見出し画像

金色の檻 ─ ハードボイルドFX小説 幕間 名前

この物語はフィクションです
登場する人物 団体 サービスはすべて架空のものです


指が覚えている紙が 一枚ある

何枚目かを 頭は知らない

指だけが知っている

台帳を繰ると その数枚手前で

勝手に 速度が落ちる

数百枚の中の 一枚

同じ厚さのはずの紙が そこだけ重い

確定の紙を仕舞った夜 その台帳を最後に開いた

閉じたら二度と開けない

そう決めての 一読だった

憎かったはずの名前の群れは

繰ってみれば ただの記号の列になっていた

憎しみは 存外もたない

二年で記号になる

そして最後に あの一枚が来た

指が減速して 止まって

俺は今夜も その紙を読まずに 次をめくった

読まずにめくれるようになるまで 二年かかった

あの紙に書かれていたのは 俺の名前じゃなかった

奴らは俺を殴り損ねて 俺の隣を殴った

殴られた人間は 声を上げなかった

上げなかった理由ごと 俺が預かっている

届いた夜 部屋の音が消えて

冷蔵庫の唸りだけが残った

あの音を聞くのは 口座を溶かした夜以来だった

失ったものの大きさは そういう音で測る

中身は書かない

失ったものの名前を書くことは

もう一度失うことだ

二度目まで 自分の手で差し出す理由がない

電話帳の番号を 今も時々開く

開いて 見て 閉じる

押したことはない

押す資格は 守れると思っていた場所に置いてきた

 *

台帳を紐で縛った翌朝 街を出た

北東へ 車で悪路を何時間も走る

この国の北東には 高地の森が広がっている

クメールより古くからそこに住む 先住の民がいる

国の数え方では十を超える民族

言葉も 神も 平地とは別のものを持っている

森の全部に主がいると考える人たちだ

木にも 川にも 病にも

初めて聞く話じゃなかった

俺の生まれた国にも 八百万という数え方がある

祖父の鍛冶場の柱にも 火の神の札が貼ってあった

鉄を打つ前に 祖父は火に一礼した

あの一礼の意味を 俺はこの歳になって

遠い国の森で 思い出すことになる

前に世話になった案内人を頼って

観光の届かない集落の外れに ハンモックを吊った

三日 火の番をして過ごした


森を知らない人間のために書いておくが

ジャングルは 静かな場所じゃない

夜になると 虫の音が壁になる

音の壁の中に ときどき知らない獣の声が混ざる

初日の夕方 ハンモックの下を蛇が通った

腰が浮いた俺の横で 案内人は棒で軽く払っただけだった

殺さないのかと聞くと 笑って首を振った

ここは蛇の家で 俺たちが客だと言う

森の全部に主がいるというのは

そういう意味らしい

客は 主を殺さない

二日目には 慣れた

蛇も 虫も 夜の声も

許すというより 順番が分かってくる

この森では 人間が新入りだ

新入りは 先輩の流儀に合わせる

どこの世界でも 同じことだった

火の番には 掟が一つある

絶やすな

火が細ると 闇が一歩 近づいてくる

薪を足し 火を搔き 火の機嫌を取り続ける

祖父の炉と サウナの木炭と 森の焚き火

俺の人生の要所には なぜか火の番がいる

 *

集落の年寄りが 夜ごと火の輪に加わった

クルクメールだと 案内人が言った

クメールの言葉で クルは師を意味する

薬草を煎じ 骨を接ぎ 祈祷もする

王朝の時代から続く 村の医者だ

八百を超える薬草を 書物ではなく口伝えで受け継ぐ

この国の内戦は 師と名のつく人間を根こそぎ殺した時代だった

それでも薬草の知恵は 森の口伝えの中で生き延びた

紙は燃える

口伝えは 燃えない

台帳を縛ってきた男には 少し応える話だった

平地から森に入って長いというその爺さんは

病も 揉め事も 弔いも 引き受けるらしい

森の暮らしでは 薬草と精霊の窓口が

役所より先に要るということだ

三日目の夜 クルクメールが束ねた草を火にくべた

行きつけのサウナと同じ 香草の匂いがした

煙の向こうから 何か短く問われた

案内人が訳した

失くしたものがあるなら 呼び戻してやると言っている

少し考えて 首を振った

呼び戻せるものなら とっくに自分で呼んでいる

呼べないから 名前とだけ呼んでいる

案内人が訳すと 爺さんは笑って

火に もう一束くべただけだった

その返事の意味は 訊かなかった

訊かないのが礼儀だと 煙が言っていた

 *


眠れない夜 火の脇でシダの葉を見ていた

若い芽が 渦を巻いてほどけていく途中だった

この渦は でたらめに巻いていない

内側の一巻きと外側の一巻きの大きさが

おおよそ 1対1.618 で増えていく

巻貝の殻も 台風の渦も ひまわりの種の並びも

おおむね同じ比率で育つ

黄金比と呼ばれる数字だ


相場にも 同じ数字がある

押しの深さを測る 38.2%と61.8%

あの物差しの目盛りは この1.618から作られている

幕間で書いた 信仰の物差しだ

物差しが効く理由を 俺はずっとこう答えてきた

世界中の画面に同じ目盛りが引かれ

みんなが見ている場所に注文が置かれるからだ と

その答えは 今も変えない

ただ 火の脇でシダの渦を見ていると

もう一つの考えが 煙みたいに湧いてくる

群れも人間で 人間も自然の一部なら

目盛りの方が先に 自然の側にあったのかもしれない

人間が発明したんじゃなく

人間が思い出しただけなのかもしれない

確かめる方法はない

確かめられないものは 張らない

それが商売の掟だ

ただ 森で一晩 神秘の隣に座るのは 悪くなかった

 *

この国のことも 少し書いておく

賭場と寺が同じ通りに建ち

地雷の看板の向こうに 高層ビルが伸びる

半世紀前 この国は自分の手で自分の師を殺した

医者も 教師も 眼鏡をかけているだけの人間も

その傷の上に いまの街が立っている

いいことも 悪いことも この国は隠さない

隠す体力のある国と ない国があるだけかもしれないが

俺は隠さない場所の方が 息がしやすい

俺の名前も 俺が何者かも

何と戦って 何を失ったかも

この森は何も知らない

知らないものの前でだけ 人は自分に戻れると

第10章に書いた

今度の席には 森が座っていた

名前を知られていない場所でだけ

名前の話は 終えられる

火の粉が上がって 消えた

名前の話は これで終わりだ

二度目はない

ただ 誤解のないように 一つだけ

終わったのは 名前の話だ

俺の中で終わったものと

終わっていないものは 別の棚にある

火の番をしながら 考えていたのは灰のことだった

消えたように見える灰の底ほど 芯が残る

番の仕事は 炎の間じゃない

灰になってからの方が 長い

祖父の炉でも サウナでも この森でも

火の始末を人に任せる番人を 俺は見たことがない

台帳は縛った

捨てていない

縛ることと 終わることは 違う

その違いが分かる読み方を あんたに任せる

 *


麓に降りると 電波が戻った

金は静かに戻りを育てていた

部屋に戻って まず地図を引き直す

三日分の値動きを読み込んで 線を引き直す

売り場というのは 生き物だ

森に入る前に見ていた水域は

三日分だけ もう古い

数字は毎週動く

高値と安値が更新されるたびに 蓋も床も引き直しになる

だから俺は 数字を覚えない

数字の出し方だけ覚えている

変わらないのは 型と 弾の大きさと

待つという仕事だけだ

値段は俺の事情を知らない

知らないまま 引き直したばかりの地図の中を登ってくる

それでいい

ここから先は 夜間授業になる

方眼紙の若い男に語った 世界の金の話だ

─ 第二部「金と紙が別れた夜」に続く ─

いいなと思ったら応援しよう!