金色の檻 ─ ハードボイルドFX小説 第10章 手続き
この物語はフィクションです
登場する人物 団体 サービスはすべて架空のものです

夜九時 川沿いの賭場にいた
この国は賭場だらけだ
国境の街にも 港町にも 雑居ビルの二階にも
大小の賭場が転がっている
紙の上では 首都の賭場はここが独占ということになっている
紙の上では だ
この国で紙と実態が揃っていたら
俺はこの物語を書いていない
とにかく ここが図抜けて大きく 図抜けて明るい
素面の人間には眩しすぎる照明
時計のない壁
足音を呑み込む どこまでも続く絨毯
ここでは時間も足音も 客のものじゃない
打ちに来たんじゃない
深夜の相場まで 時間を潰しに来ただけだ
ここのバーは バランタインを置いている
それだけの理由で 通っている

バーの止まり木から フロアがよく見える
バカラの卓で 客が小さな紙に何かをつけていた
罫線だ
丸と線で 出目の並びを記録している
次の出目は 過去の出目と何の関係もない
関係のない場所に 人は模様を見つけてしまう
模様を見つける能力は 人間の才能で
人間の病気でもある
チャートに聖杯を探す人間と
バカラの罫線をつける人間は
たぶん同じ場所が光っている

奥ではポーカーの大会をやっていた
看板に賞金の数字が並んでいる
配分を見ると 上位の数人が大半を持っていく形だ
相場の一年と同じ配分だと思った
参加者の大半は 参加費を置いていく側に回る
それでも卓は満員だった
ポーカーは 少しだけ見ていられる
あの競技の上手い人間は 降りる回数が多い
配られた手の大半を 戦わずに捨てる
捨てて 捨てて たまにしか打たない
どこかで聞いた話だ
見送る技術 触らない日
俺が章を二つ使って書いたことを
上手い打ち手は 黙って毎晩やっている
違いは一つ
ポーカーの卓には エッジのある席と ない席がある
賭場のゲームの大半は 胴元にしかエッジがない
照明と絨毯の金は 客の期待値から出ている
だから俺はここで打たない
冷やかしの止まり木で 氷を鳴らしているだけだ
俺が張る卓は 別にある
胴元のいない ただし誰の味方もしない卓
十一時半 グラスを空けて店を出た
外は生ぬるい川の風だった
賭場の光を背中に受けながら
時計のある世界に戻っていく
二
零時 部屋に戻ると 金は四千二十七にいた
すぐ下の四千二十二を 月足から伸びる扇の下の線が走っている
線の下は 三千九百八十三の踏み跡まで 床らしい床がない
その先の砦が 三千九百五十九
第8章で引いた地図の 深い側だ

板は薄い
上の段の利回りは 四.六
一年半前の頂上から降りてくる切り下げ線の 真下だ
線と線の間で 相場が煮詰まっている
先に言っておくが 俺の本命は 買いじゃない
第2章で書いた大暴落から この相場はまだ下りの途中だ
下りの途中の週足の弾は 戻り売りと決めている
込める水域も決めてある
四千三百八十前後
暴落の戻りが伸び切る 蓋の重なる場所だ
だが売り場というのは 床の先にしか生まれない
床が入らなければ 戻りは始まらず
戻りが始まらなければ 俺の売り場まで値段が来ない
だから今夜の仕事は 床の見張りだ
弾は込めない夜のつもりで 座っている
売りの枯れ 長い髭 戻りの粘り
どれもまだ来ていない
だから待つ
椅子の背にもたれて 画面から少し離れる
零時十五分 変化なし
零時半 変化なし
待つ夜は 記憶の水位が上がる
今夜は 紙のことばかり浮かんだ
罰金二十万円の 略式命令
確定してから 二週間になる
三
二年かけた
数え直すと 二年と一ヶ月と数日
その間にやったことを一言で言えば 保存だ
罵倒を写しに取り 日付を振り 台帳に綴じた
数百枚
プノンペンの印刷屋で刷って 三箇所に分けて置いた
日本語の読めない店主は
毎回枚数だけ確かめて 何も聞かなかった
聞かれても 答えられなかったと思う
自分の悪口を数百枚刷っています
そう言って通じる説明を 俺は持っていない
一枚読んでは 番号を振る
読むたびに どこかが冷えた
冷えた場所を確かめないように 手だけ動かした
方眼紙の百枚と同じ手つきだが 違いはあった
方眼紙は 自分の失敗を綴じる作業だった
台帳は 他人の悪意を綴じる作業だった
失敗は綴じれば軽くなる
悪意は綴じても 重さが変わらなかった
零時五十分 金が扇の線に触れた
四千二十二
触れて 少し浮く
まだ試しの一度目だ
指は動かさない
四
警察に何度も通った話は 短く済ませる
追い返されて 通って また追い返された
それだけの話だ
その頃の俺は 窓口を出るたびに
近くの公園で少し座ってから帰った
座って 何を考えるでもなく
鳩を見ていた
怒りではなかったと思う
怒りなら 使い道がある
あれは目減りだった
自分という残高が 窓口で毎回少しずつ引き出されて
戻し方が分からなかった
戻したのは結局 夜のチャートだった
床の攻防を眺めている間だけ
昼の紙のことを忘れられた
世間は逆だと思うだろう
相場のストレスを 日常で癒すものだと
俺は逆だった
日常の傷を 相場で癒していた
どちらが健全かは 考えないことにしている
一時十分 二度目
線に触れて 下髭を残して戻った
出来高がわずかに膨れている
まだ足りない
週足の弾は 二度で込めない
五
確定の紙が届いた日のことを 浮かぶままに書く
第8章の冒頭に書いた通り 昼だった
写真で受け取って 二度読んで
窓の外のスコールを眺めた
勝ったのだと思おうとした
うまくいかなかった
代わりに浮かんだのは 妙なものばかりだった
公園の鳩
印刷屋の店主の 数を数える指
差し戻された書式の 付箋の色
二年は 出来事ではなく そういう破片で溜まっていた
夜になって 台帳を開いた
最後のページに一行だけ足した
確定
誰にも言わなかった
配信でも触れなかった
言う相手の顔を 順に思い浮かべて
どの顔にも 言う理由が見つからなかった
電話帳を開いて 一つの番号を長いこと見ていた
押さなかった
押す資格を 俺はあの夜々のどこかで置いてきている
どこで置いてきたのかは 分かっている
分かっているから 次の幕間を書く
一人だけ 言いたい相手がいた
その名前は 台帳の中にある
数百枚のうち 一枚だけ
綴じる時に手が止まった写しがある
俺への罵倒なら 事務にできた
その一枚だけは 何度やっても事務にならなかった
今夜も その話はしない
次の幕間でする
二時前 金が線を割った
四千十八
割って 沈まない
売りたい人間が売り切った後の 空振りの匂い
来るなら ここからだ
六
二時十分
四千十六の板を薄く舐めて 値段が跳ねた
一時間足に 長い下髭が確定する
出来高が この夜はじめて まともに膨れた
誰かが売らされて 誰かが拾った跡
線割れの空振り
体の中で 手順が静かに走る
月足の地形 週足の段差 扇の中の位置
四本の線の並び 置き去りの隙間 いまの足音
床が入ったかもしれない
買いたい気配が 指先まで来ていた
昔の俺なら ここで拾っていた
橋までの足だと理屈をつけて
小さくだからと言い訳をつけて
いまは拾わない
俺の弾は売りで 水域は四千三百八十
床の買いは 今夜の俺の型にない
型にない手は どれだけ良く見えても
配られなかった手だ
賭場のポーカーの連中を思い出す
配られた手の大半を 戦わずに捨てる男たち
今夜の手も 捨てた
指は一度も 注文の画面に触れていない
昔の俺なら 見送った夜は落ち着かなかった
今は何もない
心拍も変わらない
この静けさを 強くなったと呼ぶのか
すり減ったと呼ぶのか
二年前から 決めかねている
七
保有の時間に入る
やることがなくなって また記憶の水位が上がった
二年間 俺は一度も 相手の名前を検索しなかった
する必要がなかった
新しい罵倒が出れば その日のうちに誰かが届けてくれた
心配と 親切と 少しの野次馬の混ざった写しが
受信箱に積まれていた
確定の夜 気づいたことがある
そういえば もう何週間も
奴の名前を見ていなかった
写しが減ったからじゃない
読み飛ばすようになっていたからだ
いつからかは 思い出せなかった
憎しみには 賞味期限があるらしい
誰も教えてくれなかったが
檻は 確定の日に外れたんじゃない
いつの間にか外れていて
外れた日付を 俺は知らない
あのバカラの客を思い出す
関係のない出目に 模様を探し続けていた男
俺にもああいう時期があった
届く写しの並びに 次はいつ来るかと模様を探した時期が
いまは違う
奴の名前は 俺の中でもう小さい
小さくなった名前に 台帳の礼だけ言って終わりだ
いま俺の敵は 二つしか残っていない
相場と 自分
十年やって 結局この二つに戻ってくる
三時半 金は四千三十
見送った値段が 静かに浮いていく
悔しさは来ない
浮くほどに 俺の売り場が近づいてくるだけだ
夜通し見張るものは 今夜は何もない
画面の照度を落とした
八
夜が明ける前に 一つだけ書いておく
この章に 教訓の一覧は付けない
前の章までの俺なら 付けていた
保存しろ 期限を数えろ 窓口で折れるな
言いたいことは変わらないが
並べて書くと 嘘になる気がした
あの二年は 箇条書きにできるほど
整理されたものじゃなかった
公園の鳩と 付箋の色と 冷えた場所でできていた
一つだけ 箇条書きにならないことを書く
紙の戦争の間 俺を支えたのは
正義でも 復讐でもなかった
夜ごとの床の攻防だった
チャートは 俺の事情を知らない
知らないものの前でだけ 人は自分に戻れる
相場は冷たいと みんな言う
その冷たさに 俺は二年 救われていた

五時二十分 金は四千三十二
床が呼吸を始めている
戻りが育てば 四千三百八十の水域まで
相場が俺を運んでくる
弾はそこで込める
それまで やることは何もない
窓の外が白み始めている
紙の戦争は終わった
口座は動いている
名前は戻ってきた
戻ってこなかったものの話を
次にしなければならない
─ 幕間「名前」に続く ─
