資本主義社会の住人たち
この間、スタートアップのイベントに行きました。
一人の投資家を、たくさんの起業家が囲んでいました。自分が創りたいキラキラした未来と、その先でどれだけのお金が儲かるか。
ステージの上のピッチじゃありません。懇親会の場です。グラスを持ったまま、要するに「お金を出してください」が起きていました。
つまりあの会場では、全員がお金の話をしていました。
誰も、お金の話をしていない顔で。
すごい光景だなと思いました。皮肉じゃなく、本当に絶景だったんです。
懇親会というのは、本来そういう話をするための場だと思います。未来と、お金と、繋がり。そのためにみんな来ているんだから、あの場でお金の話をしていた人たちは、何一つ間違っていません。
場違いだったのは、たぶん、それを眺めて気持ち悪くなっていた僕のほうです。
この文章は、その場違いな側から見えた景色の話です。
僕には、よくない癖があります
僕にはよくない癖があって、そういう場にいながら、ふと意識だけが引き剥がれて、自分も含めた全員を第三者視点で眺めてしまうことがあります。
あの日も、それが起きました。
上から見ると、いろんなものが分解されて見えます。
なんでこの人は、初対面の相手にこんなに笑顔なんだろう。 なんでこの人は、あの人にだけこんなに前のめりに話しかけるんだろう。 「お写真、撮らせていただけますか?」って、なんで言うんだろう。
答えは簡単で、メリットがあるからです。
目の前の人間そのものに興味があるわけじゃない。その人が持っているお金や、決裁権や、その先にいる誰かに興味がある。だから笑顔になるし、前のめりになるし、写真を撮る。
全員が、欲望に従順でした。
正直に書くと、吐き気がする日があります
たまに、この社会が猛烈に気持ち悪くなることがあります。どこか遠くへ飛んでいきたくなる日があります。
こいつと一緒にいると儲かるから、一緒にいる。 あの人はお金を持っているから、すごい。 偉いから、すごい。
人間の値打ちが、ぜんぶそれで測られていく。
「俺はすごい人なんだ」というオーラを醸す人がいて、そこにすり寄る人がいて、すり寄られた側はまんざらでもない顔をして、そのオーラがまた一段濃くなる。この循環を間近で見ると、本当に吐き気がする日があります。
すり寄る側だけの話じゃありません。寄られて気持ちよくなっている側も、同じくらいきつい。
でも、どっちが悪いという話ですらないんです。一人ひとりは、たぶんいい人です。家に帰れば家族がいて、自分の会社を本気でよくしようとしている。誰も悪くないのに、あの関係のかたちだけが、どうしても飲み込めない。
綺麗事なのは分かっています。世の中がそういうものだということも、今に始まった話じゃないことも、なんならずっと昔から知っていました。
ただ、起業家になってから、その空間に立つ回数が一気に増えた。それだけです。
反対側に立ったことも、あります
僕自身、寄られる側に立ったことがあります。同世代や、少し年下の起業家や、起業を考えている子に、同じようにすりすりと寄られたことが。
とてつもない気持ち悪さを覚えました。
下から見ていたのと同じ光景を、今度は反対側から見た。それだけなのに、気持ち悪さはまったく同じだったんです。
つまりこれは、強いとか弱いとか、持ってるとか持ってないとかの話ではなくて、構造の話です。どちら側に立っても、同じ気持ち悪さがそこにある。
逃げる先が、ない
じゃあ逃げるか、と考えたことは何度もあります。
でも、逃げる先がないんです。
日本は資本主義です。社会主義の国はあるけれど、その国も含めて、世界はグローバルに見れば一個の資本主義で回っている。飛行機でどこまで飛んでも、降りた先はこの社会の続きです。
外は、ない。
しかも僕は、資本主義そのものを腐したいわけじゃありません。仕組みとしてはよくできていると思います。欲望に従順な人間を、ちゃんと前に進ませる。挑戦にお金が集まる回路自体は、美しいとすら思う。あの会場で動いていたお金の何割かは、実際に誰かの挑戦を生かすはずです。
外には出られない。仕組みも否定できない。
だったら残っている問いは一つで、この社会の中にいながら、この軸の外で生きられないか、ということです。
「会社のために働いたら終わり」
この間、沖縄で会った方が、面白いことを言っていました。
「会社のために働いたら終わり」
個人は会社のために。会社は個人のために。ふたつの軸があって、世の中では圧倒的に前者が強い。その軸に忠実に生きれば出世するし、ヒエラルキーの上に行けるし、もらえるお金も増えます。
でもその方は、後者を自分の中に持って貫くほうがカッコいいと言いました。やりたいこと、自己実現したいことがある。個人の力や資本では届かない。なら、会社をツールとして使えばいい、と。
それが、ずっと頭に残っています。
これは、お金の話とまったく同じ構造なんです。
お金が主役か、道具か。会社が主役か、道具か。ヒエラルキーの上に行くことが目的になった瞬間、人間のほうが道具になる。逆に、やりたいことが先にあれば、お金も会社も肩書も、ぜんぶただの道具に戻る。
軸の外で生きるというのは、社会の外に出ることじゃありませんでした。
主役を明け渡さないこと。たぶん、それだけの話です。
反面教師と、太々しい僕
最近は、反面教師にもたくさん出会えます。
偉い人と夜のお店に行くことがステータスだと思っていて、店の名前を連呼して得意げになっている人。本人は、カッコいいと思ってやっています。1ミリも、カッコよく見えていません。
恨みはないし、誰のことでもありません。ただ、ああはならない、とだけ静かに決めています。
じゃあお前はどうなんだと言われると、僕は僕で欠陥品です。媚びないし、可愛がられようともしないから、「太々しい」と、すごくお世話になっている経営者に思いっきり深刻に指摘されたことがあります。冗談めかしてじゃなく、本気で。この話は、先日のnoteに書きました。
だから、媚びない生き方がカッコいいとも言い切れないんです。写真を撮って、前のめりに笑って、そうやって開くドアがあることも知っています。でもどうしても「別にいいよ、もらえなくても自分でなんとかするよ」というスタンスになってしまう。
損してきたと思うし、たぶんこれからも損します。
ここにだけ、書いておきます
分かっています。こんなことを感じてしまう僕のほうが、たぶんマイノリティです。適応できていないのはこっちで、みんなは正しくこの社会の住人をやっている。
だからこの話は、会食でもイベントでも出しません。ここにだけ、書いておきます。
僕も、資本主義社会の住人です。会社をやっていて、お金がいる。ピッチも出るし、会食にも行く。それは変わりません。
ただ、住人のまま、たまに屋上に上がって街を眺める。吐き気がしたら、風に当たって、また降りる。眺めた景色は、下に降りてから使う。
それが今のところの、僕なりのこの社会での暮らし方です。
