第6章「介入の朝」 国家対市場
この物語はフィクションです
登場する人物 団体 サービスはすべて架空のものです
一
祝日の朝だった
東京が休みの日 ドル円は薄い板の上を歩く
薄い板 祝日 節目の大台
ここまで読んできたお前なら もう嫌な予感がするはずだ
その朝 ドル円は百六十円を上に抜けた
三十四年ぶりの円安だった
大台突破の見出しが打たれた数十分後
チャートが縦に落ちた
一時間で三円
半日で六円
誰かが売ったんじゃない
国家が売った
後の集計で 一日五兆円を超える円買いだったと分かる
手口だけ見れば ストップ狩りと同じだ
薄い板を選び 群れが油断した背中に
全体重で乗る
規模が六桁違うだけで
俺はプノンペンの部屋で その滝を見ていた
そして 滝を見るたびに思い出す名前がある
介入の朝が来るたびに
決まって胸の中に浮かぶ名前だ
今日はその名前の話を書く
長くなる
これはこの物語の中で
俺がもっとも書きたくなかった章だ
二
白菊 というハンドルネームだった
前に少しだけ書いた
夜勤明けにチャートを開いていた顔がある と
あの顔の話だ
顔と言っても 実際に会ったことはない
画面の中の 文字だけの付き合いだ
それでも三年通われれば 顔になる
初めての書き込みは覚えている
「夜勤明けです 音だけ聞いてます」
看護師だと分かったのは 半年ほど経ってからだ
書き込みの時間で分かった
深夜勤の明けは朝に現れ
準夜勤の日は昼に現れる
病棟のシフトが そのままコメント欄に写っていた
白菊の書き込みは 短くて 礼儀正しかった
「今日も触らない日ですね 了解です」
「触らない日の配信が一番好きです
夜勤明けにポジらなくて済むので」
その一行を読んだ夜のことは 今でも覚えている
俺の配信は こういう人のためにやってるんだと
柄にもなく思った
目標も 一度だけ書いてくれたことがある
「証拠金 三年かけて二百万になりました
いつか夜勤を減らすのが目標です」
二百万
夜の病棟を三年歩いて作った二百万だ
その数字の重さが分かるか
分かる人間だけ この先を読んでくれ
三
二〇二二年の秋の空気を 覚えているだろうか
米国が利上げを重ね 日本はゼロのままだった
金利差でドル円は一方通行に登り
世の中は円安の祭りになっていた
持っているだけで金利差の分が入ってくる
雑誌もSNSも その話一色だった
祭りの音は 病棟にも届いていた
「ドル円のロング 私も少しだけ持ちました」
白菊がそう書いた夜 俺は配信で唸り声の話をした
介入には段階がある と
最初は口先だ
高官の言葉の温度が上がっていく
「注視」から「あらゆる選択肢」へ
「断固たる措置」が出たら 唸りは最終段階
次はレートチェック
当局が銀行に水準を照会する
銃口が上がる音だ
そして実弾
国の外貨準備が 板に落ちる
「いま高官の言葉は 何段階目だと思う」

配信でそう問いかけた
もう「断固」が出ていた
犬は唸っていた
聞こえるように 唸っていた
白菊の返信は こうだった
「でも 金利差があるから大丈夫ですよね」
あの一行を 俺は今でも消せない
金利差があるから大丈夫
半分は正しかった
介入は流れを変えられない
流れを決めるのは金利だ
だがもう半分が抜けていた
流れが変わらなくても
滝は落ちる
そして滝の水量は 二百万の口座が
耐えられる量じゃない
俺はどう返したか
「大丈夫という言葉を使い始めたら 一度降りて見直せ」
そう書いた
届いたかどうかは 分からない
祭りの音の中では
唸り声より 太鼓の方が大きく聞こえる
四

十月の金曜 深夜だった
一度目の介入は昼間に来て 五円落として
三週間で全部埋め戻された後だった
祭りは再開していた
ほら 介入なんて効かない
金利差があるから大丈夫
あの夜の同時視聴は九十人ほどだった
金のチャートの話をしていた
ドル円は百五十二円の手前で 静かだった
静かすぎた
二十三時四十分頃
板が薄くなったのが見えた
凪だ
海の男なら知っている
言い終わる前に 落ちた
一分で二円
五分で五円
発表はなかった
覆面だった
後に過去最大と分かる 五兆円超の滝だった
コメント欄が壊れた
「え」
「なにこれ」
「ロスカくらいました」
「維持率100切りました どうすれば」
流れる文字の速さに 目が追いつかなかった
その奔流の中に 白菊の名前があった
「維持率80です 入金すれば助かりますか」
指が勝手に動いた
「白菊さん 入金するな 切れ」
「祈るな 切れ 二百万のうち残る分だけ持って逃げろ」
返信はなかった
滝は続いていた
五分後 コメント欄の流れが少し緩んで
俺はもう一度呼んだ
「白菊さん」
画面は流れ続けた
知らない名前の悲鳴ばかりが流れて
知っている名前は 二度と流れなかった
深夜の五兆円は
世界には歴史的介入として届き
俺の部屋には 一人の沈黙として届いた
五
白菊は それきり現れなかった
一週間 毎日コメント欄を探した
一ヶ月経って 探すのをやめた
やめたというのは嘘だ
今も配信のたびに 目の端で探している
何があったのかは 分からない
口座が飛んだだけかもしれない
相場をやめて 夜勤に戻っただけかもしれない
元気に暮らしていて チャートなんか
二度と見たくないだけかもしれない
そうであってくれと思っている
分からないままにしておくことが
こんなに重いとは知らなかった
一つだけ 自分を責め続けている問いがある
触らない日の話が好きだと言った人間が
なぜ 唸り声の中で持ち越したのか
答えは たぶんこうだ
群れだ
第2章で書いた 集団の維持率の話だ
あの秋 世の中全体が一つの群れになっていた
金利差があるから大丈夫
祭りの中で一人だけ降りるには
祭りの外の声が要る
俺の声は 祭りの外にあった
だが太鼓に負けた
配信者というのは そういう商売だ
声は届く
手は届かない
千キロ離れた画面の向こうで
誰かの維持率が溶けていく夜に
書ける文字は 切れ の一文字だけだ
あの夜から 俺の配信は少し変わった
触らない日の話を する回数が増えた
聞いているのが誰か 分からないからだ
夜勤明けの誰かかもしれないからだ
六
国家の側の話も 書いておく
あの滝の何時間か前
東京のどこかの会議室で
誰かが やれ と言ったはずだ
書類に判が押されて
電話が掛かって
五兆円が板に落ちた
その誰かは 悪人じゃない
たぶん 正しくすらあった
投機の速度は放置できなかった
通貨の信認は守る必要があった
教科書はぜんぶ その人の側にある
ただ 五兆円の滝の底に
夜の病棟を三年歩いて作られた二百万が
沈んでいることを
会議室は知らない
知る必要も 制度上はない
国家対市場の勝敗表に
個人の欄は最初からないからだ

三年前の冬 別の国では
中央銀行が三年守り続けた防衛線を
予告なしに捨てた朝があった
無制限に防衛すると約束していた床だ
床は二十分で三割落ちて
約束を信じて損切りを置かなかった個人が
家ごと持っていかれ 業者まで飛んだ
国家の約束も 相場の中では注文の一種にすぎない
守られている床ほど 捨てられた時に深い
床を作ったのが国家なら なおさらだ
信仰が篤い分 落差が深くなる
国家は 悪意で個人を轢かない
轢いたことに 気づかないだけだ
トラックはネズミを轢いても揺れない
揺れないことと 轢いていないことは 違う
七

作法を並べて この章を閉じる
これは本当は 白菊に言うはずだった話だ
言う機会は もう来ない
だからここに置いていく
読んでいるあなたが 代わりに持っていってくれ
一つ
唸っている通貨を 薄い時間に持ち越すな
祝日 早朝 引け際 金曜の深夜
国家も狩人と同じで 薄い板を選ぶ
一つ
レートチェックの報道が出たら 建玉を軽くしろ
銃口の前で 金利差の話をするな
一つ
滝の一本目は 取りに行くな
数分で五円動く値動きは 相場じゃない
拾っていいのは 滝が涸れて
金利の重力が戻ってからだ
一つ
大丈夫 という言葉が自分の口から出たら
一度ぜんぶ降りて 見直せ
大丈夫は分析じゃない
祈りの入り口だ
一つ
国家の強い言葉ほど 損切りを置け
無制限も 断固も 防衛線にならない
別の国の二十分が証明済みだ
そして最後に一つ
介入というのは 国家が自分の紙を信じてくれと
金で頼み込む行為だ
頼み込む国が増える時代に 何が買われるか
金の相場師にとって
介入の弾の音は 追い風の音でもある
追い風の音の底に 誰かの二百万が沈んでいることを
忘れない相場師で いられるかどうかは
腕とは別の話だ
八
祝日の滝が涸れた昼 屋台に出た
婆さんはいつも通り麺を茹でていた
この国の暮らしは実質ドルで回っていて
婆さんの椀の値段も 太平洋の向こうの金利に繋がっている
婆さんはそれを知らずに 今日も釣り銭を数える
知らなくても生きていける人間と
知らないと死ぬ人間が いる
俺たちは後の方を選んだ
選んだ以上 唸り声は聞き逃せない
部屋に戻って 配信を開けた
常連の名前が並ぶ
方眼紙の若い男の名前もある
新しい名前も いくつか増えた
名前を覚えるのは やめられない
覚えた名前の数だけ 介入の朝は重くなると
知っているのに やめられない
国家対市場
これより大きな喧嘩はないと 昔は思っていた
違った
国家は少なくとも 名前と顔を出して殴ってくる
轢いたことに気づかないだけで 悪意はない
名前も顔も出さず
悪意だけで殴ってくる連中がいる
王国と 梟の話を
次にする
─ 第7章「業界の影」に続く ─
