アナイスの肋骨
連載が完結しましたので、加筆訂正の上、全話まとめて投稿します。ご感想ご意見など頂けますと嬉しいです。一部性的表現あり。
1.
月曜の夜だった。アナイスは茶色のルノー・トゥインゴをバックで停めようとした。「バン!」と強い衝撃音。
アナイスはガレージと家の間のスペースに、いつも車を停めている。週末、フィリップがコンクリートブロックを置きっぱなしにしたのだろう。
車の後部がブロックに見事にのめり込んでいる。完全な死角。
思わずおでこを手で叩く。
「メールド(くそ)!」
普段は使わない汚い言葉が、勝手に口から飛び出す。
車を降りて「被害」を確認する。
バンパーの左後ろにへこみができている。10年以上乗っている車だから、あちこちに傷があるけれど、今回のへこみはかなり大きい。
バンパーを交換しないと。保険でカバーされるだろうか?
「フィリップ! フィリーップ!」
家のドアを開けて叫ぶが、返事はない。
……フィリップはちょっと腹を立てるだろう。それから、なんとかしてくれるだろう。
「フィリップ?」
庭に回ってみる。フィリップはいない。
ついでに畑をのぞくと、採り忘れたズッキーニが巨大化している。大きく熟れたトマトもいくつか収穫する。みるみるうちに両手が一杯になる。
トマトを落とさないように気をつけながら、パセリとバジルも摘み取る。 ハーブのいい匂い。高ぶっていた気分がだいぶ静まってくる。
今夜はトマトのサラダとズッキーニのスープを作ろう。
夕食を作りながらラジオを聴く。
ズッキーニはココット鍋でぐつぐつと音を立てている。
ふちが欠けた陶器のサラダボウルに、ディジョンマスタードとリンゴ酢とオリーブオイルを大さじ1杯ずつ混ぜる。皮をむいた完熟トマトを大きめに切り入れ、パセリとバジルをざくざくとハサミで切って混ぜる。
夕食ができても、フィリップは帰ってこない。サッカーの試合か何かで、友達とバーに寄っているのかもしれない。
アナイスは、ひとりでつつましい夕食をとる。
ライ麦パンを厚めに切って、有塩バターをたっぷり塗り、トマトのサラダと一緒に食べる。パンの酸味と発酵バターのまろやかな味がなんとも言えない。指についたバターをしゃぶる。ドレッシングをパンでぬぐい取って食べる。
食事の後、8時のニュースを見終わっても、フィリップの帰ってくる気配はない。
ふと携帯電話を見ると、メッセージが届いている。
「僕はもう家に帰らない。ソフィーと一緒に住む」
ソフィー? 誰のことだろう? 家に帰らない? ……意味がわからない。フィリップに他の女が出来た、ということ?
それじゃ、昨日のセックスは、何だったんだろう? これまで一緒に過ごした25年間は?
なぜ、フィリップはこれまで何も言わなかったんだろう?
2.
初夏にしては涼しい朝、天気予報は曇りのち雨。
白一色のメディカルセンターのパーキングに、アナイスが車を停める。間髪置かず、黒のフォルクスワーゲン・ゴルフが横に停車した。
中からは、黒いワンピースをエレガントに着こなした、スリムな黒髪の女性が降りてくる。
同じメディカルセンターで、理学療法士として働いているイブリンだ。会ったら挨拶はするが、アナイスが働くデンタルクリニックとは、建物の入口も別だし、話をしたことはない。
今日も「おはよう」と挨拶をする。
イブリンがアナイスに「調子はどう?」と聞いてくる。
習慣的な挨拶に、アナイスも「いいよ。あなたは?」と自動的に聞き返す。
調子がいいはずがない。彼が出て行って1週間。
イブリンが、へこんだバンパーに目を走らせる。
「アナイスのパートナーが、若い女性と手をつないで歩いているのを見かけたよ」
先週、職場の誰かが休憩室で話したのが、あっという間に広まったらしい。
十数人の女性が働くメディカルセンターでは、アナイスが男と別れたことが公然の秘密となっていた。
茶色いイブリンの目が、アナイスの目を凝視している。泣いた跡がバレてしまったのだろうか。
「今、最悪な状態……なんでしょ?」
絶望的な気分になって、ため息が出る。
イブリンの鷹のような目で見すえられて、アナイスは観念して目を閉じる。自分が小動物のような気分になる。
イブリンがアナイスの頬に、軽く指を走らせる。アナイスはびくっと反応して、目を開く。
鋭い視線を保ったまま、イブリンが思いがけず優しい声を出す。
「ねぇ、明日の夜……もしあなたが良かったら、なんだけど……」
3.
翌日の仕事帰り、久しぶりに図書館に寄ってみた。
家にいても手持ち無沙汰だ。コメディ映画でも借りて帰ろう、という気分になった。
DVDのコーナーを物色していると、こういう時に限って、見たい映画がひとつも見つからない。SFやアクション映画には興味がない。社会派の映画も見たくない。何も考えずに笑える映画がいい。
DVDケースの一番後ろに、図書館員が間違えて置いたように「18歳以下禁止」のシールが貼ってあるDVDがいくつかあった。
おしゃれなモノクロのカバーに『エロティックな短編映画集』と書いてあるのが目に留まった。
最初は手を止めることもなく、別のDVDの箱を見ていた。そのうち段々、気になってきた。どうせ、ひとりなんだから、家で何を見ても構わない。
でも、借りる時に、顔見知りの図書館員に見られるのは恥ずかしい。アナイスは辺りを見回す。
そうだ、去年から図書館の貸し出しは自動で行うようになったんだ。
閉館前の図書館は、急に人が増えてきた。アナイスは自動貸し出し機から少し離れたところで列を作り、図書館カードを探す。
あれっ、どうしたんだろう……。
財布にいつも入ってるはずの図書館カードが見つからない。
そういえば、この前、あまり使わないから、と思って財布から出して、そのまま台所の引き出しの中に入れたままになっていたんだ。
図書館員に理由を説明すれば、名前から番号を探してくれるシステムになっているのは知っていたが、借りる映画のタイトルを見られるのはやっかいだ。
アナイスはDVDをハンドバッグの中に入れ、足早に図書館を後にした。見終わったら、またこっそりと返せばいい。
外に出ると、しっとりと服に張り付くような雨が降り始めていた。
アナイスが、たまにしか行かない図書館に脚を運んだのは、今夜、イブリンの誘ってくれたクラブに行くかどうか迷っていたからだ。
心の奥では、何かちょうどいい言い訳が出来て、行かないで済んだらいい
のに、と思っている。
図書館で知り合いに会うとか、面白いイベントがあるとか。
でも、そんなものはなかった。
イブリンはメディカルセンターでの仕事の傍ら、長年、フレンチボクシングのコーチとして、新人ボクサーの育成に勤めているという。
アナイスはイブリンに「気晴らしになるから一度、遊びに来てみたら?」と誘われたのだ。
家に早く帰っても、他にやることもない。友達もあまりいない。
親切に声をかけてくれたのはイブリンひとりだった。一度ぐらい付き合ってもいいだろう。
ジムのパーキングに車を停める頃には、雨脚が強くなっていた。ジムに行きたくない気持ちと、一歩踏み出そうとする自分とのせめぎ合いで、お腹が痛くなった。
気づいたら、フィリップのことを考えていなかった。そうだ、やっぱり来て良かったのだ。
……そう無理やり自分に言い聞かせて、ジムのドアを開く。
こうして、アナイスは「ファイトクラブ」の門をくぐった。
4.
ジムの正面に張られた巨大な鏡に、自分のみっともない姿が映っている。48歳。全身にむっちりと肉がついている。
出来るだけ体の線が隠れるようなTシャツを探したつもりだったが……。この歳でこんな体形の自分に、ボクシングなんて無理だ。
壁のけばけばしい赤と黒のペンキが不安を誘う。
ジムの端っこでは、高校生と思われるほっそりした5、6人の女子が、靴を履き替えたり、手に長い長い紐を巻きつけている。
小鳥のようにチイチイと高い声で楽しそうにおしゃべりに夢中で、アナイスが入ってきたことには気づいていないようだ。
高校生らしき男子も数人いる。彼らは一言もしゃべらず、淡々と準備をしている。
皆、ボクサー専用のひらひらの短パンを履いている。短パンから伸びる長い脚がまぶしい。アナイスは頭がくらくらする。
少し奥を見ると、40代から50代の男が2、3人と、若いひげの男がひとり、すでにサンドバッグに蹴りやパンチを食らわせている。
男たちの出す「ぐっ」「うっ」というえげつない声が、高い天井に響いている。皆「極悪人」という顔をしている。
場違いなところに来てしまった。アナイスは心細くなり、イブリンの姿を探す。
イブリンは、部屋の一番奥にいた。
黒いレギンスが細い脚の長さを引き立てている。彼女が動くと、黒いTシャツの背中に「コーチ」と印刷されているのが目に入る。
怖い顔をした男が、イブリンの隣で大声で笑っている。イヴリンが面白い冗談でも言ったのだろうか。
彼女もとても楽しそうだ。いつも通り背筋がシャキッとして、何があっても揺るがない、という様子だ。
アナイスがおずおずと姿を現す。
イブリンがすぐに気づいて、「こっち、こっち」と呼んでくれた。アナイスは、ほっとため息をついて駆け寄る。
「よかった! 来てくれたのね!」と心から嬉しそうな笑顔。
緊張したアナイスの顔を見ると、「安心して。ここでは、私があなたのガーディアン・エンジェルなんだから」と笑う。
近くにいた「極悪人」たちにアナイスを紹介する。
「この人の取り扱いにはくれぐれも気をつけて。痛い思いをさせたら、ただではおかないからね」とにらみつけた。
「痛いことなんて、しないから安心していいよ」
中年男たちは、はにかんだように微笑み、アナイスに丁寧に挨拶した。
第一印象とは正反対の、素朴な高校生みたいな態度に、アナイスは面食らった。
いつの間にか、ほほにニキビ跡のあるやせた娘が、イブリンの横に立っている。
今日ファイトクラブに初めて来たのは、アナイスだけではなかったらしい。
「あなたも今日が初めてでしょ? 私はエミリー。よろしくね!」と明るく声をかけてくる。アナイスは驚いてまごまごした。
「初めての人がいて本当によかったー。ちょっと緊張してたんだ」とエミリーが小さな声で言う。
「私も、すごく緊張してる。逃げ出したいぐらい……」と正直に言うと、エミリーが可愛い歯を見せて笑った。
手足も胴体も棒のように細長い。この子、服はSサイズだろうな、と思った。
5.
記憶に残る祖母は、大きくて美しい女の人だった。
祖母に手を握られた時、その手がゴワゴワだったので、アナイスは思わず手を引っ込めたことがある。
「昔は、あなたみたいなすべすべの肌だったのよ」
祖母は、アナイスの手を壊れやすい果物のように両手で包み込んだ。
子供時代、アナイスは祖母の家で夏休みの大半を過ごした。
祖母がアナイスの手を引いて歩く。汗がにじむ小さな手を、ゴワゴワの大きい手がしっかりと包む。
アナイスが隣を見上げると、姿勢の良い祖母はいつも胸を張って歩いていた。
「マミー(おばあちゃん)は昔の映画の女優さんみたい」とアナイスはよく言った。祖母がしゃがみ、大きな手でアナイスの靴ひもを結び直してくれる。
祖母が着けている昔風のブラジャーのとがった線が、ブラウス越しに見えた。アナイスは、その大きなしなびた胸が好きだった。
何千回とその胸に抱き寄せられて、ブラジャーのワイヤーの硬い感触と、その下に押し込められた、しなびた胸の柔らかさを感じた。
枯れ始めたバラの花びらに触れると、祖母の胸を思い出す。
祖母が植えたバラは、いまでも毎年、きれいなピンクの花を豪勢に咲かせている。
毎朝、出勤前に、車の横の大輪のバラに「ボンジュール、マミー」と挨拶し、花びらに軽く手を触れる。
母は小柄で痩せていた。
アナイスが小さい頃、母はいつも妹を抱いていた。妹は母に似て、痩せっぽちな子供だった。
祖母に似て大柄なアナイスと、線の細い母は、もしかしたらアナイスが生まれた時から相性が合わなかったのかもしれない。
40代以降、祖母との類似点が毎年、加速度的に増加している。
のっそりとした体形、大きな胸、ゴワゴワの手。
アナイスには子供がいない。だから孫娘に会うことはない。
祖母と自分とのその違いは、致命的な気もする。でも、今となってはどうでもいいことのようにも思える。
6.
スーパーで買い物していると、精肉コーナーで働く小柄な男が、笑顔で手を挙げてアナイスに合図をしてくる。
以前、フィリップと二人で買い物していた時に、たまたまフィリップが着ていた古いメタルバンドのTシャツを見た肉屋が話しかけてきた。
フィリップと肉屋は、好きな音楽の話で意気投合して、買い物に行くたびに、お喋りするようになった。
ある日、アナイスが「フィリップ……」と呼びかけると、肉屋が驚いたように「え、あんたもフィリップ?」と返した。
「フィリップって、いいやつばかりだよね」と肉屋がにんやりする。
「さあ、どうかな」
もうひとりのフィリップは眉にしわを寄せて首をかしげ、愛想笑いを浮かべていた。
今日もアナイスの姿を見かけると、
「お宅のフィリップは元気?」と気軽に声をかけてくる。
アナイスは目を伏せる。
どうやって答えようか、と少し悩んだが、思いきって「もう私たち、一緒に暮らしていないの」と正直に答える。
肉屋は、急に真面目な顔になり「あ、ごめん」と言う。
アナイスは「大丈夫、気にしないで」と答え、無理やり笑顔を見せる。気まずい空気が流れる。
肉屋がそれ以上、何も聞かないでくれたことに感謝して、売り場を離れる。
店を出てからも、肉屋のばつの悪そうな顔が頭から離れない。
でも仕方がない。それが事実なんだから。
これからずっと嘘をつき続けて、何年間も「フィリップは元気?」と聞かれ続けるよりはましだ。
アナイスは大股で車に向かう。何かから逃げるかのように、荷物を急いで車に詰め込み、エンジンをかけ、駐車場を後にする。
7.
1時間半のフレンチボクシングの練習は、思った以上に面白かった。
ボクシングと聞いて、唯一アナイスがイメージできたのは、サンドバッグを叩く練習だったが、実際に触ってみると、想像以上に硬くてビックリした。
こんな硬いものを叩いて、指の骨が折れないのか、と心配になる。貸してもらったグローブを手にはめると、かすかに汗のにおいがした。
最初は手加減しながら軽く叩いてみる。
隣で小柄な娘たちが、「フッフッフッフッ」と息を吐きながら、強い力でサンドバッグを叩きのめしている。それを見て、アナイスも少しずつ力を加えていく。
集中してサンドバッグを叩いてみると、最初の緊張感や遠慮が、不思議なほど溶解していった。
それから、イブリンがシャドーイングのやり方を教えてくれる。相手なしで、パンチ、フック、アッパーカットを真似してやってみる。
鏡を前に、自分が繰り出すパンチは緩慢で、滑稽に思える。
一方、なぜかフックとアッパーカットは、自分の今の気持ちにぴったりな気がする。
「息を吐いて」というイブリンの声に、「フッ」とタイミングを合わせてアッパーカットを入れてみる。
フックを強く出し過ぎて、自分の肩を叩いてしまう。
イブリンが笑い、「おうおう、落ち着いて!」といなす。馬に話しかけるみたいな口ぶりだ。
顔を上げると、イブリンのいたずらっぽい目がこちらを見ている。
アナイスは吹き出す。久しぶりに笑った。笑いながらフックやパンチを続ける。

その時、突然「これだ」という実感が湧いてきた。
自分に足りなかった何かを、やっと見つけ出したような気分がした。
エミリーと二人でペアになる。ガードの姿勢を作る。
お互いに手を伸ばして相手の肩を触り、同時に相手に触られないようにフェイントする練習や、軽く足先で相手の太ももをキックする練習、相手のおでこにグローブで軽く触る練習など、イブリンが次々と指示を出す。
ペースが速い。アナイスはついて行くのに必死だ。
中年男たちが、様子を見にやって来る。
「ひじが曲がってる。もっと腕を伸ばしておでこに触れるんだ!」
「フェイントしながらも攻撃をやめない!」
気がつくと、二人の生徒に指導教官が5人ぐらいついている。
アナイスは、若い頃から誰からも注目を浴びたことがない。
今日は、若くて可愛いエミリーがいるお陰で、アナイスまで集中指導が受けられたのが可笑しかった。
練習が始まって20分後には、恥ずかしいほど汗をびっしょりかいていた。Tシャツが、洗濯した後みたいに濡れている。
フェイントの練習は、心臓が止まりそうなぐらい息が上がったが、イブリンが時々くれる5分の休憩時間に水を飲みながら、周りを見回してみると、高校生たちも自分以上に汗をかいている。
トマトのように顔を真っ赤にしている子たちも何人もいる。
アナイスも赤いほほが熱を帯びている。
最近はホットフラッシュで、これまで以上に顔が赤くなる。肌が白い分、ほほが赤くなると異様に目立つ。
職場では、そのことを気にしていたが、皆が顔を赤くして、はあはあと息を切らせているこのジムでは、誰もアナイスのホットフラッシュには気づかないだろう。
顔だけでなく、全身でこんなに汗をかいたのはいつぶりだろう。
ここ数日間の嫌な気分だけではない。もっと自分の根っこの方に溜め込まれていた毒素が、ごっそりと流れ出ていくような爽快感があった。
レッスン終了後、「来週も来ます」とアナイスが小声で言うと、イブリンがにっかりと笑った。
イブリンの隣にいた、海賊みたいな男が、
「フレンチボクシングの世界にようこそ!」と満面の笑みを浮かべた。
「うっ……やっぱり……すごい」
翌朝の筋肉痛は、アナイスが想像していた以上だった。
ベッドから起き上がろうとすると、腹筋が悲鳴を上げた。
以前ぎっくり腰になった時のように横になって、いも虫が這い廻るように、のろのろとベッドの端につかまりながら不器用に立ち上がった。
脚が上がらない。ゾンビのように足を引きずってバスルームに入る。太ももがパリパリに張っている。
「うう……」変な声が出る。トイレに座るのも一苦労だ。
ワンピースタイプのパジャマを脱ごうとするが、腕が上がらない。
肩から肩甲骨にかけて、夜中のうちに鉄板が貼りついてしまったかと思うぐらい硬くなっている。
全身がとてつもなく痛い!
「なんなの、これ?」
……気がつくと、アナイスは笑っていた。
「私の体は生きている、生きているから痛いんだ!」とアナイスはひとりで叫んだ。
48歳。何十年も運動したことがない。そんな体でも、こんなに激しい筋肉痛になる。
これまで使ったことのない筋肉も、まだちゃんと体に存在していた。
そのことが、無性に嬉しかった。
8.
毎週1時間半のフレンチボクシングのクラスに、アナイスは真面目に通い続けた。
アナイスとエミリーの周りには、いつも大勢の人がやって来て、色々なアドバイスをしてくれる。
最初はよそよそしかった女子高生たちも、エミリーとすぐ友達になり、アナイスにも「ガードが下がってる」とか「もっと足を伸ばしてキックしてみ」と教えてくれるようになった。
アドバイスは嬉しいが、体を動かしている時に、言葉を投げかけられても、なかなか頭と体の動きが一致しない。
練習時間の後半、他の生徒たちは、1対1でスパーリングをしている。
これまでも、イブリンが何度か「やってみる?」と聞いてくれたが、アナイスは、「まだちょっと不安」とやり過ごしていた。
ある日、エミリーが風邪で欠席した。
アナイスは途端に不安になったが、イブリンが「せっかくだから、他の人と対戦してみよう」と提案してきた。
「優しいパートナーを探してあげるから、安心して」
イブリンは、まだ中学生かと思うような小柄な少女に声をかけている。少女がアナイスの方をちら、と見る。目が合う。幼い笑顔がまぶしい。
肩にかかるぐらいの髪を編み込んでいるせいで、さらに幼く見えるのかもしれない。
イブリンがアナイスの方を指差して、「くれぐれも気をつけてあげてね」と言い聞かせている。怖い。胸がざわざわする。
少女は、アナイスにはにかんだ笑顔を向け、「私はレナ、よろしくね!」と意外に低い声であいさつした。
笑みを浮かべたまま、レナが右手のグローブを左胸に当て、アナイスの方にその手をすっと伸ばす。試合前の挨拶だ。
アナイスも同じ挨拶をする。グローブが触れる。一気に緊張が高まる。
レナはパンチやキックを繰り出すたびに、大げさなほど「しゅっ、しゅっ」と息を吐く。アナイスの体に当たる前に止めてくれてはいるが、パンチが速い。キックも休まず飛んでくる。
右足、左足。ターンしてまた右足が飛び出す。
あっと思った瞬間、レナの足が自分の耳のすぐ横まで伸びている。つい怖くて目を閉じてしまう。
「相手の目を見て!」というイブリンの声が飛んでくる。
「あなたの方が手脚が長いんだから、レナのおでこにパンチを出せるはずよ。」
アナイスの目をじっと見ているレナの顔は、もう笑っていない。
アナイスのお腹めがけてレナの靴底が飛んでくる。必死でひじでガードする。前腕にがつん、と靴のぶつかる音がする。
「あ、ごめん」とレナが謝る。意外と痛くない。
でも蹴られたことで、アドレナリンが急上昇する。
やり返したい! という気持ちが高まり、頭に血が上る。
闘争心? そんなものが自分の中にも存在していたなんて、驚きだ。
アナイスも、レナの太ももに向けて足を蹴り出す。レナはすばしっこく逃げる。へこたれずに何度もキックを繰り返す。
隣でイブリンが応援してくれる。
パンチを繰り出すと、レナのグローブで強くバンと叩かれた。アナイスのへなちょこなパンチが、その衝撃でかわされる。
その隙を見て、アナイスのおでこにレナのグローブが触れる。
「アナイス、ガードを保って!」イブリンが叫ぶ。アナイスはうなずく。
うなずいた瞬間、心臓がのどから飛び出しそうになる。呼吸するのを忘れていた。
レナが左足でアナイスの横腹に触れたと思うと、急接近してフックをかまされる。
レナのグローブがあごの辺りまで下がっている。そのタイミングで、ひたいをめがけてパンチを出してみる。
レナのおでこにグローブがしっかりと触れた感触がある。
レナが「やられた、ブラボー!」と笑う。イブリンが横で拍手している。アナイスは、これまで未知の高揚と疲労で息を切らしている。
なんだろう、これ……。
すごく、気持ちがいい。
翌朝ベッドから起き上がる時、お腹が堅く張っていることに気づいた。病気かと思ったが、体調は悪くない。寝起きもいい。
そういえば、ウエストのジッパーが前よりも閉めやすくなっている。
最近では、仕事の終わった後も、以前ほど疲れていないし、腰痛もない。
シャワーの後、思い切って裸の体を鏡に映してみる。
ぐにゃりと柔らかく、つかみどころのなかった腹部に、しっかりと薄い筋肉の膜が張って、まっすぐな輪郭線ができている。上腕のたるみもなくなり、あごもすっきりしている。
自分の裸体をじっくり眺めたのも、「悪くない」と思ったのも、人生でこれが初めてのことだった。
9.
春先に植えたタマネギのネギ坊主が、もうぱんぱんに膨らんでいる。
スコップを雨上がりの柔らかい土に差し込み、タマネギを4つ堀り上げる。傷んだ葉をむしってコンポストに捨てる。強いネギの香りが立ち上がる。
今日はオニオンスープを作ろう。
フィリップの出て行った日に買ったバゲットが、ナイフで切れないほど堅くなっている。
祖母の黒いココット鍋に、オリーブオイルを多めにたらし、薄切りにしたタマネギを入れて弱火で炒め始める。
これも祖母から譲り受けた、古い木のへらで丁寧にかき混ぜる。木にスープが染み込んで変色し、木の一部がスープの出汁になってしまったような、スプーン型のへらだ。
アナイスが死んだら、このへらは一番最初に捨てられてしまうだろう。
この家のあらゆる古いものが、祖母の思い出が、誰にも引き継がれずに、捨てられてしまうのだろう。
アナイス自身も同じだ。
誰にも気づかれず、引き継がれず、惜しまれもせずに、ある日、ただこの世からいなくなってしまうのだろう。
タマネギがしんなりとするまで、だいぶ時間がかかる。アナイスは辛抱強く、鍋のタマネギをかき混ぜ続ける。
それから、大きな鍋が半分埋まるぐらいの水を入れる。
祖母なら、日曜の昼に焼いた鶏肉のローストを食べ終わった後、残った骨付き肉を煮だしたブイヨンを注ぐところだが、鶏肉の残りなんてない。
固形のブイヨンの素を1つ投げ入れる。去年乾燥しておいたタイムとローリエの葉を引き出しのびんから出して加える。
ココット鍋に重たいふたをして、ガレージに大工道具の入った箱を探しに行く。
木の棒のようなバゲットを布袋に入れ、トンカチで叩いて小さくする。
ココット鍋のふたを開けると、オニオンスープにしっかり火が通っている。
割ったパンをいくつか投げ入れ、冷蔵庫の奥で乾いて粉をふいていたエメンタールチーズを、パンが見えなくなるまですりおろす。塩と胡椒をかける。
もう一度ふたをして、5分煮たら完成だ。
やけどしそうなぐらい熱いオニオンスープを食べながら、アナイスは「フィリップと別れてから、肉を食べていないな」と思った。
スーパーの精肉コーナーで働く「プチ・フィリップ」と顔を合わせるのがやっかいで、このところ、肉を買っていない。
さっき想像したせいか、急に鶏肉の丸焼きが食べたくなった。
食後、テレビのニュースを見終わると、アナイスは携帯電話を開く。再びめぼしいニュースのサイトを確認し始める。
フレンチボクシングの練習に行かない日は、これが毎晩の習慣となっている。
マザンの事件についての新しい記事が3つ出ていた。アナイスは、記事を夢中になって読む。
10.
フランスのマザンという小さな町で猟奇的な事件が起きた。
2020年9月、田舎町のスーパーで、女性を盗撮していた70代の男が逮捕される。
警察が調べた男の家のパソコンには、「虐待」と名付けられたフォルダがあった。
フォルダの中から、奇怪な動画が大量に発見される。眠っている女性が、色々な男たちにレイプされている動画。
奇妙な点は、その女性が男の妻だったことだ。
事件発覚当時、68歳の被害者の女性は、夫のドミニク・ペリコと二人暮らし。仲の良い普通の夫婦だった、という。
警察の捜査の結果、驚くべき事実が次々と明らかになる。
2011年から2020年にかけて、当時50代~60代だった被害者は、10年間にわたり、ときどき夫に睡眠薬を飲まされ、意識を失っている間にレイプされ、夫に動画を撮影されていた。
レイプしていたのは夫本人だけでなく、夫が違法サイトで「無料募集」した数十名の男たち。証拠が多く残っていたことから、加害者の大半が見つかり、大規模な刑事裁判が開かれることになった。
被害者の女性は、夫の罪が発覚するまで、眠らされていたことも、レイプされていたことも気づかなかった、と述べている。
アナイスは、こめかみを押さえる。左側だけ頭痛がする。
どうして、この気味悪い事件がこんなに気になるのか。何度も考えてみたが、よくわからない。
事件発覚当初は、被害者が10年以上にわたって被害に遭いながらも「気がつかなかった」というのはありえない、という意見もあった。
被害者は当時、記憶喪失や体の不調を訴えていた。
夫と一緒に、医師の診断を何度か受けていたが、夫が薬を飲ませていたことには、医師も気がつかなかった。
マザン事件の異様な事実が、毎日のように次々と報道される。
夫のドミニク・ペリコは、事件発覚までは「普通の人」として、数十年連れ添った妻と「普通に」暮らしていた。
逮捕された後、ドミニク・ペリコは少年時代に性犯罪の被害に遭ったと告白。そのトラウマでこういう「性癖」になった、と主張していた。その一方で「自分は強姦の犯人だ」と罪状をはっきり認めた。
対照的に、加害者の多くは、罪を認めなかった。
中には、スワッピングを趣味とするカップルの、同意の上での「お遊び」だと思っていた、と弁明する加害者もいた。しかし、動画に映る被害者が昏睡状態にあった(時にはいびきをかいていた)ことから、不同意性交と判断された(意識のない相手との性交は、不同意とみなされる)。
アナイスは携帯電話をオフにし、ため息をつく。
ココット鍋には、まだ大量のオニオンスープが残っている。あと3日は食事を用意しなくてもいい。
11.
ジムにこれまで見たことのない女性がいる。50歳前後の、小柄でずんぐりした体形。
頭の上の方で茶色い髪をちょこんと結び、頭の下半分はすっきり刈り上げられている。
彼女にまとわりつくように、華奢なショートカットの少女二人が、練習用の靴に履き替えている。ひとりはプラチナブロンド、もうひとりは赤毛がかった栗色の髪。
女性はアナイスを見かけると、手で合図をした。
同年代の気安さで、アナイスは彼女にあいさつをする。
「最近ボクシング始めたんでしょ? 私はナタリー。
これは私の娘たち。ブロンドの方がロラ、赤毛がリザよ」
小競り合いをしていた娘たちが、アナイスの方を向いて、二人同時に、にこっと同じ歯を見せた。
「親子でボクシング習ってるなんて、いいですね」とアナイスが言うと、リザが緑色の目で、アナイスをじっと見つめて聞く。
「あなたは、子供いるの?」
同じ質問に、これまで何度答えたかわからない。
「……いないわ」
ナタリーが取りなすように言う。
「子供なんて、小さい時はエネルギーを散々吸い取られてさー。
大きくなっても心配ごとばっかり。ほんとうんざりよ」と笑う。
「うちの場合、特にこの子がねー」と、ナタリーがロラの頭をこづき、大げさにため息をつく。
ロラが豊かなブロンドを揺らして、ナタリーのちょんまげを引っ張ってにやにやしている。
「去年、留年した」とロラが何でもなさそうに言う。
ナタリーがパンチの真似事でロラに対抗すると、「鬼母のせいで」とロラは悲劇のヒロインのような顔を作っている。
ナタリーが、さらに強いパンチをロラの肩に当てると、少女はぷっと笑う。
赤毛のリザが「ロラは、小さい頃からずっと親不孝者なの」と賢そうな顔で言う。
ロラは「今なんて言った?」と矛先を妹に向ける。リザがロラにキックを繰り出している。
「……私たち、ボクシングに来て正解でしょ?」
アナイスに同意を求めるように、ナタリーが肩をすくめる。
――ナタリーと二人の娘たちの小競り合いの様子を眺めているうちに、突然アナイスの記憶がよみがえる。
「子供を、作ろうよ」
ベッドでフィリップがおずおずと言う。もう何度も聞いたセリフだ。
「僕は君と結婚して、子供を育てたいんだ」
アナイスはうまく答えられない。
「まだ、ちょっと……」
何歳の頃だろう。
26歳。
30歳。
37歳……。
「君がママになっている姿が見たい」
「僕と子供と三人の暮らしを想像してみて」
フィリップは、辛抱強くアナイスにプロポーズを続けた。花束を抱えて来た日もある。指輪の箱を渡されたこともあった。
結局、アナイスはフィリップに「イエス」とも「ノー」とも答えなかった。子供のいる暮らしは想像できなかった。
いつかは結婚して、子供を産むのかもしれない。
でも、今はまだ、その時ではない。今は、その話をしたくなかった。
フィリップは、曖昧なアナイスに腹を立てたり、答えを強要したりすることはなかった。とはいうものの、40を過ぎた頃には、もう結婚も子供の話もしなくなった。
それでもフィリップは相変わらず優しかった。二人で過ごす時間は、昔と変わらなかった。
いや、何かが変わってしまったのだ。
もう子供は作れない、とフィリップがあきらめた瞬間、今までとは、根本的に何かが変わってしまった。
12.
ドアを開くと、チリンチリンという、とんでもなく大きなベルの音がした。アナイスは、そのまま逃げ出そうかと焦ったが、思いとどまって中に入った。
これまで何度も、このドアの前を通りかかり、
「セクソローグ エレーヌ・デュシャン(予約制)」
という小さな看板を見るたびに、気になっていた。
私は、何を求めているんだろう?
この私が、セックス・カウンセリング?
でも、他にもう手段がない。
フィリップが出て行ってからというもの、アナイスの右手は毎晩、勝手に下着の中に入り込むようになった。
中指でクリトリスに楕円を幾重にも描き、オーガズムを求めるようになっていた。
フィリップと暮らしていた25年間、浮き沈みはあったものの、ここ数年間は日曜日の夜、決まりごとのようにセックスしていた。
その行為は、フィリップの営みであり、アナイスは受け身に徹していた。セックスの間も後も、フィリップもアナイスも、何も言わなかった。
アナイスはセックスが苦手だった。
フィリップが出て行ったあの日、アナイスは心のどこかでほっとしていた。
「これで、もうセックスしなくてもいいんだ。私の人生の中から、セックスは消えた」と。
それなのに、フィリップがいなくなって数日も経たないうちに、アナイスの指はめしべのような場所をまさぐり始めた。
そんな時、アナイスの脳裏には、恐ろしい光景が浮かんでいた。
若い娘が男たちに犯されている。
色々な場所で、知らない男たちが若い娘をもてあそんでいる。
娘は嫌がっているが、二人の男に手足を押さえつけられ、無理やり服を脱がされている。
「いや、いや……」とアナイスは声を出す。急に昇りつめる。息が切れる。
犯されるのはアナイスではない。これは現実ではない。それなのに、どうしてこんなに後味が悪いのか。
なぜ、こんな想像をしてしまうのだろうか。
ボクシングに通い始めてから数週間経った頃、アナイスの想像はますます飛躍するようになっていた。
エミリーが暗い道を歩いている。
そこに数人の不良が通りかかり、エミリーを車に無理やり押し込んでから犯す。
エミリーは野原を散歩している。二人の男がエミリーを押し倒している。
エミリーが公園でブランコに乗っている。
男がエミリーをブランコから降ろし、服を脱がせると、無理やりエミリーを馬乗りにさせ、膣にペニスを挿入している。もうひとりの男が現れ、エミリーのアナルに中指を押し込んでいる。
色々なパターンがあったが、いつもエミリーは嫌がっている。
抵抗するエミリーに、数人の男たちが馬乗りになっている。エミリーは泣きながら、男たちに犯されていく。
ボクシングの練習場でエミリーの顔を見ると、彼女が今この場で犯されている様子を想像してしまい、吐きそうになった。
そのうち、ボクシングに来ているエミリー以外の女子高校生も、アナイスの妄想に登場するようになった。
練習の日が近づくにつれて、アナイスは消耗していった。
練習中に、また妄想が現れたら、どうしよう。そう思うと、ジムに行くのが怖くて仕方ない。
ボクシングの日、アナイスは朝から迷った挙句、夕方イブリンに「風邪が良くならないので、休みます」と短いメッセージを送った。
安堵と同時に、罪悪感にさいなまれ、何もする気が起きない。
家に帰ると、気になっていたインゲンとキュウリの伸び具合も確認せずに、明るいうちからカーテンを閉めた。
それからも、アナイスの妄想はエスカレートしていく一方だった。
自分の体に触れるのをやめてみたものの、妄想は、いつどこにいても現れるようになっていた。
車を運転している時も、クリニックで仕事をしている時も。
街を歩いていても、すれ違った女の人が、次の瞬間には裸にされ、男たちからペニスを突き付けられ、それを口に含んでいる様子が生々しく浮かぶ。
レストランのテラスで食事をしている男女の口にも、無理やりペニスが押し込まれている。
――アナイスは、外に出るのが怖くなった。
仕事中は、患者が口を開けると、つい目をそむけてしまう。とはいえ、仕事をやめるわけにもいかない。
クリニックの医師に、「性的妄想が止まらないので、当分は仕事を休ませて欲しい」と言うわけにもいかない。
13.
カウンセリングの予約もしていないのに、診療室に突然入るのは失礼だとわかっていたが、電話でうまく説明する自信もなかった。
アナイスは、そわそわしながら待合室の椅子に座って待っていた。追い詰められて、他にどうしたらいいのかわからなかったのだ。
とりあえず話を聞いてもらおう。解決策があるようなら、カウンセリングを続ければいい、とアナイスは思った。
突然ドアが開き、中年の男女がカウンセリング・ルームから出てきた。
「ボンジュール」と目を合わさずに挨拶をする。
どこかで見たことがある気がする。クリニックの患者さんでないといいな、と祈る。
男女が外に出てしまうと、また静寂が訪れる。
それから、もう一度ドアが開き、明るい顔をしたジーンズ姿の女性が現れる。
「エレーヌですが、あなたは? 予約は入っていなかったわよね?」
「す、すみません。入口の表札を見かけて……。電話した方がよかったですよね? また、今度……電話、します……」
アナイスは中腰で逃げの態勢を取る。膝に乗せていたハンドバッグが落ちる。携帯電話が床にぶつかって、ボールペンが2本、部屋の隅に勢いよく飛び出した。
……自分はなんて非常識で、無様なんだろう。みじめさに泣きたくなる。
「……ずいぶん、混乱しているようですね。もしよかったら、少しお話を聞きましょうか? 次のクライアントが、突然キャンセルしてきたところなので……」
エレーヌはまず、落ち着かない様子のアナイスを椅子に座らせる。
「今日はどうして、こちらへ?」
「パートナーと別れてから、私、おかしくなってしまったんです。変な妄想で、頭の中がいっぱいで……。
最初は、夜だけだったんですが、いつの間にか一日中、変なことを考えてしまうようになったんです。そんなことは初めてで、外に出るのも怖くて。
私、どうしていいのかわからなくて……」
エレーヌは、「思春期の子がするような妄想?」と、にやりと笑った。
アナイスは、はっとして、頭を横に振る。
「もっと、すごいやつです」と言ってから、目を伏せて少し考える。
「でも……今の若い子たちは、ポルノのせいで、暴力的な性をイメージしているってよくニュースで聞くから、私の妄想と変わらないのかもしれない……」
エレーヌは咎める様子もなく、アナイスの話をうなずきながら聞いている。
「私は、これまで性的な妄想なんて、したことなかったんです。
思春期の頃も、彼と付き合っていた時も」とアナイスが続ける。
エレーヌが、(そうよね)と同意するような、さわやかな笑顔を向ける。
「実は、25年同棲していた相手と、つい最近、別れたばかりなんです」と、アナイスが少し落ち着きを取り戻して言う。
ボクシングの時とは違う、嫌な汗をかいている。
「そのお相手とは、『交渉』はあったの?」とエレーヌが聞く。
「セックス」という言葉を使わないでくれたことに、強く感謝する。
「……はい、週1回ぐらいは……。でも、いつも相手任せで……。元々、そういうのは好きじゃなかったし……。自分ですることも……ほとんど、なかったんです。
それが、どうして今になって、こんな……?」
エレーヌは、これ以上アナイスの言葉が出てこなくなるまで、じっと聞き入っていた。
少し待っても、もう何も出てこないのを確認してから、柔らかい口調でまとめる。
「長く付き合ったパートナーとは、毎週していたけど、性行為自体は、苦手だったのね。
でも、その人と別れてから、性的な妄想が強く現れるようになった。
それに戸惑っていて、どうにかしたいと思っている……と、ここまでは合っているかしら?」
アナイスは大きくうなずく。
あんなに不器用な話し方だったのに、ちゃんと理解してもらえたことに、深く安心した。
何か、いい解決方法があるのだろう。
やっぱり、勇気を出して来てよかった。
「……お子さんは、いますか?」
聞かれると想像してはいたが、暗に非難されているような気がした。
「いえ……いません。」
その一方で、性的妄想の詳しい話を、これ以上続けるのは気が引けたので、話題が変わってほっとした。
「私が、子供を作りたくなくて……。
フィリップは若い頃からずっと、子供を欲しがっていたんです。結婚して、子供を作りたいって、何度も何度も言われました」
エレーヌは何も言わず、ただ大きくうなずいた。
静かな部屋に、沈黙が流れた。
14.
「もしよかったら、子供時代のことを、少し教えてくれませんか?」とエレーヌが姿勢を正して聞いた。
「子供時代……」
アナイスは何を言っていいのかわからなくなる。
……この質問、私の妄想と、何の関係があるんだろう。
アナイスは憤りを感じた。
「ごく普通の子供でした。学校の成績も普通で、何も目だった出来事もなくて」
以上、と付け加えたくなった。
何も語るべきことなんてない。
「ご両親との関係は良かった方ですか?」
「……普通の関係でした。」アナイスの声が一段低くなる。
「お母さんとは、どんな関係でしたか?」
「母は、普通に育ててくれました。私は、自分で何でもできる方で、手はかからなかったと思います。
4歳下の妹がいたし、母は仕事もしていたから、私にまで手が回らなかったんです」
「お父さんは?」
「父は工場で働いていて、真面目な人だったけれど……時々、お酒を飲んで、母に暴力をふるうこともありました。
私たちは怖くて、あまり父には近付きませんでした。お酒のせいで病気になって、私が高校生の時に亡くなりました」
「お父さんに、暴力をふるわれたことはありますか?」
「いえ、ありません」
「お母さんは?」
「平手打ちをくらったことは、何度かあります」とアナイスは答える。胸が少し痛む。
「でも当時は、そのくらいの暴力は、どの家でも当然だったかな……うちが特別、ってわけではなかったと思います」
アナイスが黙ってしまったので、エレーヌが質問を続ける。
「きょうだいは? 妹さんひとりだけ?」
「……いえ、兄がひとりいます。」
アナイスは、胸に不穏な痛みを感じる。兄がひとり。
「今、きょうだいの仲はどうですか?」
「妹は結婚して、パリで働いています。母が施設に入っているので、そのことで事務的な連絡をするぐらいです。もう何年か会っていません。
兄は……音信不通で、どこで何をしているのかわかりません」
エレーヌが立ち上がる。こつ、こつと歩くと、別の椅子に座り直す。
アナイスのことを優しい目で見つめて聞く。
「子供の頃、可愛がってくれた人はいますか?」
「祖母に……可愛がられました。私が働き始めた頃、祖母が亡くなって……。
その家を受け継いで、今もそこに住んでいます」
エレーヌが少し驚いたように眉を上げ、(いいわね!)と言うように微笑む。
「それで?」
エレーヌが促すようにアナイスを見る。
祖母の話と言われても、何も話せるようなことはない。
「子供の頃のニックネームとか、何か特別な呼び名がありましたか?」
質問に驚いて、アナイスは椅子から立ち上がった。
「……ヌヌース(クマさん)です。」
その一言を発した途端、アナイスの胸に過去の思い出が突然押し寄せる。
苦しい。息ができなくなる。
15.
「ヌヌース(クマさん)」は、4歳年下の妹が「アナイス」と呼ぶことが出来ずにつけたあだ名だった。アナイスが小学生になったばかりの頃だった。
アナイス自身が大柄でずんぐりとしていたため、クラスの男子にも「クマ」と呼ばれることになった。
その言葉を聞くと、今でも涙が出そうになる。
クマのプーさんの絵本を見せられたり、クマのぬいぐるみを押し付けられて、泣くまでからかわれたこともあった。
次のクライアントがドアを開けた音がした。
「1回目のカウンセリングは、これで終了です」
アナイスは、肩すかしを食らったような気分だった。
手帳を手にしたエレーヌが、「次の予約、入れますか?」と聞いてきた。
「あの、私……昔の話じゃなくて、今の妄想のことをなんとかして欲しいんですが……」とアナイスが焦って聞く。
エレーヌが微笑む。すっと立ち上がると、古い板張りの床をこつ、こつ、と音を立てて、ドアの方に歩み去る。
「あなたの妄想の詳しい中身は、わからないけど……。
男の人から、いやらしい視線で見られたと感じたことってある?」
アナイスは、即座にうなずく。そういう視線には敏感だ。歳を取って、性の対象として見られることが減って、本当にせいせいしている。
「私がこれから言うことは間違ってるかもしれないけれど、とりあえず聞いてね。
あなたが想像したようなことって、男も女も、多くの人が想像してるんじゃないかな……。どう思う?」
アナイスは身構える。
「つまり……私の想像は……私が妄想するのは『ノーマル』だって言いたいんですか?」
エレーヌは、アナイスの厳しい口調にも気づかない様子で、のんびりと詩の朗読でもするように、こう言った。
「あなたのファンタスム(妄想)は、あなただけのもの。
誰にも言わなくていいし、恥じる必要もない。どんなに『アブノーマル』な内容でもね」
エレーヌの薄茶色の瞳が、アナイスをじっと眺めている。
(今の詩はどうでしたか?)とでも聞きたそうな雰囲気だ。
アナイスは答えない。
「もしよかったら、今度その話もしましょう」
結局アナイスは、2週間後のカウンセリングの予約を入れた。
16.
マザン事件は新しい展開を見せていた。
薬で眠らされている間に、数十人の男に強姦された被害者の女性が、2024年9月から開始した裁判で実名証言を始め、メディアにも姿を公開したのだ。
暗い色のサングラスをかけた、ジゼル・ペリコという名の赤毛の女性。
初めてテレビの画面で見た時は、70歳を超えた年齢相応の老いが顔に現れていた。気の毒な人……とアナイスは思った。
次にアナイスが見た映像は、弁護士らしい人に付き添われて歩く彼女の姿だった。
田舎町に住む72歳の女性、というレッテルから、アナイスは勝手に、安っぽい服を着ている哀れな老女を想像していた。
ところが、テレビに現れたジゼル・ペリコは、驚くほどエレガントな女性だった。元女優と言ってもおかしくないような、アイロンのかかったきれいな色のシャツに、大きめのアクセサリーのコーディネートが絶妙だ。
「なぜ姿を現すことを決意したのですか?」とジャーナリストに聞かれると、
「性犯罪の犠牲となったすべての女性が、もうこれからは恥じなくてもいいように」と答えていた。
憤りや悲しみを見せることなく、ジゼルの目には強い決意が宿っていた。
加害者の数が多かったため、裁判の数も異様に多くなったが、ジゼルは、ほぼすべての裁判に出廷し、証言を行った。
見知らぬ加害者たちと初めて対面し、自分に対する犯行の様子を撮影した動画を直視した。
裁判に出廷するジゼルの後ろには、彼女を励ます女性が数人、付き添っていた。その数は日ごとに増え、ジゼルを支援する人の数も増え続けた。
フランス各地で、ジゼルを応援するためのデモが開かれるようになった。女性だけでなく、男性も参加するデモの様子が、テレビで報道された。
フランスのあちこちの町の壁に、毎日のように、大きなメッセージが書き残される。
「私もジゼル」
「恥じるべきなのは私たち被害者じゃない。加害者だ」
「女性に対する犯罪をやめさせよう」
裁判に赴くジゼルは、いつの間にかサングラスをとり、深いくまのできた目で、正面を向いて話すようになっていた。
その口調は、常に落ち着いている。
「この事件で、私の人生はめちゃくちゃになった」
相変わらず怒りは感じられない。
「私にも出来たんだから、あなたたちにも出来る」
他の性被害者に対する、パワフルな発言。
彼女の言葉は、いつもシンプルで、重みがあった。
一方、裁判に現れた被告たちは、年齢も職業もさまざまだった。
真面目に家庭を持ち、子供を可愛がり、責任感のある、信頼できる人間だ、と被告の家族や知人は語った。
被告の中には、「これは自分じゃない。自分の体が勝手にやったことだ」と弁明する人もいた。
「夫(ドミニク・ペリコ)がいいと言ったから、彼女が眠っていても、して構わないと思った」と証言している人もいた。
自分がエイズウイルスに感染していることを知っていて、それでもコンドームなしで、数回にわたりジゼルとの行為に及んだ男もいた。
この一件に加担した後で、自分の母親にも、同じことを試みようとした男もいた。
「真面目で信頼できる」はずの男たちは、この異様な状況を目にしても、誰一人として警察に通報したりせず、黙って罪に加担した。
そのうちの何人が、罪悪感を持ち、バレたら罪に問われると、本気で思っていたのだろうか。
ネットに10年近く掲載され続けた「広告」自体、明らかに違法行為を誘うものだった。それなのに、誰からも通報されることはなかった。
ある晩の討論番組では、若い評論家が、
「これはもはや、犯罪者ひとり一人の問題ではない。
男性優位の社会、すなわち、レイプがまかり通り、女性の同意を軽視するシステムが問題なのです」と片方の眉をつり上げて、熱心に話していた。
そんな教科書的な議論よりも、裁判を傍聴しに来た、ある中年女性の言葉が、アナイスの心にひっかかった。
「私の元夫が犯人のひとりで……。
当時はそんなこと、全く気づかなかった。」
アナイスには、この男たちの抱える暗い闇が、理解できない。
17.
夕方、隣人のジュリーから慌ただしい電話がかかって来た。
「アロー(もしもし)、アナイス? 」
電話の中から、「ぎゃーうー」という不愉快な幼児の叫び声がもれ聞こえてくる。
「悪いんだけど、バゲット1本と卵6個、買ってきてくれる?」
職場を出て、パーキングで車にキーを差し込んだところだった。
大通り沿いにあるパン屋は、夕食用のパンを買いに来る人々で、いつも混み合っている。特に通勤帰りのラッシュアワーは、店の外にまで列ができることもある。
3つあるレジの中央の列に並ぶと、左前方に、見慣れた薄緑色のTシャツが目に入る。
フィリップのお気に入りのTシャツだ。
やはり、奥の列にフィリップが並んでいる。ぎゅっと体がこわばる。
彼の横には、30代後半と思われる、細身の女性が立っている。身長がカウンターに届かない、小さな子供2人を連れているようだ。ブロンドの巻き毛が見え隠れする。5、6歳ぐらいだろうか。子供の年齢はよくわからない。
子供を目で追っていたフィリップが、アナイスに気づく。
気まずそうに「やあ」と声をかけてくる。彼よりも10歳以上若い、隣の女性も、こちらをじっと見ている。
無視するわけにもいかず、伏し目がちにあいさつを返す。
それから、カウンターに並べられたケーキを選んでいるふりをして、目をそらす。
ケーキなんて、年に数回も買わない。アナイスは自ら進んでケーキを食べることはない。ホールケーキを買うのは、フィリップの誕生日と聖フィリップの日だけだ。
そんなことくらい、フィリップはよく知っているはずなのに。
フィリップが出て行ってから数日後、本人から電話がかかって来た。
「調子はどう、アナイス?」と聞かれたが、適切な答えが見つからない。「あなたは?」とうつろな質問を返す。
フィリップはなぜか、あの日アナイスが車をコンクリートブロックにぶつけたことを知っていた。
「あの日……ガレージからスーツケースを出した時に、ブロックが邪魔だったから外に出した。そのまま片付けるのをすっかり忘れて、出て行ってしまったんだ」と説明し、「ごめんね」と素直に謝った。
「いつもの修理工場に電話を入れてあるから、来週、仕事の帰りに寄って、直してもらって来るといいよ。お金は僕が払うから」
アナイスが車のバンパーをぶつけたことが気になって、電話をかけて来たのだろうか。
25年同棲していたアナイスを、あっさりと捨てたことではなく。
「私よりも、車のことが気になっていたの?」と、アナイスが小声で皮肉っぽく答える。
「聞いてくれ、アナイス。君に上手く伝わるか、わからないけれど。
今の俺は、これまで知らなかった何かを発見したんだ」
それから、フィリップは、ぼつぼつと不器用に話し始めた。
職場で知り合ったソフィーとは、2年前から付き合っていたこと、彼女が妊娠していること、そのうち結婚しようと思っていること、そんな内容だった。
アナイスは何と答えていいのかわからなかった。
ただ、「そう」と答えて、「それじゃ」と、通話を切る赤いボタンを押した。
フィリップは「元気そうだね」と、再びアナイスに話しかけてくる。
「あなたも」とアナイスが答える。
もうすぐフィリップのレジの番が来る。
フィリップはレジに一瞬目を向けてから、再びアナイスの方に振り向く。シカに似ている、といつも思っていた、面長なフィリップの優しい視線。
突然、フィリップが天井を見上げて、肩をひゅっとすくめた。フィリップの大きな茶色の瞳が上下する。追い詰められた時に、いつもフィリップがする動作。
「セラヴィ……人生って……そんなもんだろう?」
フィリップは飄々とした顔をしていた。
こんな照明の明るい店で、今の恋人と昔の相手が鉢合わせて、さぞバツが悪いだろうと思ったが、フィリップは、もうすっかり新しいページをめくり終えた顔をしていた。
アナイスの見たことのない表情だった。
18.
前回のカウンセリングの最後に、エレーヌが発した言葉が、あれから何度も頭の中に響いていた。
公園の木にナイフで刻まれた落書きのように、その言葉がアナイスの脳に刻み付けられてしまったようだ。
「あなたのファンタスム(妄想)は、あなただけのもの」
「どんなに『アブノーマル』な想像でも、恥じる必要はない」
それって……どういう意味だろう。
アナイスは何度も考えた。答えは、まったく見えてこなかった。
でも、「恥じる必要はない」という言葉が、おまじないのような効果を発揮している。アナイスの気分は少し落ち着いた。
異様な妄想も、エレーヌから「市民権」を与えられ、納得したのだろうか。
ボクシングの練習を休んだ翌日から、エミリーのメッセージが毎日届くようになった。
「心配」
「どんな気分?」
「大丈夫?」
「良くなった?」
「次は来る?」
メッセージは短く、その代わりとでも言うように、可愛い絵文字や色とりどりのハートが前後に沢山ついている。
ああ、この子は若いんだ。今更ながらに実感する。
こんなにエミリーが心配するとは、思ってもいなかった。しかも仮病。
2週続けて休むのは、気が引けた。
アナイスは、あの最初のレッスンの翌日の筋肉痛よりも重く思える脚を引きずって、レッスンに顔を出した。
練習が始まると、アナイスはシャドーイングもそこそこに、これまで避けていた男子高校生を探して、対戦を次々と申し出る。
イブリンが「どうしたの? ねえ大丈夫?」と、心配そうにアナイスの肩を軽く叩く。
「休んでいる間に、体がなまっちゃった」と、アナイスが笑って答える。「しっかり取り戻さないと」
イブリンは、眉間にしわを寄せて、怪しそうにアナイスを凝視している。
男子高校生との対戦は、予想以上にハードだ。
アナイスは、攻撃を避けようと、必要以上に前進、後退を繰り返してしまう。結果、すぐに息が切れ、苦しくなる。
でも、少しでも油断すると、キックやパンチが体のあちこちに入ってくる。
それでも構わない。腹をストレートで叩かれた時はびくっとしたが、意外と大丈夫だった。
アナイスを前に、心配そうな顔をしている若い相手に、「容赦なしで、どんどんやっていいよ……」とささやいた。
明日は体全体にアザが出来ているだろう。でも、この程度の衝撃には耐えられるように、人間の体は出来ている。
そう吹っ切れた途端、アナイスは、相手が怖くなくなった。
休み時間、水を飲むと、汗が新たに噴き出してくる。
汗と一緒に、体から、あの嫌な気持ちが全部出て行ってくれたら……。
ボクシングのハードな対戦によって、忌まわしい妄想を昇華しようとしている自分に気づく。
もしかしたら、私の若い対戦相手たちも、同じような悩みを抱えているのかも。
そう思うと、少し余裕が出てくる。
1分半のスパーリングを何度も続けていると、息が切れて、フォームがぐちゃぐちゃになる。
でも、相手から叩かれたって構わない。そう思ってからは、相手の胸元にどんどん飛び込んで行けるようになった。
「ガードを下げない!」
イブリンの声が響く。
「相手の目をちゃんと見て!」
アナイスより20センチ以上も背が高い、アントニーという少年の青い目をのぞき込む。
ひるまずにばんばん叩いてくるアナイスに驚いたのか、アントニーの目に恐怖が浮かぶ。顔をグローブで守りながら、時々、目を閉じている。
その隙に、ストレートで額に触れる。太ももと脇腹に次々とキックがきまる。
「ブラボー!」とイブリンが満足そうにほめてくれる。
ほぼ同時に、「ストーーップ!」という声が響く。1分半の対戦は、あっという間だ。
アナイスはイブリンの方を見て、にやりと笑う。
汗をぬぐうと、次の相手を探すため、片手を挙げる。
今日の対戦がすべて終了した。
だらしなく座り込むと、イブリンが、「急に動きをやめてはダメ。歩きながらトーンダウンして」と言う。
牛舎に帰る乳牛のように、だらだらと歩く。アナイスが対戦した少年たちも皆、だらしなく足を引きずって歩いている。
女子高校生たちだけが、軽快に歩きながら、高い声でお喋りをしている。
エミリーもすっかり仲間の一員に加わったようで、可愛らしい小鳥のような声が時々聞こえてくる。
対戦相手の目をじっと見て、必死で闘っている間、他には何もない、空っぽの世界にトリップできた。
それが、何よりも心地良かった。
19.
2回目のセックス・カウンセリングの日、アナイスは初回よりも落ち着いた様子で、診療所のドアを開けた。
待合室の窓際の肘掛け椅子は、アナイスが祖母から引き継いだものと少し似ている。今回は、家具に目をやる余裕があった。
「前回のカウンセリングから、何か考えたことや、気づいたことがあったら、何でもいいので、話してみてください」
「前回……」アナイスの舌は重たくて、言葉が見つからない。
「特に何も……」
それから突然、ひらめいたように、
「前回のカウンセリングの最後におっしゃっていた、『どんな妄想も、恥じる必要はない』ということ、何度も考えてみました」と付け足す。
「意味が理解できたか、よく、わかりませんが……。前より少し気分が良くなりました」
エレーヌは(一言も聞き逃さないわよ)と言いたそうな様子で、アナイスの薄水色の目をじっと見て、ゆっくり何度かうなずいた。
「あのね、自分の頭の中で起こっていることだからといって、自分の考えをコントロールすることは、できないのよ」
エレーヌの言っていることが、よくわからない。
とりあえず、かみしめるように脳にしまい込む。
「……でも、おかしなことを考えてしまう自分が、嫌なんです」
「そうね。そう思う気持ちはわかる。でも、仕方のないこともあるのよ。それはそれとして、受け入れるしかないことも」
アナイスは黙って考えている。沈黙が少し気まずい。
エレーヌが話題を変える。
「最近、気になっていることはありますか? ニュースでも、職場でも、ご近所の話でも」
「あの……最近よくニュースでマザンの裁判の話をやっていて……。毎日、つい気になって見ています」とアナイスが言うと、「私もよ」とエレーヌが同志のような微笑みを浮かべた。
被害者のジゼル・ペリコが、想像していたよりもずっと素敵な女性だったことに驚いた、という話は、していいのかどうか迷ったが、性被害を受けた高齢者女性のみじめな姿を想像していたことを裏付けるようで、気が引けたので、何も言わなかった。
それ以上、何を言いたかったのかわからなくなり、また話が途切れてしまう。
20.
おしゃべりが苦手なアナイスだが、エレーヌには何を話しても大丈夫だ、という安心感が芽生えてきた。
アナイスはおずおずと、最近パン屋で偶然、フィリップに会った話と、ボクシングの練習に戻った話をした。
フィリップについて、今の気持ちを聞かれたが、何と言っていいのかわからない。
「若い恋人と一緒に、幸せそうな顔をしているの見て、悔しかった?」とエレーヌが殴りかかるジェスチャーをして言うので、軽く笑った。
少し考えて、「ううん」と首をふる。
「じゃあ驚いた? 悲しかった? ……それとも自己嫌悪?」とエレーヌが次々とまくし立てるので、アナイスは「待って」と手でエレーヌを制し、時間を取って考えた。
「私……フィリップに何度も結婚を求められたのに、プロポーズに答えなかったんです。子供も、欲しくなかった。
フィリップが出て行った時は、見捨てられた犠牲者のように感じていました。
でも、昔からずっと、私は自分の気持ちにちゃんと向き合えずにいたんです。フィリップにきちんと、私は結婚したくないし、子供も欲しくないってはっきり言えばよかった。
だから、あえて言うなら、フィリップが新しい恋人と子供を作れて、結婚も決まって本当に良かったなと思っています」
自分で言っていても、きれいごとを無理して並べ立てているようにしか聞こえない。
でも、フィリップが幸せそうで、ほっとしたのは真実だ。
あの日パン屋で、ガラにもなく「人生」なんていう言葉を口にした彼を見て、驚いた。でも、嫌悪感はなかった。
あの人は、一歩、踏み出したんだ。
彼には、幸せになる権利が、ある。
「そういえば前回、子供時代のあだ名の話を始めた時に、かなり驚いていたようでしたが、その頃のこと、何か話せそうですか?」
子供の頃の話は苦手だ。
「小学校に入った頃から、よく男の子たちにいじめられていました。クマと呼ばれて。
私は体型が大き目で、ぽっちゃりしてのろまだからクマっぽいって。それで、それで……」
その後の言葉が続かない。他に言えるようなことはない。
「それだけです」
エレーヌは少し待っている。何も他のことは思い出さない。
「あの、思い出すのが辛かったら、無理しなくてもいいのよ。
もし、話せそうなら、ということだけど……。
……いじめていた子のことは、憶えている?」
そのエレーヌの言葉に触発されたように、アナイスの頭の中に突然、ぼつんぼつんぼつんという音が一斉に響きだす。
四月に突然訪れた、夏のように暑い日。
半袖のワンピースで外に出て、遊んでいると、青黒い雲が突然やって来て、ひょうが降ってきた時。
落ちてくる氷の塊が作り出すあまりの騒音に、周りの音が聞こえなくなる。小さなパンチを大量に食らった時のように、肌に痛みを感じる。
21.
「……急に、昔のことを思い出しました」
3歳年上の兄は当時、中学生になったばかりだったが、もう不良とつるんでいる、という評判だった。
アナイスは家の近くに友達がいなかった。
宿題が終わると、空き地で花を集め、花の汁をしぼって「香水」を作ったり、白っぽい石灰石や砂を平たい石にこすりつけて「おしろい」を作っていた。
あの日、兄が中学校の上級生と二人でやって来て、「クマ、遊んでやるから来い」とアナイスに乱暴に声をかけた。
アナイスは行きたくなかったが、言われるままについて行った。
「……小学生の頃のことです。今まで、ずっと忘れていた……。本当にあったことかどうか、自信がないけれど……。
どこかで、記憶が、ゆがんでしまったみたい……」
エレーヌが身を乗り出す。
「頭に浮かんだこと、考えずにそのまま言ってみて」
額に汗を浮かべたアナイスが、ゆっくりうなずく。
「兄も……私のことをクマと呼んでいました。
ある日、上級生と一緒に、私を空き地の奥の小屋に呼び寄せて……」
当時、アナイスの一家が住んでいた集合住宅の裏には、空き地があった。その奥には昔、誰かがニワトリを飼っていた小屋の廃墟があった。
近所の不良たちは、その廃墟を基地にしていた。
中学に入った兄は、そこでタバコよりもっと悪いものを吸っている、という噂だった。
アナイスは、小屋に入りたくなかった。
兄に手を引っ張られて、中に入ると、わらに残された鶏の大量の白いふんと、死んだ動物が腐った時の匂いがした。死んでいるのはネズミ? それともスズメかハト?
「今日はクマの穴の探検だ」という、くぐもった笑い声が響いた。
兄の声だったのか、上級生だったのか、わからない。
それからワンピースを半分脱がされた。わらがちくちくした。
「目を閉じろ」という声がして、アナイスは目を閉じた。
兄と上級生の汚らしい手が、アナイスの白い体の色んな部分を、遠慮なくつかんだり、もんだり、引っ張ったりしている。
その後、下着の中に何かが入ってきた。全身の毛穴が立った。
自分にそんな場所があったことも知らない穴の入口に、何か硬いものがぐいっと当てられた。
アナイスの頭に、まずピストルが浮かんだ。恐怖で身が凍り付いた。でもそれは、鉄の塊ではなかった。
無理やりぐいぐいと中に押し込まれる。鈍い腹部の痛みと、皮を切られるような痛み。
私はどうなってしまうんだろう。このまま死んでしまうんだろうか。
何が起こったのか、わからなかった。
気がつくと、ひとりぼっちになっていた。
私も死んだネズミみたいに、ここで腐っていくのだろうか、という恐怖で、身を起こした。
嫌なにおいがして、めまいがした。
家に帰ると、ワンピースと下着に、泥と茶色い血がこびりついていた。
アナイスは、服を汚してしまったことを恥じた。母親に怒られないように、こっそりと外に出て、たらいで服を洗った。
この日の後も「クマの穴の探検」が何度かあったような気がする。
アナイスは拒まなかった。どうしていいのか、わからなかったから。
嫌だと思いながら、無言で兄たちについて行った。
そして何も言わず、ただその時間が過ぎ去るのを待った。
この話は、誰にもしたことがない。アナイス自身さえもが忘れていた。
それから少しして、兄はいなくなった。
盗んだスクーターで事故を起こし、中学を退学になった兄は、遠くの全寮制の学校に入れられた。
高校の途中で、今度は、本格的に行方不明になった。
それから、音信不通のままだ。
アナイスは何度も詰まりながら、話を続けた。
自分の話が真実なのか、作り話なのかすら、段々わからなくなっていった。
エレーヌは熱心に聞いてくれた。
「あなたの心に浮かんでいる思い出が、今は重要なの。
それが真実かどうかなんて、気にしなくていいのよ」とアナイスを促した。
アナイスは混乱し、泣きながら、夢中でエレーヌに話した。
まさか、そんなの全部ウソ。否定する自分がいた。
一方で、アナイスはよくわかっていた。
汚れた手が、遠慮なくアナイスの内ももに触れた時の、おぞましい感触。
異物が押し込まれる痛み。汗のすえた臭い。死んだ獣の臭い。
ワンピースをごしごしと洗っている自分。濡れたワンピースをこっそりと干している自分。
すべてを恥じる気持ち。
作りごとではない。
これは全部、本当にあったこと。
いつ、どうして……忘れてしまったんだろう。
22.
ボクシングの練習場に新しい顔が5人いる。近所の大学でスポーツを専攻している男女の学生だ。
今週から、授業の一環として、ファイトクラブでのフレンチボクシングの練習に参加することになったらしい。
相変わらず、イブリンはアナイスに目を配ってはいたが、新人が入ったり、地区の試合があると、イブリンがそちらの世話に手を取られる。
そんな時は、ベテランの中年男たちが、アナイスのコーチ役を務めてくれる。
初心者ボクサーだからと、遠慮して軽くタッチしかしてくれない相手だと、アナイスも強くパンチやキックを打ち出せない。対戦が終わっても、物足りなさが残る。
時々、遠慮なくパンチしてくれる人にあたると、その方がずっと嬉しい。強めのパンチやキックを受けると、今では興奮物質がアナイスの体をぐるぐると駆け巡り、相手の胸の中に、迷わず飛び込んでいくようになった。
「アナイス、ずいぶん上達したね!
君には闘いに向かっていく精神力がある。ボクシングに向いているんだな」
スパーリングの後、コーチのひとり、ミシェルに大げさにほめられて、アナイスは赤くなった。
単純に嬉しかった。
もっと上手になりたい。
ジムの奥にはリングがある。
次期チャンピオンを狙う高校3年生のジョゼフィンヌが、リングで次々に試合形式の対戦をしていた。
均整の取れた、筋肉質のやや重たそうな体。後ろでまとめた長い髪が、汗で肩や背中にまとわりつき、ヘビの髪を持つメドゥーサのようだ。
ジョゼフィンヌは、無駄のないパンサーのような動きで、コマのように回転し、キックをきめていた。
狼のようなまなざしで相手をにらみ、遠慮なくストレートを何度も出していく。
どの技も、フォームが整っている。
ぼすっ、ぼすっと相手役の中年男の腕や腹に、強いパンチが当たる音がした。
つい息を止めて、見入っていたことに気付いて、アナイスはふっ、とため息をつく。
……あの人みたいに、強くなりたい。
ジョゼフィンヌは、アナイスの憧れだった。
新人の学生との対戦を申し出たアナイスに、イブリンは渋い顔をした。
「新人が一番危険なのよ」と言って。
でも、アナイスにとって、学生との遠慮なしのスパーリングは楽しみだった。
対戦中は、他の考え事をしている暇などなく、相手の目をじっとにらみ、一度でも多くキックやパンチを入れる。
フレンチボクシングはKOを狙いに行くものではなく、相手に傷害を負わせるような攻撃は減点だ。だから、鼻をへし折られたりする心配もない……理論上は。
黒い長髪に、もみあげを長く伸ばした、昔風の美男子が、アナイスに向けてグローブを持ち上げて近付いてくる。次の対戦相手を探している、という合図だ。
シンプルなタンクトップと短パン姿だが、シルクハットと黒いフロックコートの方がずっと似合いそう、とアナイスは心の中で勝手に想像する。
いつの間にか、アナイスの性的な妄想はおさまっていた。
もみあげの男子学生は「ニコラです」と自己紹介した。
「アナイスです。よろしく」
お互いに右手を伸ばし、グローブを合わせる。対戦開始の合図だ。
ボクシングを始めたばかりなのに、ニコラの動きは、バランスとキレがいい。しかも、一度キックした後、その足を降ろさずにまた連続でキックしてくる。
アナイスはガードが緩む隙を狙うが、パンチを入れた後、ニコラはあっという間に守備に入り、なかなかグローブの位置がずれない。
近づきすぎた! そう思った時には、ニコラの左足が、アナイスの太ももに、かなりの強さで当たった。
アナイスはバランスを崩して尻もちをつく。
ニコラがアナイスを見下ろして、「大丈夫?」と聞いてくる。ニコラの黒い髪の毛から、汗が滴り落ちてくる。
転んだのは久しぶりだったが、なんともなさそうだ。
アナイスが手をついて起きようとすると、ニコラの長い腕がにゅっとアナイスの方に伸びてきた。
一瞬、アナイスは戸惑ったが、ニコラの手をつかむ。
「あ、ありがとう……」
ぐっと持ち上げる強い力に身を委ねると、あっという間に立ち上がっていた。
誰かに、立ち上げてもらった……。こんなことは、初めてだ。
……でも、重かっただろうな。
少し照れくさかったが、何よりも嬉しかった。
アナイスの背中に、イブリンの指が軽く触れる。
「大丈夫?」
イブリンが、いつの間にかアナイスの背後に立っていた。
「うん、最高の気分!」
アナイスが、前腕で額の汗をぬぐう。
イブリンは笑っている。
「アナイス、飛びかかるのはいいけど、守りも忘れないでよ」
アナイスは「うん」と無言でうなずく。
23.
次の相手は、小柄でひょろりとしたナタンという男子学生だった。ナタンも、浅黒い肌にものすごい汗をかいている。
対戦が始まると間もなく、予想外のキックに、アナイスは驚いた。
ナタンの足の裏が、胃のあたりに思いきり命中したのだ。
「うっ」と一瞬、息ができなくなる。食事前でよかった。
アナイスも同様に、ナタンの腹部にキックを食らわせる。軸足が耐えられなくて、後ろに跳ね返り、数歩よろける。
「ばん」と音がしたのに、相手はびくともしない。やせているけれど、腹筋がすごく強いのだろう。
もう一度、態勢を整える。
ナタンは右脇腹を狙ってくる。
アナイスはその隙にパンチを出す。耳に1回、おでこに1回触れる。ナタンが、「やられた!」と言い、照れくさそうに笑う。
アッパーカットを入れようと、アナイスがにじり寄って行くと、ナタンが突然、腰を回転させ、アナイスの脇腹に強烈なキックを入れた。
ばーん、という強いかかとの音がした瞬間、アナイスは、気絶するかも……と思った。
これ以上やられたら、本当に壊れる。本能が警告を発動する。
とりあえず、その場に倒れることにする。
その時の様子は、細かく憶えている。
アニメのバトルのように、どっと倒れこんだわけでもない。自分から、のろのろと倒れたのだ。
上からナタンが、「ごめんね、大丈夫?」と聞いてくる。アナイスは「うーん、今のキックは強すぎ」と正直に答える。
伸びてきたナタンの手をつかんで、起きようとすると、脇腹に激痛が走った。反射的に手を離す。
「なんか……ダメ、みたい」
アナイスは床に寝転がったまま、浅い息をついた。
24.
「肋骨にひびが入っているかもね」というイブリンの診断に、皆が「あーあ」とため息をつく。
「肋骨って……折れてるかどうか、どうしてわかるの?」
「普通に息をしているし、痛みを感じずに話が出来ているようだから、骨折ではない、と思う。
肋骨が折れたり、内蔵に損傷があったら、こんなに落ち着いて話せないぐらい痛いからね」
アナイスは、キックが直撃した辺りを触ってみる。
確かに、骨が折れた、という印象は全くない。動かなければ、痛みもない。
……動かなければ。
でも、動かないと、家に帰れない。
まず、起き上がるのが大変だった。
二人の男子学生が、引っ張り起こそうと手を差し出したが、痛くて、とても起き上がれそうにない。
あおむけの姿勢から、時間をかけて、なんとか横向きに寝転がり、そこから片手をついて、一瞬ずきんという強い痛みに耐えて、身を起こした。
「アナイス、あなた……ひとり暮らしだったよね?」とイブリンが聞いてくる。
「近くに家族とか、仲のいい友達で、迎えに来てくれる人はいる?」
アナイスには、そういう「誰か」がいない。
困った時に頼ってくれる人もいなければ、頼れる相手もいない。
時々、用事を頼んでくる近所のジュリーも、2歳と4歳の子供がいるシングルマザーだから、こちらから気軽に世話を頼むことはできない。
今更ながら、孤独な人生だ、と思う。
イブリンが、アナイスを見下ろして、断固とした調子で言う。
「今日は、うちに連れて帰るけど、それでいい?」
中年男たちが、「イブリンのお持ち帰りだとさ」「いいなー」「俺のうちはどうかな?」と、文句とも提案ともつかないことを口々に叫んでいる。
アナイスは慌てて、「お願いします」とイブリンの方を向いた。
イブリンの車はスポーツ仕様だった。座席が低いので、乗るのも一苦労だ。ボクシングの練習着のまま、汗まみれで、高級そうな車体に乗り込むのは気が引けた。
運転席のイブリンは、そんなことは全く気にしていない様子で、時々アナイスを見ては、「大丈夫?」と低い声で聞いてくる。
こんなふうに大切にされたのは、本当に久しぶりのことだ。アナイスは、くすぐったい気分がした。
25.
イブリンの家のバスルームに入った途端、アナイスは懐かしいバラの香りに包まれ、頭がくらっとした。
祖母が使っていたオーデコロンの匂いと似ている。
大きな洗面台の上には、長方形の巨大な鏡が一面に貼られている。奥にはバスタブとシャワーが設置されている。
手前の壁はマスタード色に塗られ、黒い家具とのコントラストがモダンだ。はっきりした性格のイブリンらしいインテリアだ。
洗面台の上に、化粧品やブラシが乱雑に置かれ、タオルも散乱している。
アナイスの目線に気づくと、
「今日は突然だったから……」と慌ててイブリンが、洗面台の化粧品を、乱暴に引き出しに詰め込んでいる。
「あらかじめ、来るのわかっていたら、もう少し片付けたんだけどね」
アナイスが笑う。
いつもの隙のない、強いイブリンに憧れていた。でも、イブリンの意外な慌てぶりに、心がなごむ。人間味のあるイブリンは可愛らしい。
「この状態だと、バスタブには入れないよね。シャワーにしようか?」とイブリンが言う。
確かに、バスタブをまたいで中に入るのも、一度座った姿勢から立ち上がるのも、今のアナイスには難しそうだ。
「大丈夫。ひとりでシャワー浴びます」とアナイスは断言してみたが、イブリンは腕を組み、疑わしそうな顔をしている。
手を上げるのも、かがむのも不自由な状態では、ひとりで服を脱ぐことさえできない。
結局、アナイスの服を、イブリンが子供にするようにゆっくり脱がせ始めた。
特に、汗で貼りついたTシャツを脱ぐのが、大変だった。
同年代なのに、やせて引き締まったヒョウのようなイブリンの前で、ぽってりとした自分の裸体をさらすのは恥ずかしい。
緊張しているアナイスのブラのフックをそっと外しながら、イブリンが優しく言う。
「アナイス、あなた、スイカズラの匂いがするのね」
その言葉が引き金になり、突然アナイスの脳裏を、色々な香りが横切る。スイカズラ、バラ、ティユル、ニワトコ……。
まだ幼くて無邪気な子供だった頃、いつも花を集めて遊んでいた。でも、あの事件を境に、アナイスの子供時代は終わってしまった。
私の子供時代は……砕け散ってしまった。
アナイスの目から次々に涙が落ちる。
そして、その後の私の人生も、砕けたまま。決して元に戻らない。
イブリンは何も言わず、てきぱきと動いている。シャワーのお湯の温度を調整して、アナイスの髪を濡らし始める。
はるか昔、祖母がこうやって髪を洗ってくれた。それから、何十年がたったのだろう……。
私は、壊れてしまった自分を隠して、知らんぷりをしたまま、何十年生きてきたんだろう。
アナイスは泣き声を嚙み殺す。肩が震えると、肋骨に痛みが伝わる。
アナイスの髪は細くて、すぐに指にからまってしまう。丁寧にほどかないと、引っ張られて痛い思いをする。
イブリンは慎重にシャンプーを泡立てると、頭皮を引っ張りすぎないように気をつけて洗ってくれた。
その間も、アナイスはひっく、ひっくと小さい嗚咽を繰り返していた。
イブリンは何も聞かなかった。その沈黙と、ぷつぷつと頭皮に当たるお湯が心地良かった。
アナイスの気分も少しずつほぐれてきた。
髪を洗い流してもらいながら、アナイスは語り始めた。
「子供の時、変なことがあって……。
最近カウンセリングを受けて、そのことを突然、思い出したんです」
無防備な姿のアナイスは、イブリンに背を向けた姿勢のまま、子供の頃に兄たちに強姦されたことを話す。
イブリンは、アナイスの体を洗い流しながら、「可哀そうなアナイス」と一言だけつぶやいた。
蛇口をきゅっと閉める音と同時に、突然、「目を閉じて!」というイブリンの声。頭の上から冷たい液体が流れ落ち、リンゴ酢のすっぱい匂いが髪全体に広がる。
再び蛇口を開くと、シャンプーやリンゴ酢と一緒に、涙も排水口に流れていった。
イブリンがシャワーを止める。ビーチ用の巨大なタオルで、全身をくるまれる。
「アナイス、今は強いボクサーになったんでしょ?」とイブリンがアナイスの瞳をじっと見る。
アナイスは、巨人の国の赤ん坊になったような気がして、小さく笑う。
「そう。強いイブリンのお陰で、こんな私でも、前よりも強くなれた」とアナイスはつぶやく。
「でも、私は決して元通りにはなれない。さっき、そう思ったの」
「おぉ」とイブリンが、自分も同じ痛みを感じているような声を出す。
アナイスのほほに、イブリンの指が軽く触れる。
その暖かい指が触れた、ほんのわずかな面積、たった数平方センチだけでも、壊れた自分が治っていくような気がした。
「トラウマの話だったら、私もあるけど……聞いてくれる?」と出しぬけにイブリンが切り出した。
26.
「私、ここに大きな蜘蛛を飼っているの」と、イブリンが右胸を親指で差して言う。
意味がわからず、アナイスが「どういうこと?」と聞く。
まごまごしているアナイスに、「見てみたい?」と、イブリンがミステリアスな笑みを浮かべる。
アナイスは吸い込まれるようにイブリンの瞳を見つめ、子供のようにうなずく。
「虫とか大丈夫な方? 気持ち悪いけど……」とイブリンが念を押す。
アナイスは、「私、庭仕事で蜘蛛やアリにはしょっちゅう会っているから、虫は怖くないの」と余裕を見せる。
それを聞いて、イブリンが「あはは!」とおかしそうに笑う。
……私、お門違いなことを言ってしまったのかな?
アナイスは少し不安になる。
「ここは少し明るすぎるから、テラスに行かない?」と、イブリンがタオル姿のままのアナイスを、広いテラスに案内する。
本当に、イブリンの胸を蜘蛛が這い廻っているんだろうか?
テラスに出る。夜の外気がすがすがしい。小さな半月が見える。
庭に囲まれて静かなテラスは、リビングの照明でほの暗かった。イブリンが、ローテーブルに置いてあったキャンドルに火をともす。
それから、何事もないように、シャツを脱ぐ。
あらわになったイブリンの胸を見て、アナイスはあっと息をのんだ。
白い肌に、妖しい世界が描かれていた。右胸一面に咲く、ダリアのような大輪の花。その上を、大きな蜘蛛が這い廻っているタトゥー。左側の胸は、小さい「普通の」胸だった。
そのコントラストが強烈で、でもイブリンにぴったりだった。服を脱いだことによるいやらしさは、全く感じなかった。
「こ、これ……いつから?」
アナイスは何を聞いていいかわからず、とりあえず頭に浮かんだ質問を口にする。
「もう10年以上も前のこと」と、イブリンがそのままの姿で、テラスの肘掛け椅子に腰かけて言う。
「病気がわかったのが遅くてね。摘出するしかない、と医者に宣告された。
それを聞いた夫は、子供を連れて、出て行ったの」
「そ、そんな……ひどい……」
アナイスの目に涙が浮かぶ。
「あの人は、怖かったのね。
私が切り刻まれ、弱って、死に近づいていくのを、毎日、見届ける勇気がなかった……」と、イブリンは暗闇をじっと見つめて話す。
イブリンが真っ暗な世界に吸い込まれていく……わずかな沈黙の間、そう感じて恐ろしくなる。
突然、隣に立っているアナイスに気づいたかのように、イブリンがおどけた調子で言う。
「で、結局、死ななかったんだけどね」
「……手術の後、療養センターに入れられた。回復すると、誰もいない家に帰った。
ひとりで、胸も失って……そんな時、自分を守ってくれる、強い何かが欲しかったの。
それで……この蜘蛛を私の人生に迎え入れた。いいでしょ?」
イブリンが、明るすぎる笑顔を浮かべる。
アナイスのほほを、涙がつたう。
イブリンはいつも自信満々で、人生でつまずいたことなんて、一度もないんだ、と勝手に思い込んでいた。
「今は、ボクシングの仲間がいるし、自分も強くなった。
だから、もう蜘蛛に守ってもらわなくても、大丈夫なんだけれどね。でも、こいつは、私の一部なのよ」
「私も、イブリンの人生の一部、でしょ?」
アナイスはイブリンの蜘蛛に、そっと手を当てる。荒ぶる蜘蛛をなだめるように。
「私は弱くて……たいしたことは出来ない」
アナイスが不器用に言葉を探す。
「でも、困った時には、私がいるって、思い出して欲しい」
イブリンが立ち上がり、アナイスをそっと抱きしめた。
イブリンの瞳にも、涙が光っていた。
27.
もうここに来る必要はないかと思っていたが、前回のセラピー終了時、エレーヌは最後のカウンセリングを強く薦めてきた。
アナイスが妄想に悩まされることは、もうほとんどなかった。妄想の中身を、自分の意思で変えられることさえあった。これまでの暴力的でみじめな妄想のかわりに、誰かと自分が心から愛し合い、求めあっているバージョンに書き換えることも出来るようになっていた。
自分としては、もう十分「卒業」できたと思っていた。勝手に持ち帰ったDVDも、図書館の返却ポストに入れた。結局、DVDは見ずじまいだった……。
そうだ、今日はエレーヌに、感謝の気持ちを伝えよう。
出勤前、朝露で濡れた庭に出て、スイカズラとバラを摘み、ささやかなブーケを作った。大きな紙袋に入れ、車に乗り込むと、イブリンのバスルームの匂いが漂った。
アナイスを迎え入れると、エレーヌは、いつもよりも少し厳しい顔で、切り出した。
「今日は、少し辛い思いをさせてしまうかもしれない。
けれど、これからのことを考えて、是非とも取り組んでみて欲しいことがあるの」
これからのこと?
アナイスの心の声があざ笑った。
私のこれからなんて、ないも同然。……この人、何を言っているの?
49歳を目前にして、若い頃からの同棲相手に捨てられた。これから死ぬまで、毎日、何も変わらない暮らしを送っていくだけだ。
アナイスの自虐的な表情を読み取ったのか、エレーヌが言う。
「前回あなたが話してくれた、重い経験から、回復していくことで、あなたの新しい人生が始まるのよ」
そんなわけはない。私はもう、これでおしまいだ。
エレーヌがアナイスの瞳をじっと見て言う。
「再体験になってしまって気の毒だけれど、大切なことだから、出来るだけやってみましょうね。
目を閉じて、もう一度、小さい頃のあなたを思い出して。
被害に遭っていた小学生の頃のあなたのそばに、今のあなたが登場することができたとしたら、なんて声をかけるかしら?」
アナイスは目を閉じて考える。
……小学生の私……。あの頃の私は、なんで助けを求めなかったんだろう。
そもそも、どうして、ひどい目に遭うことを承知で、兄について行ったのか。
そして、なぜすべてを忘れてしまったんだろう。愚かな少女……それが私。
目を開くと、明るい部屋がまぶしく感じる。
「どうして……」
アナイスはおずおずと言う。
「なんで兄さんについて行ったの? なぜ誰にも何も言わなかったの? って、昔の自分を叱る、と思います」
エレーヌの口はへの字を作っている。いつもは明るい目も、悲しそうだ。
「それじゃ、質問を変えてみますね。
アナイス……、これは、もしもの話、だけれど……。
あなたが過去に戻れるとして、そのパラレルな世界では、フィリップとの間に可愛らしい娘が生まれていた、というシナリオをちょっと想像してみて。
女の子ならひとりでも、二人でも、三人でも。その子たちが、もしも……」
エレーヌの目は曇っている。
「もしも、あなたがお兄さんたちにされたようなことを……自分の小学生の娘が、そんな目に遭ってしまったとしたら……?」
28.
「自分の娘が性被害に遭ったことを知った時、あなたは、なんて声をかける?」
アナイスの胸の奥にある何かが、ぐうっと締め付けられる。ナタンのキックで受けたダメージよりも、更に強い痛みを感じる。
苦しい。息が出来ない。目に突然、涙があふれ出す。
「私の娘に……同じことが……」
アナイスは涙をぬぐう。
エレーヌが続ける。
「アナイス、あなたの娘さんは、ひとりで泣いているかもしれない」
アナイスは、はっとする。
「あなたは多分、小さい娘さんの体を、ぎゅっと抱きしめてあげるんじゃないかしら」
アナイスは涙を抑える。いくら抑えても止まらず、視界がぼやけてエレーヌの顔が見えなくなる。
私の……娘。私に、似ていたかもしれない、娘。
言葉は出てこない。
エレーヌが言葉を続ける。
「『辛かったね。怖かったね。でも、あなたは悪くない』って言ってあげるんじゃないかしら」
エレーヌはすぐ目の前にいるのに、声が遠く感じる。エレーヌが何か言うたびに、アナイスの涙がぼとぼとと落ちる。
「『あれは、あなたのせいじゃない。ママはあなたの味方だよ』って言うかもしれないわね」
涙がブラウスのえり首にまで流れてくる。
「娘さんがおびえて泣いていたら、アナイス、今のあなたは、『大丈夫。もうあんな目には遭わせない。ママがボクシングの技で、あなたを守るから』って言ってあげられるでしょう?」
アナイスがうなずく。はな水が口に入る。
サイドテーブルの上に、ティッシュの箱が置いてあった。
……ここで泣くのは、私だけじゃないのかもしれない。
アナイスは、大きな音を立てて、何度もはなをかんだ。
ティッシュの箱が空っぽにならないか、ちょっと心配になり、遠慮がちにティッシュを取り出す。
突然、エレーヌがコウノトリのようにすっと立ち上がる。
アナイスの心配を感じ取ったのか、椅子の後ろにある大きな古い箪笥を開け、ティッシュの箱を3つ取り出すと、サイドテーブルの上に置いた。
小さいサイドテーブルから落ちそうに置かれた、4つのティッシュの箱。
エレーヌの場違いなユーモアに、アナイスは、泣きながら吹き出した。
少し落ち着いたアナイスに、エレーヌが言う。
「マザン事件の被害者、ジゼル・ペリコが、メディアに顔を現した時の言葉、憶えている?
『あのペリコ夫人にだって出来たんだから、私にも出来る、って皆に思ってもらいたかった』って言っていたの」
アナイスはうなずく。
「素敵だな、って思いました」
「ジゼルは事件の発覚後、夫と離婚して、色んな人に支えられて闘って来たけれど、今は新しい彼が出来て幸せそうだって、週刊誌にすっぱ抜かれていたわ」
「70代のジゼルにも出来たんだから、もうすぐ49歳の私にも、新しい人生を歩み出すことが出来る……」
アナイスは、恐るおそる、そう口にしてみた。
エレーヌがうなずいた。
最初は、あまり実感がわかなかったが、エレーヌの背後にあるペールブルーのドアを見ていると、そこから自分の新たな人生の幕が開いてくるような、そんなほのかな予感がした。
29.
ろっ骨にけがを負ったあの日、シャワーの後、イブリンがテーピングをしてくれた。痛みを感じる部位から背中に、ぐるりと。
数日後には、アナイスは、ほぼ自由に動けるようになった。
きつく貼られたテープのせいで、大幅に脇の肉がはみ出しているのが、Tシャツの上からもわかる。それが嫌だったが、今はそんなことを言っていられる立場ではない。
1週間後、アナイスは当然のようにボクシングの練習に顔を出した。
皆が「大丈夫?」「もう治ったの?」と口々に聞いてくる。
アナイスは、肋骨にまだ少し痛みを感じたものの、対戦練習に飢えていた。そのことを言うと、イブリンが「中毒患者みたい」と笑った。
アナイスはひやりとした。ボクシングの与えてくれる高揚感の中毒。その通りかもしれない。
中年男のひとり、モアメッドが、
「心配するな。ここにいるやつは皆、頭が変なんだ」とにやにや笑った。
その時、学生が手を挙げて、対戦相手を探しているのが目に入る。ニコラだと思って近付いてみると、ナタンだった。
ナタンは何も言わず、アナイスの瞳をじっと見た。グローブをぶつけあい、対戦開始の合図をする。
アナイスもナタンの目を凝視し、すぐに対戦に集中する。ストレートを出したり、脚を高く上げて、ナタンの腹部を狙ってみる。
動くたびに、先週キックされた脇腹が痛む。でも、思っていたよりも動ける。これなら大丈夫そうだ。嬉しい。
そう思った時、ナタンが急回転して、全く予測していなかった方向から、テーピングしてある右脇腹に強烈なキックが入る。
アナイスは、何も言えず、その場にどさっと倒れてしまう。
……ああ、バカみたい。また、先週と同じパターンだ。
学習しない自分を呪う。
しかも今回は、異様な感触がある。自分の肋骨が、皮膚をつきぬけて飛び出してしまったように感じる。慌てて周りを見ると、ぬるりと光る骨が数本、ジムの床に飛び散っている。
……え? 私の肋骨が……!
アナイスがあせった瞬間、ナタンがその肋骨を足で踏みつぶし、破片にしているのが目に入る。
「ナタン、やめて!」とアナイスが叫ぶ。
ナタンは、骨をつぶす作業を続けながら、顔を上げると、「これは君のためだよ」と優しい声で言う。
アナイスには、何のことだか全く意味がわからない。
助けを呼ぼうと手を動かすと、肋骨がずーん、と傷む。あまりの痛みに、気が遠くなっていく。
気がつくと、その踏みつぶされた肋骨が、いつの間にか、7~8歳ぐらいの少女たちの姿に変化している。
小さい頃のアナイスに似た、ずんぐりと肉付きのいい少女たちが4人。ボクシング用の白いタンクトップと黒い短パン姿で、機敏にシャドーイングの練習をしている。
小さい体で、楽しそうに、汗を流しながら、長い腕や脚を伸ばして、パンチやキックを繰り出している。
アナイスは不思議な気分で、少女たちの練習姿を眺めている。
いつの間にか、アナイスの周囲に少女たちが集まっている。
「アナイス、私たちのこと、思い出してくれてありがとう!」「私たちをずっと守ってくれて、ありがとう!」と、水色の目を輝かせた少女たちが、次々にアナイスを抱きしめる。
小さく丸々とした少女たちの体のぬくもりが、前後からアナイスに触れるたびに、体の力がぬけていく。
……ああ、これでもう、私は次に進めるんだ。
アナイスは目を閉じる。
どれぐらい時間が経ったのだろう。
再び目を開けると、8歳ぐらいかと思われた少女たちが、10代半ばの美しい娘たちに成長している。エミリーや、他の受講生も輪に加わっている。
「アナイス、安心して!」「これからは私たちが、あなたのこと、ずっと守ってあげる」
娘たちは、丸顔にこぼれそうな笑顔を浮かべ、アナイスを強く抱きしめている。アナイスも、痛い肋骨を手で押さえながら、半起きの姿勢で、彼女たちを抱きしめ返す。
「ごめんね、こんなに弱い私だけど……。
私は、もう逃げない。みんなと一緒に、もっと強くなる」
アナイスを囲む少女のひとり一人を見上げる。皆、スポーツをした後の晴れ晴れとした笑顔を浮かべている。
その笑顔の美しさに見とれているうちに、アナイスの青空のような瞳に涙があふれて、それからはもう、何も見えなくなった。
=完=
(作者注:ジゼル・ペリコ氏の名前の使用について。
裁判が終了した今となっては、本人は匿名の暮らしに戻りたい可能性も考慮し、この小説でも仮名を用いることを考えましたが、米タイム誌2025年「世界で最も影響力のある100人」にも選ばれており、今後も影響力を発揮すると思われるため、あえて実名を使用しました。)
