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■ 第4章 すべてを溶かした若い男

この物語はフィクションです
登場する人物 団体 サービスはすべて架空のものです

 一

男は約束の時間より二十分早く来た

早く来る人間には二種類いる

礼儀で早い人間と 追われて早い人間だ

男は後の方だった

歳は二十代の半ば

痩せていて 目だけが忙しなく動く

雨季の蒸した午後なのに 長袖を着ていた

袖の下に何があるのかは 聞かなかった

「配信 ずっと見てました」

そう言って深く頭を下げた

礼儀は残っている

金は残っていない

話は一時間かかった

要約すれば十秒で済む

豪華なボーナスの業者で口座を開き

千倍のレバレッジで金を張り

落ちるたびに買い足して

三度 口座を飛ばした

三度目は 親に借りた金だった

「取り返そうとして 気づいたら倍のロットになってました」

知っている

その道は舗装されている

通った人間が多すぎて 舗装されてしまった道だ

男から 焦げた匂いがした

体の匂いじゃない

金の焦げる匂いだ

この匂いのする人間に 型の話をしても入らない

先に 別の話をすることにした

 二

バランタインを二つのグラスに注いだ

男は遠慮したが 構わず前に置いた

「飲みながらでいい 昔話をする」

俺の祖父は 鉄を打つ人だった

何代続いた家なのかは 聞かなかった

聞いても 答えたかどうか

無口な人だった

物心ついた頃には 山あいの仕事場で

祖父の背中と 炉の火だけを見て育った

相場を教えられた記憶はない

鉄の待ち方だけは 教えられた

「鉄はな 打っていい温度になるまで 触るな」

炉の前で 祖父は何時間でも待った

色を見て 音を聞いて

まだだ まだだと言いながら

たまに 一日中打たない日があった

子供の俺が退屈して聞いた

今日は仕事しないのかと

祖父は火を見たまま答えた

「待つのも仕事だ」

その祖父が 夜になると茶の間で

方眼紙に何かをつけていた

新聞の数字を写して 定規で線を引いて

赤鉛筆と黒鉛筆で 小さな箱を並べていく

何十冊も 押し入れに積んであった

あれが何なのか分かったのは

祖父が死んで ずっと後だ

手で描いた 値段の記録だった

火を待つ男は 夜は値段を待っていた

理由は聞けずじまいだった

聞いたところで

「待つのも仕事だ」と言われた気がする

 三

「それが相場と何の関係が」

男が言った

いい質問だ 全部関係がある

グラスを置いて チャートを開いた

「この一本一本の火を どう見てる」

「ローソク足ですよね 陽線と陰線で」

「名前はいい 中身の話だ」

蝋燭は二つの部品でできている

箱と 髭だ

箱は 始まりと終わりの値段の間

その日の戦いの決着だ

髭は 途中まで行って押し返された跡

つまり 死んだ注文の墓標だ

上に長い髭は 買いが殺された跡

下に長い髭は 売りが殺された跡

蝋燭を千本読めば 千日分の殺し合いが読める

これは日本の技術だ

江戸の昔 米を張る男たちが発明して

二百年かけて海を渡り

今は世界中の画面で灯っている

昔の相場師たちは 型に名前を残した

本に書いてある名前なんか 覚えなくていい

覚えるのは 人が逃げた場所と

人が飛びついた場所だ

同じ高さで三度止められた山があったら

その裏に三段階の人間がいる

一度目の高値で買って捕まった人間

二度目で祈った人間

三度目で諦めた人間

三度止められた山は 三段階の絶望の形だ

逆さまなら 三度跳ね返った底

売り叩いた側が力尽きていく形だ

窓を三つ続けて開けた相場は 終わりが近い

窓というのは 値段を確かめずに飛びついた焦りの跡だ

焦りは長続きしない

三度続いた焦りの先には 燃料切れが待っている

同じ色の火が三本 静かに並んで進んだら

それは焦りじゃない 行進だ

大きな金が 隠れるのをやめた跡だ

そして昔の相場師は もう一つ型を残した

大きく動いた後の 小さな休みの型

その間は何もするな という型だ

売り買いの型と並べて

触らない型を一つ 残していった

休むも相場という言葉ごと

「五つのうち一つが 休みなんですか」

そうだ

先人は技の五分の一を 触らないことに割いた

千倍レバレッジの画面には

休むというボタンがない

だからお前は三回飛んだ

男のグラスが 止まっていた

 四

「でも 型を覚えれば勝てるように」

男が言いかけて 言葉を選び直した

「……勝率は 上がりますよね」

その目の色を知っている

聖杯を探す目だ

祖父の仕事場の話を もう一つした

ある日 祖父が打っていた鉄が割れた

長く火に入れて 長く打った鉄だった

子供の俺には もったいなく見えた

あんなに叩いたのに と言うと

祖父は割れた鉄を火箸でつまんで言った

「叩きすぎたんだ」

刀は 叩きすぎると割れる

相場は 触りすぎると口座が割れる

どんな型で入ろうが

一回の取引で口座の一パーセント以上を賭けるな

三度止められた山を見て売っても 外れる日はある

外れて減るのが一パーセントなら

百回続けて外れる才能がない限り 死なない

「一パーセントって 増えるの遅くないですか」

遅い

その 遅いと感じる感覚こそが

お前の口座を三回焼いた犯人だ

相場は逃げない

明日も開く 来年も開く

逃げるのは いつも資金の方だ

もう一つ 匂いの話をしておく

負けた直後の脳は 酔っ払いと同じ状態になる

冷静なつもりでも 判断は濁っている

だから縛る

負けた日は その日のうちに取り返さない

口座を飛ばしたら 一ヶ月は触らない

自分を縛るのは 自分を疑っているからじゃない

負けた直後の自分だけは

誰であろうと信用に値しないからだ

祖父は打たない日 炉の火を落として山を歩いていた

火から離れる時間も 鍛冶のうちだと

今なら分かる

俺は大きく負けた日 電源ごと落としてサウナに行く

画面から物理的に離れる

それも技術だ

道具は変わった

人間は 一行も変わっていない

 五

帰り際 男に宿題を出した

方眼紙を一冊買え

一ヶ月 金の日足を手で描け

一日一本 定規と鉛筆で

「アプリで見れますけど」

見るのと描くのは違う

描くには 始値と高値と安値と終値を

四つとも自分の目で確かめることになる

確かめて 手を動かすと

その日の相場の顔が 手に残る

祖父の押し入れの何十冊は

あの人の腕そのものだった

腕は買えない

描くしかない

男は方眼紙という言葉をスマホに打ち込んで

何度も頭を下げて帰っていった

焦げた匂いは まだ消えていない

消えるかどうかは 俺の仕事じゃない

方眼紙の仕事だ

 六

一人になって バランタインを注ぎ直した

祖父が死んだ時 押し入れの方眼紙は処分された

親戚の誰も 価値が分からなかった

俺もその時は分からなかった

今なら分かる

あれは火を待つ男が

欲と恐怖を相手に 一人で続けた素振りだった

打つ前に 待つ

その一点だけで 鉄も相場も繋がっていた

グラスの底で氷が鳴った

窓の外は雨だった

そういえば あの男

最後に妙なことを聞いてきた

「損切りの位置 毎回きっちり置いてたのに

いつも自分の損切りのすぐ下まで刺さってから

反転するんです あれ何なんですか」

いい質問だった

いい質問すぎて 今夜は答えなかった

あれは偶然じゃない

お前の損切りは 見られている

夜の狩人の話は 一晩がかりになる

─ 第5章「ストップ狩り」に続く ─

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