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金色の檻 ─ ハードボイルドFX小説 第9章 大相場

この物語はフィクションです
登場する人物 団体 サービスはすべて架空のものです

 一

先に 常識を三つ壊しておく

この章はその作業から始めないと 書けない

一つ

コツコツ毎日勝つのが上手い相場師だという常識


嘘だ

一年分の損益を並べてみろ

利益の大半は 数週間で出ている

残りの十一ヶ月は その数週間のための待機だ

相場師の一年は 漁師の一年に似ている

魚は毎日いるが 群れは年に数回しか来ない

毎日大漁の漁師がいたら 網か帳簿を疑え

二つ

大相場の勝者は 最初に乗った人間だという常識

違う

底で買った人間の大半は 一割上で降りている

底を当てた自慢と 波を獲った損益は 別の帳簿だ

大波でもっとも稼ぐのは

途中で降りなかった人間だ

乗る技術より 降りない技術

この章の芯はそこにある

三つ

押し目を待って安く買うのが正しいという常識

半分だけ正しい

そして大相場では その半分が死ぬ

一級の波は 押し目をくれない

くれないまま 走り切る

待つ者は 置いていかれたまま終わる

三つ壊した


ついでに もう一つ壊しておく

大相場では 予想屋が大量に死ぬ

天井を当てようとする人間たちだ

強い波の間 天井予想は毎週外れる

外れるたびに 予想屋は次の天井を予想する

十回外れて 十一回目に当たると

彼らは十一回目だけを額に入れて飾る

波に乗っていた人間は 黙って十回分を獲っている

当てる商売と 獲る商売は 別の商売だ

この物語の第1章から言っていることだが

大相場ほど その差が残酷に開く

ここから あの波の話をする

 二

波の始まりは 静かだ

あの年の秋も 静かだった

各国の中央銀行が 何年も金を買い集めていた

ドルの武器化を見た国々が 準備資産を静かに移していた

利上げの峠は越えたという観測が 金利の頭を重くしていた

材料はどれも 新聞に載っていた

載っていたのに 誰も騒いでいなかった

騒がれていない材料ほど よく走る

チャートには先に出ていた

月足の扇の中央線を 終値で上に抜けた月があった

中央線から上の世界は 角度が変わる世界だ

週足では 三本の火が並んで進んでいた

焦りのない行進

大きな金が 隠れるのをやめた足音だった

俺は連敗の底から戻ったばかりで

方眼紙の百回を終えた手に

まだ鉛筆の跡が残っている頃だった

弾倉に 一つ目の弾を込めた

一つ目の弾を込めた夜のことは よく覚えている

場所は 週足の押し安値のすぐ上

型の条件が全部揃っていて

それでも入力する指が 一秒だけ迷った

連敗の記憶は 指に残る

迷った一秒の後で 判を押した

型を信じたんじゃない

型を作り直した百枚の方眼紙を信じた

信じるという言葉は 人間には重すぎる

俺が信じたのは 紙だ

 三


高値を買い増す話をする

たぶんこの章で もっとも嫌われる話だ

ナンピンの正反対を想像してくれ

負けているポジションに足すのがナンピンなら

勝っているポジションに足すのが 増し玉だ

下がるたびに買うのではなく

上がって 型が確認できるたびに 買い増す

素人の禁じ手とされている

高値掴みの重ね塗りに見えるからだ

だが考えてみろ

負けに足す行為は 自分の間違いに金を足している

勝ちに足す行為は 自分の正しさに金を足している

どちらが理屈に合うか

答えは決まっているのに

人間の手は逆をやる

安くなったものを買うと 得をした気になり

高くなったものを買うと 損をした気になる

八百屋の買い物の癖が 相場に持ち込まれている

八百屋では正しい

相場では 大根は明日もっと高くなる日がある

俺の増し玉は 弾倉方式と噛み合っていた

一つ目の弾倉が育ったら 二つ目を込める

二つ目が育ったら 三つ目

負けたら その弾倉ごと終わり 追加はしない

負けたら薄く 勝ったら厚く

言葉にすれば一行の原則を

体に入れるのに十年かかった

増し玉には 冷たい算数がある

買い増すたびに 平均の取得値段は上がる

つまり浅い押しで 全体が赤くなる日が来る

それが怖くて足せない人間が多い

だから足し方に型がある

上に行くほど 弾を小さくする

一発目が十なら 二発目は六 三発目は三

ピラミッドの形に積む

逆の形に積んだ塔は 浅い揺れで崩れる

そして追加のたびに 損切りを全体の建値の上まで引き上げる

塔ごと守るんじゃない

塔の利益ごと 逃げ道を確保しながら積む

これをやると 面白いことが起きる

途中からは もう負けられない状態で

波の上に立っていることになる

恐怖が消えるわけじゃない

恐怖の中身が変わる

いくら失うかの恐怖から

いくら取り損ねるかの恐怖へ

後者は 人を殺さない

 四


そして一級の波は 隙間を置き去りにして走る

隙間の話は この物語で初めて書く

急騰の日 チャートには埋まらない値段の帯が残る

買いたい人間が多すぎて

値段が飛び 途中の価格帯で誰も取引できなかった跡だ

置き去りの隙間と 俺は呼んでいる

古い相場の言葉なら 窓に近い

教科書は言う

窓はいずれ埋まる 隙間まで戻るのを待て

大相場では その教えが死ぬ

強い波ほど 隙間を埋めに戻らない

隙間の数は 弱さの印じゃない

買い手の飢えの深さの印だ

隙間だらけの上げを見て 気持ち悪いと降りる人間と

隙間の数を数えて 弾倉を足す人間

あの波では その二種類に分かれた

押し目を待った人間の指値は

一度も約定しないまま 相場は五割上にいた

隙間の使い方も 置いていく

隙間は 二つの読み方ができる

一つ目 温度計として

走っている波が どれくらい飢えているか

隙間の数と大きさで測れる

隙間を作りながら登る相場は 熱い

隙間を几帳面に埋めながら登る相場は 冷め始めている

熱の落ち方は 値段より先に 隙間に出る

二つ目 入口として

大相場でも 浅い戻りは来る

その戻りが止まりやすい場所が 置き去りの隙間の縁だ

飛び乗り損ねた買い手が

あの隙間まで戻ったら買うと 待ち構えているからだ

押し目を待つなとは言った

だが戻りが来た時に どこで受けるかは決めておく

待たない戦略と 受け皿の用意は 両立する

矛盾に見えるものを両立させるのが 玄人の仕事だ

 五


ここからが 本当に書きたかった場所だ

保有の地獄の話

大波に乗った後の日々を 誰も書かない

書かれるのは 入口と出口ばかりだ

乗っている間 何が起きるか

毎日 含み益が囁いてくる

利食え 利食え 明日消えるぞ

画面を開くたびに 数字が育っていて

育った数字は 育った分だけ重くなる

十日目の含み益は 十日目の恐怖だ

SNSは祭りになっていく

やれ天井だ やれバブルだ

俺はもう利食ったという報告が 毎日流れる

降りた人間は 降りた自分を正当化するために

天井を予言し始める

その声は 保有している人間の耳に よく刺さる

眠りが浅くなる

夜中に一度 画面を確かめる癖がつく

連敗の時と同じ症状が 勝っている最中に出る

保有の地獄を生き延びる道具は 三つしかなかった

一つ 住む世界を固定する

俺は週足の世界に住むと決めた

日足の赤い日に 心を貸さない

幕間で書いた 並行世界の掟だ

一つ 損切りを建値より上に置く

もう負けは存在しない状態を作る

残る問いは いくら勝つかだけになる

その状態を作ってから 人は初めて波の上で眠れる

一つ 半分降りる

節目で半分だけ利食い 残りは扇に預ける

全部持つ強さより 半分手放す柔らかさの方が

結局は遠くまで運んでくれる

それでも苦しかった

大相場の保有は 幸福じゃない

歯を食いしばる種類の 苦行だ

一度だけ 危ない夜があった

日足が大きく崩れて SNSが葬式になった夜だ

終わった 天井だった 逃げろ

流れる文字を見ながら

指が決済のボタンの上まで動いた

その時 思い出したのは白菊だった

祈るな 切れと 俺は他人に言い続けてきた

だが逆もある

計画があるなら 悲鳴で降りるな

俺の計画の損切りは 建値の上で息をしていた

週足の型は 何も壊れていなかった

壊れていたのは 日足の世界の空気だけだ

指を引っ込めて 画面を消した

翌週 相場は高値を更新した

あの夜降りていたら

この章は書けていない

これを先に知っていれば

途中で振り落とされる人間は 半分に減る

 六


天井の話をする

天井を当てる話じゃない

天井の匂いの話だ

あの冬 四つの匂いが揃った

一つ 窓が三つ続けて開いた

値段を確かめない飛びつきの跡が 三段重なった

数百年前の米相場の男たちが

窓を三つ開けた相場は終わりが近いと言い残した形だ

一つ 出来高が壊れた

じり高の静かな出来高が

ある週 祭りの太鼓に変わった

参加できる人間が出尽くした瞬間 次に買う手が消える

一つ 月足の扇の上の縁に 値段が触れた

三年の角度の 天井側だ

一つ 相場を知らない人間が 金の話を始めた

飯屋で 床屋で 親戚の集まりの画面の中で

靴磨きの少年の 現代版だ

四つ揃った週に 俺は残りを全部降りた

五千六百の天井のずっと手前だ

降りた翌週も 相場は上がった

天井までの最後の数百ドルは

俺の口座を素通りしていった

それでいい

頭と尻尾はくれてやると 第1章で書いた

十年経っても その作法だけは変わらない

天井を獲った人間を 俺は一人だけ知っている

そいつは次の年 天井を獲った張り方のまま

全部を返した

波の終わりは 波の始まりより速かった

三年かけて登った角度を

数ヶ月で四分の一 返した

上げは階段で 下げはエレベーターだと 昔の人は言った

エレベーターに乗り合わせた連中の大半は

五千六百の靴磨きたちだ

最後の窓で買った人間から 順番に落ちていった

俺は降りた後の下げを 画面の外から見ていた

見ながら 第2章に書いた言葉を思い出していた

床は守られた期間の分だけ 割れた時に深くなる

天井も同じだ

信仰が篤かった分だけ 冷めた時は冷たい

 七

天井の匂いの四つ目を書いた時から

思い出している部屋がある

素人が金の話を始める あの匂いを

俺は昔 毎日嗅いでいた

多い時で 三千人いた

あの部屋は 俺が作った部屋だった

看板には王の名前が掛かっていたが

教えるのも 業者を確かめて選ぶのも 俺の仕事だった

使っていた業者はまっとうな大手で

出金は速く 履歴は綺麗だった

道具に嘘がなければ あとは腕の話をしていればいい

そういう時期が 確かにあった


ある月 俺の頭越しに配管が替わった

看板の側からの一斉告知

新しい推奨業者

俺は黙って口座を開き 取引ソフトを立ち上げた

数日 触って分かった

ソフトが 借り物だった

サーバーの名義が 別の会社の名前のまま

台所を借りて 看板だけ掛け替えた店だ

約定の癖も レートの震え方も

第3章に書いた 呑みの挙動そのものだった

紙より先に 道具が白状した

笑ったのは ボーナスすらなかったことだ

餌も撒かずに 三千人の水道管を繋ぎ替えた

餌が要らないほど 群れは従順になっていた


俺は部屋で言った

この業者はやめろ ソフトの中身が借り物だ

九割が 看板を信じた

あの人を疑うのか 空気を悪くするな

空気は多数決で決まり

多数決は 看板の側についた

俺は自分が作った部屋を 自分で出た

ついてきたのは 一割 三百人

当時はその数字が刺さった

十年張って 六年教えて 信用の残高は一割かと

今は違う風に数えている

空気に逆らって 自分の手で確かめ直した人間が三百人いた

一割は あの日の俺の全財産だった

そして時間が教えてくれた

信用は多数決じゃなく 後払いで来る

残った九割の口座がどうなったかは

第3章と第7章に書いた通りだ

 八

数字を書かない話をしておく

あの波でいくら獲ったか

書かない

金額を書いた瞬間 この物語は広告になる

数字で人を集めて 配管を替える連中と

同じ棚に並ぶことになる

あの部屋を出た日から 決めていることだ

書けるのは 一つだけだ

弾倉は 波の前より増えた

紙の戦争の費用を払っても 増えた

そして 数字より大事なものが残った

連敗の底で作り直した型が

一年に一度の波の重さに 耐えたという事実だ

型は 平時のためにあるんじゃない

型は 大相場の重さに潰されないためにある

小さな取引で百回繰り返した判は

大きな金を載せても 歪まなかった

方眼紙の百枚は あの波のためにあった

 九

波が引いた後の海は 静かだった

金は五千六百の天井から 長い下りに入り

俺の画面は また退屈な地図に戻った

退屈は 悪くない

退屈こそが この商売の平常運転だ

若い男から 短い報告が来ていた

波の途中で入って 半分で降りました

まだ持ってればって 毎日思います

返信は一行にした

半分で降りれたなら 上出来だ

次の波で 六割持てばいい

波は また来る

一年に一度 群れは湾に入ってくる

それまでにやることは 網の手入れだけだ

三年が経った

部屋にいた人間の多くは 相場を辞めただろう

辞めた人間は それで良かったのかもしれない

だがもし まだ画面の前にいるなら

そして偶然 この物語に流れ着いたなら

一つだけ伝えたい

あの時の警告は 恨みで言ったんじゃない

道具の動作を見ただけだ

読み方は この物語に全部書いた

第3章に 呑み屋の見分け方を

第7章に 看板の裏の顔を

第8章に 壊れていく順番を

あんたがもう一度 誰かの部屋に入る日が来たら

今度は空気じゃなく 紙を読んでくれ

それだけで あんたはもう一割の側だ

遅れてくる一割を 俺は今も待っている

この商売に 遅刻はない

相場は明日も開く

そして あの波が引いた静かな海で

俺はもう一つの決着を待っていた

二年積み上げた紙の戦争の 返事だ

役所の時間は 相場より遅い

遅いが 止まってはいなかった

その顛末を 次に書く

─ 終盤「手続き」に続く ─

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