与謝野鉄幹・与謝野晶子共著の詩文集『毒草』(下):〈この絵は版画です〉
1 《夕》と《夜》
上編では、与謝野鉄幹・与謝野晶子共著の詩文集『毒草』(明治37年5月、本郷書院)の挿絵のうち、サビ彫りが使われている《朝》と《昼》について取り上げた。
下編では、《夕》と《夜》について検討したい。
挿絵の掲載順序は、《朝》、《昼》、《夕》、《夜》ではなく、なぜか《朝》、《夕》、《昼》、《夜》となっている。
その理由はわからないが、サビ彫りを使ったものと、そうでないものを、交互に配置したかったのかもしれない。
なお、挿絵と本文の関連はない。
《夕》を見ていただこう。

クリーム色の地の上に絵柄がのっている2色摺りである。
女性の背後には川が流れている。
向こう岸の樹木や家屋の影が川面に映っている。
女性は、川岸の草原にいるようだ。
女性は左手に草花を持っている。
女性は後頭部に手をあてているが、こうした姿勢をとるためには、ベンチの背に寄りかかっている必要があるかも知れない。
さて、明らかに、《朝》、《昼》とは彫りのテイストが異なっている。
《朝》、《昼》では、サビ彫りの部分が中間トーンを作り出していて、奥行きがあるリアルな表現になっていた。
しかし、《夕》の彫りには、写実的な要素を細かく追求する志向がうすくなっていて、陰影の大胆な対比が前面に出ているように感じられる。
着物の線は、着物の柄を写実的に示すというよりは、これは着物だという記号性を表しているようだ。
また、露出している腕の部分に施されたクロス・ハッチング(cross-hatching)の線は、影を示す記号のようである。
わたしが気になるのは、川面に意図して残されたように見える彫りの跡である。
海外の木版画でこうした彫りのあとを残す事例があるか調べてみた。木版画を手がけたイギリスのウィリアム・ニコルソン(1872−1949)の作品に、そうした事例を見出すことができる。
英語版WikipediaのWilliam Nicholsonの項の、木版画《Hawker (Kensington)》(1898年)にリンクを張っておこう。
表題を訳すと《行商人(ケンジントン)》である。
路上に、彫りの跡が残されているのがわかるだろう。
《夕》の川面の彫りの跡も、《Hawker (Kensington)》の路上の彫りの跡も、それがなくなっても、特段不都合はないように思える。
川波や路上の様子を彫りの跡が写実的に明確に表現しているわけではないからである。
では次に《夜》を紹介しよう。

《夜》は眠りにつこうとしている女性を描いている。
《夜》には《夕》よりもさらにラフな彫りが見られる。
線は規則性を失い、陰影の対比がより先鋭になっている。
女性の手の指は、闇に溶けているようにあいまいである。ヘッダーの画像を見ていただければ、指の様子がよくわかるだろう。
頭部の上の空間には、ノイズのような彫り残しが見られる。
手前の寝床や、夜具のしわはサビ彫り的に表現されている。
全体的に、これは版木刀で彫った跡だとわかる線の感触が明確に残されている。
2 藤島武二は伊上凡骨にどんな下絵を見せたのか?
さて、《朝》、《昼》は、パステル画を木版画で模していたのだが、《夕》と《夜》はどんな絵を木版画によって再現しているのだろうか。
藤島武二は、伊上凡骨に下絵を示したはずである。《朝》と《昼》の下絵は、チョーク(パステル)とインクあるいは水彩絵具によって描かれていただろう。
とても、奇妙なことではあるが、藤島武二が伊上凡骨に提示した《夕》と《夜》の下絵は、木版画を模したものであったのではないだろうか。
つまり、ウィリアム・ニコルソンなどのヨーロッパにおける木版画の動向を知っていた藤島武二は、日本の錦絵には見られないラフな彫りの木版画を正確に模した下絵を伊上凡骨に示したのではないだろうか。
わたしがそう考えるのは、意図的に彫りの跡が残されているからである。藤島は、ニコルソンの木版画のように彫りの跡が残される場合があることを知っていて、それを描いた下絵を示したのであろう。
何のために、藤島は木版画を木版画で模するというようなおかしなことを伊上に指示したのだろう。
わたしなりの推測を示してみよう。
日本の伝統的な錦絵、浮世絵では、ノイズである彫りあとが版面に残ったり、色彩が輪郭線からずれたりことをゆるさない。かすれやぼかしの効果は、全体のくっきりした絵画的な仕上がりをじゃましない範囲で用いられる。
しかし、画家が自ら版を彫ったり、摺ったりする創作版画では、彫りあとが残ってしまうことはありがちであった。最初は彫りあとが残るのは偶然のことであったかもしれないが、だんだん、版画の味わいとして意図的に残されるようになったのではないか。
もともと、版画は、筆などを使う絵画と違って、描くときの自由度は低い。彫刻刀で彫って、線を表現するのだから、筆を動かすような自在さは望むべくもない。
近代日本でも、版画は、芸術なのか、はたまた複製技術に過ぎないのかという議論が行われた。版画に批判的な意見のなかには、版画の不自由さが限定的な様式性に至りついてしまうというものがあった。
年賀状などで木版を彫ったことがある人にはよくわかると思うが、版画の線の稚拙さは人によらない共通の様式性を示すのである。
画面に残された彫りあとは、その共通の様式性の表示なのである。
そして、また、彫りの跡を残すのは、創作版画の特徴でもあった。
3 山本鼎《漁夫》
『毒草』が刊行された同じ年、『明星』辰歳第7号(明治37年7月)に、創作版画の嚆矢とされる山本鼎の《漁夫》が発表されている。
《漁夫》は目次では「刀画」とされているが、山本鼎自身が描き、彫った自画自刻の創作版画であった。ウィキペディアから作品を引用しておこう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/山本鼎#/media/ファイル:Yamamoto_1904.jpg
2025/04/29参照
《漁夫》の印袢纏の彫りには、《夕》の着物の彫りに通じるものがある。
《漁夫》が『明星』に掲載されたのは、石井柏亭のなかだちがあったからである。
《漁夫》掲載号の『明星』に掲載した「パレット日記」で、石井柏亭は《漁夫》を評して「刀は乃ち筆なり」と書いた。
そのことに関連して、山田俊幸は、次のように指摘している。
石井柏亭には、 「漁夫」 発表についての裏書きがある。 「友人山本鼎君木口彫刻と絵画の素養とを以て画家的木版を作る。 刀は乃ち筆なり。 本号に挿したるもの是れ」 (「パレット日記」)。 有名な一文だが、この一文によって「刀画」といわれた 「画家的木版」 が、 絵画と木口彫刻との協調によって成立したものだということが理解できる。 「刀」 が筆であり、「刀」 によって描かれた 「画」 が 「刀画」である。 刀画は、ある意味では、油絵筆で描かれた画が油絵であり、 水彩の絵筆で描かれた画が水彩画 (みづゑ) であるということと同じことだ。 複製的のものではなく、 刀で絵を描くという意味では「刀画」はオリジナルな絵画である。 このことは、「刀画」が江戸浮世絵的な複製芸術ではないことも示している。そうした意味で「刀画」とは、 浮世絵とは違い、 ヨーロッパ (泰西) の技術 (木口木版) と精神 (趣味)を受けたものなのだ。
上田市山本鼎記念館『山本鼎生誕120年展』図録、2002年、23ページ
山本鼎は、若いときに木口木版の技術を身につけていた。
「刀画」という呼び方は、版画が「江戸浮世絵的な複製芸術ではないこと」を示していると山田はいう。
「刀」による線は、絵筆よりはずっと制約を受けるが、それとともに、版画固有のものだという両義性をもっていた。
《漁夫》の彫りの線は、一般的な木口木版よりも自由であるが、山本鼎は、ウィリアム・ニコルソンの板目木版のラフな彫り方を認識していて、次のように述べている。
ニコルソン氏の版画は全く創作的のものであって、自画自刻といふよりも、寧ろ 『刀画』と云ふ方が適切な位である。 氏の版式は頗る簡単である、之を素人の慰みとせむに、 木口木版よりはたしかに好適であろう、彫刻術も彼(引用者注ー木口木版)に比して、之(引用者注ーニコルソンの板目木版)は余程修得し易く、器用な人には、直ちに版画を試みる事が出来るのである。 ニコルソン氏版画の形式は、明暗が線の聚つて成つた濃淡ではなく、唯黒と、白との団であつて、構配上の装飾画的線美が其極致であり、 技術は其構図の後を受けて、 刀画的彫浚の巧を振ふにありて、 複製的分子は、自から其処に消滅せねばならぬのである。
*引用は上田市山本鼎記念館『山本鼎生誕120年展』図録、2002年、117ページによった
文語的な言い回しが少しわかりにくいかもしれないが、ニコルソンの木版画は、木口木版のように明暗を凝集する線によって表現するのではなく、白と黒のかたまりによっておこない、装飾画のような線の表現が、その美の極致となるというのである。
そしてもっとも重要なことは、筆の代わりに刀で描く版画の線は、何かの複製であるはずはなく、唯一無二のオリジナルなものだということである。
『ハガキ文学』第3巻第13号(明治39年11月15日)の口絵にウィリアム・ニコルソンの木版画《遊猟》が掲げられていたので、図版として示しておこう。
オリジナルは、多色版であるが、図版はモノトーンになっている。
線は、木口木版のように複雑ではなく、シンプルな輪郭線が特徴。
草むらは省筆的な表現。手前のハンターや、中央右の犬の足が草に埋もれていることで、草むらの全体を感じとることができる。
ハンターの足下の、意図的に残された彫り残し。これはニコルソンの木版画の特徴のひとつである。

さて、少し寄り道したので本題に戻ることにしよう。
《夕》と《漁夫》を比較すると、線の類似が理解できるだろう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/山本鼎#/media/ファイル:Yamamoto_1904.jpg2025/04/29参照
左:《夕》 藤島武二・画、伊上凡骨・彫
彫った跡を示す木版画の線は、〈この絵は版画です〉という自己言及的なメッセージを見るものに伝える。
《夕》や《夜》、そして《漁夫》の版画の線は、その絵が版画であるという自己言及性をつよくうったえているのである。
『毒草』のほうが、若干刊行が早いので、藤島が山本鼎の《漁夫》を見ていたと断言はできない。しかし藤島は、《漁夫》に表れているような、創作版画の特徴を示す線について知っていて、それが明確に表れた下絵を伊上凡骨に提供したのだろう。その当時はまだ一般的ではなかった創作版画の線を凡骨の彫りによって版画として提示したかったからである。
《夕》や《夜》の彫版にあたった伊上凡骨は、創作版画の線を体感したに違いない。
4 伊上凡骨に学んだ香山小鳥
版画の線はその絵が版画であるという自己言及性を見るものに伝える、ということが今回わたしが言いたかったことである。
その点では、もう稿を閉じてもよいのだが、伊上凡骨と創作版画の関わりについて1つのエピソードを余談として紹介しておきたい。
大正初期に創作版画誌『月映』が刊行された。
わたし自身がかつて書いた『月映』の解説の一部を引用しておこう。
恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄によって創刊された詩歌と創作版画の雑誌。一九一四(大3)年九月から翌年一一月までに洛陽堂から七集が刊行された。自画自刻の創作版画に取り組んだ田中の熱意が恩地や藤森に伝わり、三人は一四年に私家版「月映」を六冊刊行した。公刊「月映」では、三人の木版画とともに、田中の詩、短歌や、短詠と呼ばれた短詩が掲載された。「月映」の試みについて、田中は「象徴方面での木版画集」(山本俊一宛書簡、一四・一〇・六)と述べている。竹久夢二の影響下に、文学と絵画の共鳴に関心を抱き、「白樺」の自己表現の思想や、北原白秋の感覚表現に導かれて、「月映」の版画家たちは、独自の内面的表現に達した。田中、藤森は生と死の象徴的表現を、恩地は近代日本で初の抽象表現を切りひらいた。(後略)
田中恭吉が版画を始めるにあたって、影響を与えた香山小鳥(本名、藤禄)という人物がいる。
香山小鳥については、井上芳子氏の解説を引用しておこう。
香山小鳥は一九一二(明治四五)年に東京美術学校彫刻科に入学しているが本科に進むことができず退学し、同年一〇月から木版彫師の伊上凡骨のもとで働くようになった。仕事の合間に自刻木版画を作り始めるが、間もなく結核のため臥してしまった。見舞いに下宿を訪れた田中は香山の版画を眼にし、「病気してゐてもこんな仕事をしてゐたのだと思ふと恥しい」と一二月一〇日の日記に書いている。香山は翌年六月に亡くなった。
(和歌山県立近代美術館企画・監修『田中恭吉ひそめるもの』2012年9月玲風書房)39ページ
『月映』展図録(2014年11月、和歌山県立近代美術館・NHKプラネット近畿)には、香山小鳥が「小川町凡骨方」から恩地孝四郎にあてた、1912年10月6日付のハガキが紹介されている。
小鳥は、「毎日コツ々々だ。秋は前の庭の青桐まですでに来てゐる。コツ々々は倦きもしないね。」などと書き送っている。
「コツ々々」は版木を彫る作業をさしているのだろう。
香山小鳥の版画はどんなものだったか。小鳥の没後に回覧雑誌『密室』6号(1913年12月3日)に、遺作2点が掲載されている。
回覧雑誌は、肉筆の原稿や絵画、版画などを同人から得て、編集担当のものが綴じて、同人間を回覧するというかたちのものである。何も書いていない紙を最後に綴じておくと、参加者たちはそこに感想を書きつけるので、再度回覧すれば、同人たちは自作への感想や反響を知ることができる。

*公刊『月映』Ⅵ(1915年5月5日)に《習作》として収録
『近代日本文学・美術研究資料 回覧雑誌『密室』翻刻Ⅱ』(2009年3月)より

*『近代日本文学・美術研究資料 回覧雑誌『密室』翻刻Ⅱ』(2009年3月)より
2点とも、彫りあとがこれらの絵が版画であるという自己言及性を雄弁に主張している作品である。
モノトーンに近いのに、あふれる光を感じることができる。
1913年10月に喀血し、生命の危機に直面することになった田中恭吉は、同年6月に亡くなった香山小鳥の遺作の木版画を『密室』6号に収録し、自らも自刻木版にとりかかることになる。
下図は、香山小鳥の木版画《深川の夜》である。

『月映』展図録(2014年11月、和歌山県立近代美術館・NHKプラネット近畿)より
この《深川の冬》について恩地孝四郎が次のように言及している。
もう一つ掲げたのは同じく故人香山藤緑の遺作で、香山は伊上凡骨に従って古技法を習っていた。この画はしかしそれに従ってはいない。丸いのみで彫り上げたもので、自刻版画をやる誰もが大抵一番先に就く方法だ。この彫具が作ってゆく跟がつくる効果は、その簡単な操作であることによって他の絵画が持たない独特な効果を挙げてゆく。 筆で引く線条の模倣ではない。
*引用は『恩地孝四郎版画芸術論集 抽象の表情』(1992年2月、阿部出版)によった
恩地は、「自刻版画」の初心者がまず試みる、丸のみで彫り上げるやり方を香山が選択していることを指摘している。
丸のみは丸刀で駒透とも呼ばれる彫刻刀のことである。
武蔵野美術大学のMAU造形ファイルの「駒透」と「彫刻刀」の項にリンクを張っておく。
さて、彫りあとのことを、恩地は「跟」と呼び、それが木版画特有の「独特な効果」をあげていると評している。
注目したいのは、恩地が「香山は伊上凡骨に従って古技法を習っていた」が、「この画はしかしそれに従ってはいない」と述べている点である。
丸のみでさらう手法は、香山の師であった伊上凡骨が身につけていた伝統的な古技法には属していないと、恩地は考えていたということになる。
しかし、『毒草』の挿絵《夕》、《夜》の彫りは、藤島の示した下絵を忠実に復元したものだとしても、古技法からは逸脱する要素を含むものであった。すなわち、従来の古技法に収まらない彫りを、すでに明治37年に凡骨は試みていたのである。
樹木を描いた《習作》が香山の木版画としてはもっともよくできているように思う。なぜなら、重ね摺りが行われており、樹木の幹や枝のかすれは、伝統技法から学んだもので、背後の丸刀(駒透)でさらった彫りあとは創作版画的で、香山が凡骨から学んだことを融合的に示しているからである。
香山小鳥が伊上凡骨から、伝統的な手法だけではなく、洋画や水彩画を木版画にする際のさまざまなテクニックや、その苦労話についても聞いていたとすれば、とてもおもしろい。凡骨の工房にはおそらく多くの職人がいて、そんな機会はなかったのかもしれないが……。
彫りの跡(跟)を版画固有の魅力として生かしていくという一点で、《夕》と《夜》を彫版した伊上凡骨と、創作版画に踏み出した香山小鳥は、深く交差しているのである。
また「跟」を残すことは、〈この絵は版画です〉という自己言及性を刻印することであり、それは版画表現の特質の1つではないだろうか。
今回は、20年ほど前におぼろげに感じていたことをようやく文字にすることができた。
*ご一読くださりありがとうございました。
