■ 幕間 鮨屋の女
この物語はフィクションです
登場する人物 団体 サービスはすべて架空のものです
一
プノンペンには 意外なほど旨い鮨屋がある
日本人の職人が握る店だ
行きつけの昼飯だ
儀式でも褒美でもない
ただ近くて 旨いから通っている
その日の昼 隣に日本人の女が座っていた
三十前後
日本語と英語と中国語を 会話の相手によって使い分けていた
頭の回転が速いのが 注文の仕方で分かった
商談の相手は 中国人の女だった
聞くつもりはなかった
だがカウンターというのは 声の逃げ場がない
月給は日本円で三桁
寮は完備
携帯は仕事用を支給
パスポートは会社がお預かりします
俺は湯呑みを置いた
この街で三年暮らせば 分かるようになる
高すぎる給料は 給料じゃない
値札だ
人間につく値札だ
二

商談の中国人が席を立って 電話に出た
その隙に 俺は隣に声をかけた
「その仕事 場所はどこだ」
女は営業用の顔のまま こちらを見た
「国境の方ですけど 何か」
「パスポートを預かる会社に ろくなもんはない」
「日本でもありますよ 貴重品のお預かりくらい」
「預かると取り上げるは 漢字が違うだけだ」
女の顔から 営業が抜けた
一瞬だけ
その一瞬で十分だった
本人も どこかで気づいていたのだ
気づいていて 金額が気づきを黙らせていた
騙されてる最中の人間は
騙されてない証拠を自分で集める
塀の中で聞いた言葉は
鮨屋のカウンターでも生きていた
三
女の話を聞いた
日本で作った借金
夜の仕事で返して 返しきれず
多国語が話せるから海外で高収入 という誘い文句
絵に描いたような導線だった
導線というのは 描く側がいるから導線になる
「紹介してきた人間の 上は誰だ」
「川向こうの飲み屋にいる人だって聞きました」
俺は勘定を済ませて 立ち上がった
「案内しろとは言わない 店の名前だけでいい」
四

飲み屋は 音楽のうるさい店だった
元締めは奥の席にいた
日本人だった
歳は俺と変わらない
こういう場所の日本人は 二種類しかいない
流れ着いた人間と 流している人間だ
男は後者だった
隣に座って バランタインを二つ頼んだ
「あの女は 降りる」
それだけ言った
男は笑った
「兄さん どこの人」
「どこでもない ただの相場師だ」
「相場師が人助け? 割に合わんでしょ」
「割に合わん商売は お互い様だろ」
男の目が 初めて俺を値踏みした
背中の模様の話はしなかった
する必要のある空気は 喋らなくても伝わる
長い沈黙のあと 男は肩をすくめた
「別に 在庫は他にもおるし」
在庫
人間をそう呼ぶ人間と 同じ酒を飲んだ夜だった
グラスは空けた
味は覚えていない
帰り際 男が背中に声を投げてきた
「兄さん 相場師なら分かるでしょ
うちらのやってることも 需要と供給ですよ」
振り返らずに答えた
「相場には損切りがある
あんたの商売には それがない」
外に出ると 雨が上がっていた
川の匂いがした
この街の川は 夜の方が匂う
五
女はしばらく この街にいた
俺の部屋のソファで 履歴書を書き直して
昼間の仕事を探して
見つからないまま 日本に帰った
空港には送らなかった
送る柄じゃない
先月 風の噂を聞いた
またこの街に戻ってきているらしい
俺は会いに行っていない
理由は書かない
六

最後に 川の話をもう一度する
第3章で 紹介報酬の川の話を書いた
あれはまだ 明るい方の川だ
この国の国境の街には 暗い方の川がある
高い塀と鉄格子の建物に
パスポートを預けた人間たちが詰め込まれて
朝から晩まで スマホを打っている
打っているのは 投資の誘い文句だ
あなたのスマホに届く
儲かる話 未公開の案件 必ず上がる銘柄
あの文面の何割かは
ああいう建物の中から打たれている
打っている人間も 被害者であることが多い

騙されて連れて来られて
騙す側に回らされている
建物の中の仕事には ノルマがあるという
一日に何人と繋がり
何人に夢を見させ
何人に入金させたか
数字が足りない人間がどうなるかは
ここには書かない
書かないが 想像した通りだと思っていい
奴らが使う台本も 出来がいい
最初の一週間は 金の話をしない
天気の話 飯の話 犬の写真
人間は 金の話より先に
寂しさで財布を開く
それを知り尽くした台本だ
孤独な人間ほど よく釣れる
この商売の餌は ボーナスでも金利でもない
孤独だ
画面の中の詐欺と
生身の人間を呑む詐欺は
同じ川の 上流と下流だ
そしてその川の源流には
顔を出さない連中が座っている
一つの名前を 何人かで使い回すような連中が
その話は もうすぐ書く
時々 日本のニュースが流れてくる
国境の街で保護された誰か
連絡が取れなくなった誰か
ニュースは数日で消える
建物の灯りは 消えない
今夜も国境の街では
窓の数だけ灯りがついている
灯りの数だけ 人がいる
─ 第5章「ストップ狩り」に続く ─
