アナイスの肋骨 7 1時間半のフレンチボクシングの練習は、思った以上に面白かった。
7.
1時間半のフレンチボクシングの練習は、思った以上に面白かった。
ボクシングと聞いて、唯一アナイスがイメージできたのは、サンドバッグを叩く練習だったが、実際に触ってみると、想像以上に硬くてビックリした。
こんな硬いものを叩いて、指の骨が折れないのか、と心配になる。
貸してもらったグローブを手にはめると、かすかに汗のにおいがした。
最初は手加減しながら軽く叩いてみる。
隣で小柄な娘たちが、「フッフッフッフッ」と息を吐きながら、強い力でサンドバッグを叩きのめしている。それを見て、アナイスも少しずつ力を加えていく。
集中してサンドバッグを叩いてみると、最初の緊張感や遠慮が、不思議なほど溶解していった。
それから、イブリンがシャドーイングのやり方を教えてくれる。
相手なしで、パンチ、フック、アッパーカットを真似してやってみる。
鏡を前に、自分が繰り出すパンチは緩慢で、滑稽に思える。
一方、なぜかフックとアッパーカットは、自分の今の気持ちにぴったりな気がする。
「息を吐いて」というイブリンの声に、「フッ」とタイミングを合わせてアッパーカットを入れて見る。
フックを強く出し過ぎて、自分の肩を叩いてしまう。
イブリンが笑い、「おうおう、落ち着いて!」といなす。
馬に話しかけるみたいな口ぶりだ。
顔を上げると、イブリンのいたずらっぽい目がこちらを見ている。
アナイスは吹き出す。久しぶりに笑った。笑いながらフックやパンチを続ける。
その時、突然「これだ」という実感が湧いてきた。
自分に足りなかった何かを、やっと見つけ出したような気分がした。

エミリーと二人でペアになる。ガードの姿勢を作る。
お互いに手を伸ばして相手の肩を触り、同時に相手に触られないようにフェイントする練習や、軽く足先で相手の太ももをキックする練習、相手のおでこにグローブで軽く触る練習など、イブリンが次々と指示を出す。
ペースが速い。
アナイスはついて行くのに必死だ。
中年男たちが、様子を見にやって来る。

「ひじが曲がってる。
もっと腕を伸ばしておでこに触れるんだ!」
「フェイントしながらも攻撃をやめない!」
気がつくと、二人の生徒に指導教官が5人ぐらいついている。
アナイスは、若い頃から誰からも注目を浴びたことがない。
今日は、若くて可愛いエミリーがいるお陰で、アナイスまで集中指導が受けられたのが可笑しかった。
練習が始まって20分後には、恥ずかしいほど汗をびっしょりかいていた。
Tシャツが、洗濯した後みたいに濡れている。
フェイントの練習は、心臓が止まりそうなぐらい息が上がったが、イブリンが時々くれる5分の休憩時間に水を飲みながら、周りを見回してみると、高校生たちも自分以上に汗をかいている。
トマトのように顔を真っ赤にしている子たちも何人もいる。
アナイスも赤いほほが熱を帯びている。
最近はホットフラッシュで、これまで以上に顔が赤くなる。
肌が白い分、ほほが赤くなると異様に目立つ。
職場では、そのことを気にしていたが、皆が顔を赤くして、はあはあと息を切らせているこのジムでは、誰もアナイスのホットフラッシュには気づかないだろう。
顔だけでなく、全身でこんなに汗をかいたのはいつぶりだろう。
ここ数日間の嫌な気分だけではない。
もっと自分の根っこの方に溜め込まれていた毒素が、ごっそりと流れ出ていくような爽快感があった。
レッスン終了後、「来週も来ます」とアナイスが小声で言うと、イブリンがにっかりと笑った。
イブリンの隣にいた、海賊みたいな男が、
「フレンチボクシングの世界にようこそ!」と満面の笑みを浮かべた。

「うっ……やっぱり……すごい。」
翌朝の筋肉痛は、アナイスが想像していた以上だった。
ベッドから起き上がろうとすると、腹筋が悲鳴を上げた。
以前ぎっくり腰になった時のように横になって、いも虫が這い廻るように、のろのろとベッドの端につかまりながら不器用に立ち上がった。
脚が上がらない。ゾンビのように足を引きずってバスルームに入る。太ももがパリパリに張っている。
「うう……」変な声が出る。トイレに座るのも一苦労だ。
ワンピースタイプのパジャマを脱ごうとするが、腕が上がらない。
肩から肩甲骨にかけて、夜中のうちに鉄板が貼りついてしまったかと思うぐらい硬くなっている。
全身がとてつもなく痛い!
「なんなの、これ?」
……気がつくと、アナイスは笑っていた。
「私の体は生きている、生きているから痛いんだ!」とアナイスはひとりで叫んだ。
48歳。何十年も運動したことがない。
そんな体でも、こんなに激しい筋肉痛になる。
これまで使ったことのない筋肉も、まだちゃんと体に存在していた。
そのことが、無性に嬉しかった。
