと愛されない」と思っていないか?
加害者は、残念ながら「相手を選んで」いる。無意識に(あるいは意図的に)「嫌われるのが怖い人」を嗅ぎ分ける。相手が持つ「いい子じゃないと周りから愛されない」というスキーマを利用するのだ。
心理学における「スキーマ」とは、過去の経験によって形作られる価値観のようなもの。スキーマは、幼い時期には、生き延びるための助けとなる。ところが大人の時期を迎えると、生きづらさのもとになりやすい。かつてはあなたを助け、守ってくれたかもしれないけれど、持ち続けていると足枷になる。「いい子でいないと愛されない、見捨てられる」というのもスキーマの一つだ。
長年抱えてきたスキーマは、手放したり、今の自分に合う形で更新したりすることが必要かもしれない。たとえば親や先生は自分を「いい子かどうか」で判断した。その結果、「自分は愛されない」「いつか見捨てられる」というスキーマが生まれ、そのことで人生に不具合が生じる。心の治療とは、痛みを理解してくれる大人や仲間とかかわることによって、健やかな大人モードへと自分を建て直していく過程なのだと思う。
「いい人でいないと愛されない」にピンと来ない方も、「いい人じゃなくても愛される」と言われたらどうだろうか。なんとなく「そんなことは許せない」と感じてしまわないだろうか。自分の中のルールが崩れるような感覚。なぜ私の方が「いい人」なのに、あの人が愛されるの? 少なくとも私はそう思っていた。
安全基地の必要性
舐められやすさの背景には、「安全基地がまだ育っていない」という根深い課題が潜んでいる。いい子じゃなくても、能力を証明しなくても、愛されて尊重される場所。それが安全基地だ。
自分に安全基地はある? と尋ねてみたい。舐められやすい若い女性は、人生経験が浅く、まだ安全基地が未完成なので、全方位に「いい人」でいようとし過ぎてしまう。に家庭において「いい子でいなさい」と育てられた人は、そこからはみ出すような振る舞いに恐れを持ちやすい。
嫌われる自由
今の世の中、家庭や恋愛関係、職場、SNS——どこにいても"嫌われる自由"を持てない。20代の頃、「いい人でさえいれば大丈夫」と私自身もどこか思ってきた。「嫌われたくない」という気持ちから、周囲に合わせようとしてきた。だが、そうした思慮の浅さや欺瞞を見抜かれていたのだろう。嫌われないことを優先してきたはずなのに、周りから「いい子ぶっている」「優等生すぎる」と陰口を言われたとき、途方に暮れた。
そもそも、あなたに安全基地はあるだろうか?
誰かに嫌われても、一方で自分を肯定してくれる人がいる?
自分で自分を支えられる感覚があるだろうか?
20代の頃の私にはそれがなかった。
周りの同世代の友人たちも、「安全基地」を探しているようだった。
私たちは、必死に「自分の安全基地」を育ててきたのだと思う。
この安全基地が、家族や同居人、パートナーであることもあれば、信頼できる友人や同業者、あるいは自己との関係であることもある。いい子でいられるときもいられないときも、どんなときも自分を尊重してくれたり、認めてくれる味方=「安全基地」だと捉えてほしい。
「この人には自分を見せられるし、相手のことも受けとめられる」という確信。それが少しでも持てたとき、初めて「誰かから嫌われてもいい」という余裕が生まれる。陰口や「舐められ」は、安全基地の外で起きるからだ。そこでは「嫌われる自由」もある、ということに、私は30代でようやく気づくことができた。
ジュエリーによる気づき
けれど、「いい人」をやめるのは怖い。「いい人でいないと愛されない」と思って育ってきた人間にとって、「いい人をやめる」という内面的な変化はなかなか決断できるものではない。
個人的におすすめなのは、服装や小物を使って「自分に足りない要素を加える」というアイディア(これは前述の「武装」とはニュアンスが異なる)。
「自分に足りない要素を加える」という考え方のきっかけをくれたのは、ジュエリーや時計などの装身具だ。ジュエリーはしっくりくると、まるで自分のお守りのような存在になってくれる。
2年前、ジュエリーや時計に興味を持ち始めた頃、たまたま開いた動画で、ファッションディレクター・大草直子さんの言葉に出会い、その説得力に驚愕した。「時計探しは生き方を探してるってこと」という一言に胸が震えた。
はっとしたのが、大草さんの次の言葉だ。
「ジュエリーを身につける女性の多面性は一つの素材では表現しきれない」「イエローゴールドは温度が高いイメージがあるからシルバーで平熱に戻す」
通常、ゴールドとシルバーのジュエリーを混ぜて身につけるのは難しく、御法度とされやすい。しかし大草さんはそんな思い込みにとらわれない、素晴らしいレイヤードを披露していた。
女性は歳を取ると、ボリュームのあるジュエリーを選ぶようになる。これは指が加齢により痩せてしまったり、シミやシワなどの影響があって、若い頃に身につけていたような華奢なモチーフが似合わなくなるからのようだ。
だから、派手なゴールドや大きな石のリングは、「年齢を重ねた大人の女性のもの」と私はどこか敬遠していた。でも「イエローゴールドは温度が高い」「シルバーで平熱に戻す」という表現にはっとした。
そこから「似合う」の一歩先を考えるようになった。
「自分に足りない要素は何か。足りない要素を加える」
「自分に足すと、より魅力的に見えるものを選びたい」
ジュエリーや時計そのものが素敵であることは自明として、
私という素材と掛け合わさったときに「どう見えるか」を重視するようになった。
若い頃は華奢なデザイン、年を取ったら大ぶりなものが似合うとされがちだ。また、年齢を重ねるごとに、女性のファッションは保守的になる傾向がある。しかし年配になったら嫌でも「貫禄」がついてしまう。そこにコンサバファッションや、圧が強めのゴールドが加わったらtoo muchかも…‥?
逆に若い頃は、華奢で清楚なイメージが初めから備わっている。ならば、わざわざ服装やジュエリーで清楚感を強調する必要もないのでは?
「似合う、似合わない」も大事だけれど、それ以上に「自分に何をプラスするか?」で選んでみたい。
その気づきをきっかけに、私は生まれて初めて「自分のための腕時計」を購入した。全然かっこいい買い物じゃなかった。時計は私にとって高価で、こんな額を切ったことがない……と冷や汗をかきながら、クレジットカードの暗証番号を2回も間違えて、なんとか手に入れた。
だけど、今の自分に完全にフィットするものではなく、一歩先の自分を想像させてくれるもの、「こういう女性に私はなりたい」という思いを掻き立てるものを集めていけたら凄くいいな、と思ったのだ。
もちろん、その一つの時計を選ぶまで、私はものすごく迷った。買うのはもっと先でもいいんじゃないか? 自分に不釣り合いじゃ? とか。
でも、それらを乗り越えて決断できた結果、以前より自分の選択に自信が持てるようになった。
いきなり高価なものから手にするのはちょっと、という人は、サングラスや革のバッグなど、自分の選択肢になかったモチーフを日常に取り入れてみるのはどうだろう。キーワードは「重厚感」だ。
理想と選択肢
「舐めてくる相手が悪いのに、工夫を強いられるのはおかしいのではないか」「いい人がいい人のまま生きられる世界の方がいい」
冒頭の投稿をしたとき、一部そのような意見が飛んできた。
それは確かにひとつの「理想」だ。「悪そうに見せる」とか「いい人感を出さない」とか、 そういう処世術を身につけることが、本質的に"正義"じゃないのはわかる。
しかし、その理想を掲げることで、目の前の現実で傷ついている人の選択肢を奪ってしまうことがある。まだ対処する術を持たない人にとっては、「理想の自分で生きていけなかったらどうすればいいの?」という、さらなる孤立につながる可能性もある。
ただ、自分の中の理想と選択は共存できる。
私も「生き残るために性格が悪くならざるをえない仕組み」は嫌だ。
挙げ句「もっと賢く立ち回れ」という圧をかけてくる業界に対しては、鋭く舌打ちする反骨精神も持ち合わせていたい。
現実世界で、理想を貫くこと、反抗し続けることがどれほど大変なことか。
だから、処世によって少しでも心に余裕を持ち、その余裕でまた現実と向き合えばいい、と思う。
少数派の一人として
終わりに少し、個人的な話をしたい。
私の場合、「詩人」という肩書きだけで「すでに胡散臭いと思われている」という思い込みがあった。その上、とても若い時期に出版業界の大人たちと仕事を始めた。だからこそ「ちゃんとしてるように見せなきゃ」「しっかりしなきゃ」と長いこと必死になっていた。実際、それで「しっかりしてるね!」と大人たちから褒められたこともあった。
ただ20代後半以降は、その思い込みが、良くない方向にはたらいてしまった。「詩人」という肩書きに「女性」「若者」などを代入しても良い。 今振り返ると、その「誠実であろうとする必死さ」こそが、他者から軽んじられ、舐められる原因にもなっていた気がする。
「なんだか舐められやすいな」と感じたら、そもそも自分がそのような属性や記号で判断されていないか疑うときなのかもしれない。
詩が好きな人は少数派だ。だからこそ自分は「親しみやすく優しい存在でいなくてはならない」(なぜなら現代詩という敬遠されがちなジャンルを背負っているから)(心ない詩人など詩人としてあるまじき存在だから)——過去の経験からそんなプレッシャーをずっと感じてきた。けれどその思い込みが、結果的に私自身を不自由にしてしまった。
本当は自分の肩書きや、仕事に誇りを持っているのに。自分自身がその価値やイメージを疑ってしまう。そういう人は実は少なくないのかもしれない。きっと、普通の人より責任を「背負わされている」し、「背負ってしまいやすい」人なのだと思う。他の分野で「少数派」や「舐められがちな属性」を持つ人にも共通する問題だ。
もう一度言おう。
あなたを侮ってくるような相手にまで「いい人」でいる必要性はない。
なんとか認めてもらおうと、心を傾ける必要はない。
ただ、あなたの存在が正当に扱われ、丁寧に迎えられますように。
あなたの能力が軽んじられる瞬間や、その後の悔しい時間が、少しでも無くなりますように。
●著者プロフィール
文月悠光(ふづき・ゆみ)
詩人。1991年北海道生まれ。10歳から詩を書きはじめ、16歳で現代詩手帖賞を受賞。第1詩集『適切な世界の適切ならざる私』(ちくま文庫)で中原中也賞、丸山豊記念現代詩賞を最年少18歳で受賞。詩集に『わたしたちの猫』(ナナロク社)、『パラレルワールドのようなもの』(思潮社、富田砕花賞)『大人をお休みする日』(角川春樹事務所)など。
エッセイ集に『臆病な詩人、街へ出る。』(新潮文庫)、『洗礼ダイアリー』(ポプラ社/河出文庫版が今年9月に刊行予定)がある。
*このエッセイはnote初出の書き下ろしです。
【お知らせ】
もう一作、言葉と暮らしに関するエッセイ(note創作大賞2025)も公開中。
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