【連載企画】10年代試論~最後の戦後とローカルな文化圏についての論考~ 三、10年代日常系作品への、日常と生活の区別からの考察
文責:てると
今回からいよいよ、この連載も本格的に10年代に立ち入って考察を進める。これまでのゼロ年代は、書いていたように「前史」であったから、今回からが本領にあたるというものである。
わたしは、10年代にいわば文化的自己形成をして、インターネット空間に本格的に書き込む者となり、またアニメなどの視聴者になったので、少なくともゼロ年代のことよりは実感に即して書けるはずである。往々にして、わたしは、趣味の領域においては時代に先んじて動きやすい習癖を自覚しているので、わたしにとっての10年代もまたそのようなものであった。また、その習癖を、引きこもってインターネットに接続する生活が加速させた面がある。わたしには友人もなく、親との親密な会話もなく、ただ二階の自室の勉強机で、カーテンを右にして座りひたすらインターネット経由で情報に触れることがわたしの生活であった。そのためにかえって時代性にも敏感であったところがある。たまにテレビを観るときは、わたしの趣味を多少知る父親が、一緒にこの番組を観ないか、というようにわたしを誘うときだけであった。
さて、10年代は、その典型をわたしは、タイトルに示した通り、より詳しく言えば、「日常性」を基調として、そこにあらわれる<異界>に憧れる、遁走的な回帰現象とみている。その典型は諸々の「日常系作品」や、「連続テレビ小説」などに求めることができる。そのことで、ちょうど日常的なエッセイを読むと日々の安らぎ以上に、いわばどこにもない安らぎが補給されるようなしかたでの、安らぎを求めていたのが、わたしたちの10年代ではなかったか。
だからわたしは本稿で、「日常」性と「生活」を明確に分けた意味合いで用いる。「日常」はどこにもない日常性への情緒でありうるが、「生活」はいつも厳しく立ち上がり続けるものだからである。
そこでわたしは本来の考察の意図を想い起こし、「日常系作品」を観ることと「インターネット空間」の<空間>性の変遷について考察してみた。それは今回、主に日常系作品が流行し始め、ちょうどその頃に「ニュー速VIP」一強の体制が崩壊し、ニコニコ動画、なんでも実況(ジュピター)(通称「なんJ」)、ニュース速報(嫌儲)(通称「嫌儲」)に移行していった時代を考察することとなった。しかし今回の記事の範囲は、あくまでも日常系作品の代表である『けいおん!』と『のんのんびより』の考察である。ぜひ最後までお読みいただきたい。
日常のなかの異界と<現実>の再定義~『けいおん!』の考察~
わたしがまず取り上げる作品は、「まんがタイムきらら」で連載され「京都アニメーション」によりアニメ化された作品、『けいおん!』である。この、時代の典型例となるような制作の作品は、2009年から2010年にかけてアニメ化され、流行した。
『けいおん!』について、宇野常寛は、社会学者の北田暁大のいう「つながりの社会性」(cf.ニクラス・ルーマン、オートポイエーシス理論の社会学者)に依拠して議論を試みている。「秩序の社会性/つながりの社会性」における「つながりの社会性」が肥大化した現代社会において、そういったコミュニケーション様式を理想化して描くという形で『けいおん!』のような作品が出現すると述べており、大きな目標を必要としない作品は、アニメ版で使用された楽曲の歌詞にも見出される、としている。(宇野常寛 「5章「空気系」と擬似同性愛的コミュニケーション 1 「空気系」と萌え4コマ漫画」『政治と文学の再設定』より)
この頃は、まだLINEの登場以前であったが、時代は着実に「つながりの社会性」へと加速していた。これは言い方を誤ればただちに秩序なき「ニヒリズム」と呼べる事態であるが、そうした語の喚起力に頼って時代を語ることのできる時代はとうに去っているのであり、こんにち、むしろ従前の意味での「ニヒリズム」は自明のこととして、新たな現実性による社会が進行しているのである。社会という現実性のあるところ、必ず秩序が、すなわち<ロゴス>的なコードがあるものである。
わたしもこの作品を楽しんだものだが、わたしは特に中野梓(通称:あずにゃん)の登場よりも前の、一期の作品性をとりわけ好んでいた。少なくともこれがわたし一人ではないことを多少なりとも観測しているところである。ここには、真に「出来事」という範疇の不在、徹底した排除、という願望が仮託されていた。時代の課題はもはや「ニヒリズムの克服」ではなく、その反対に、「出来事の克服」であったのである。『けいおん!』を観るとき、わたしたちは彼女たちの音楽者としての大成や自身の願望の投影としての音楽精神を見ていたのではなく、専ら彼女たちの「京都」(『けいおん!』に登場する街の風景は概ね京都である)における、つながりのある緩慢な日常を見ていたのである。
また、そのことについては、彼女たちの「内面(内言)」を描くシーンを注意深く見ていくとわかるところがある。日常系アニメにおいて、その考察をするには、作品の登場人物たちの「内言」に注目すればよりわかるところが多い。彼女たちは、いつも内言において、つながりのある軽音部のメンバーのことを考えているのである。本作は間違いなく、「つながりの社会性」の時代に規定された<空間>を演出するものであった。
思えばこれは、昔話などで描かれる<出来事>の範疇であれば、つながりを中心とした話の組み立ては普通のことだったのであり、なにもそれ以上に大きな世界観を包摂するような二十世紀型の「戦争」などの<出来事>は不要だったのである。しかし、10年代の日常系の特徴は、まさにそうした「つながりの社会性」という人間普遍の物語性から、<出来事>をすっぽりと脱色したことにある。本来物語にあるはずの<出来事>のほうが存在しなくなったのである。
ちなみにわたしは、2010年代の初めに『けいおん!』を視聴してから京都に「聖地巡礼」に訪れたが、こうした「聖地巡礼」のムーブメントもこれまでの10年代論で多く言及されている。
評論家の宇野常寛は、ゼロ年代の日本の現代社会において、デジタル技術でいうところの「仮想現実(VR)から拡張現実(AR)へ」というテーゼと同様の流れが文化空間でも進行しているとし、その一例としてアニメの聖地巡礼ブームを挙げている。つまり、緻密に設計された虚構世界へ消費者を没入させるタイプのものから、物語性を後退させた空気系へとトレンドが変遷したのに従い、「虚構」の作用が「異世界へ接続すること」ではなく「現実世界を読み替えること」に変化しているのだと考えられる[45][46]。
しかしそうしてみると、宇野の語るところに少しばかり訂正を加えなければならないことがわかる。
実は、「聖地巡礼」をしうるアニメにおいて、作品には多分に「観光」的要素が盛り込まれている。観光は、通常、異界に赴いて興奮する作用がある。例えでわたしが以前にも書いたことだが、観光に行き、観光から帰って来ると、いつもと同じ部屋のはずなのになにか「強度」とでも呼べるものが一変している。強度は変化率の知覚でもあるので、それだけ観光によって系の状態が変化するのである。異界は、系の状態を変容させる。それが、多くの物語で語られてきたことである。
観光客は国境を越える。無責任で無教養で勝手に動き回り、地元民に迷惑がられる。こんな人びとが、これからの時代の主役なのか? 東氏は本気でその哲学を準備する。
東浩紀の『観光客の哲学 増補版』(ゲンロン)の紹介記事にはこんなことが書かれているが、実際には、『農協月へ行く』(筒井康隆)の昔から、無教養な観光客の迷惑さと「旅の恥はかき捨て」の心理については言われていたのであり、なにも最近の訪日外国人や「聖地巡礼」を行うオタクについてのみ迷惑さが妥当するわけではない。
<異界>にはその<異界>に独自の規則があり、例えば、いっけん作中の彼女たちがわたしたちと同様の振る舞いを、あるいはわたしたちの模範となるような振る舞いをしていようと、それは表面上のことで、現実の人間は、独りで部屋にいるときの内言があれほどまでに能天気ということはない。また、別様の作品のような「崇高」な内面を持っているわけでもない。実際の人間心理には基本的に不安が多く、心に動くものもたいていは取るに足らないものでの無教養な笑いである。『けいおん!』にとりわけてみるべきところがあるとすれば、そうした「爆笑」や「性的関係」を完全に脱色して、いかにもありそうで、現にロケ地はあるが、実はどこにもない<異界>を作り出したところである。性的関係に関して言えば、あくまでもフィクションであるにもかかわらず、声優豊崎愛生や、作中のキャラクターに関するフェイク画像(?)が、なにかスキャンダルとでも言おうかのような話題になったような事実関係もある。だから、本作はまさに時代に適合的であった。インターネットにおいて、インターネット空間民であるわたしたちの、リアルとネットの境界が崩れ、<世界という現実性>が再定義される時代のなかで、『けいおん!』はまさに「現実」と「虚構」の境界を再設定した作品であった。かくして、その後のわたしたちの<現実性>は、その来歴を忘却し、わたしたちは再設定された<境界>に住まうものとなったのである。
かつて、1990年代、評論家の宮台真司が、「終わりなき日常」を語っていたことがあった。この、希望のない世の中で、むしろ終わりなき日常を生きろ、ということである。
ユング心理学者の入江良平は、1998年の著書、『世紀末精神分析』のなかで、
この『輝きを失った混濁した世界』には宇宙的な調和も、未来の希望も、魂の内なる輝きもありません。一切は意味を剥奪され、すべてが淀む灰色の世界。それが『終わりなき日常』の原風景なのです
と述べている。
思えば、わたしたちの10年代の「日常系」作品も、まさに<出来事>が喪失しているのだから、<意味>をもたない。昔話がつながりの中で起こる「あらすじ」を書けるものだとすれば、「日常系」は、あらすじを描けない、或いはあらすじなど意味をなさない。意味を喪失しているのである。しかし、物語上の<意味>を有さないところにも、コミュニケーションの形式や内実に「規範」はあったり、美観があったりするものであるから、その分析を展開しなければならない。
実際のところ、述べたように既にわたしたちの<現実>が再定義されてしまっている。「リアル」と「ネット」、「リアル」と「虚構」のような二分法は既に無効である。そうだとすれば、一概に「逃避」傾向を指摘したところで的外れというもので、わたしたちは、いわば「新しい現実」においてどのような秩序が生起したのかを語るほうが、より有効な語りになるというものである。
故郷回復の願望としての『のんのんびより』と『あまちゃん』
2013年から放送が開始されるアニメ『のんのんびより』は、シリーズとなり、映画まで制作されたかなりの人気作品になった。すなわちここに、時代精神を見ることは十分に理に適ったことであろう。また考察主体であるわたしも、同時期に郊外の田園や山村へと足を伸ばして空想に浸っていた時期に、インターネットを介して本作を視聴していたから、論じる対象にもできる。
『のんのんびより』は、日本の田舎を舞台にして小学生から中学生の4人(クラスは全員同じ)の「日常」を描いたあっと原作の漫画であり、アニメで人気が出たものである。だからこの考察はアニメに注意を注ぐ。なお、メインキャラ4人の他にも、明確に人格として描かれるキャラクターの女性たちがそれを取り巻いており、それとは別に男性として、一言も喋らないメインキャラのうちの姉妹二人の兄が存在する。
『のんのんびより』の主人公は、一応のこと小学一年生の「宮内れんげ」(れんちょん)である。そのほかのメインキャラは、中学一年生の越谷夏海(なっつん)と中学二年生の越谷小鞠(こまちゃん)の姉妹、そして、親の仕事の都合で東京から引っ越してきた小学五年生の一条蛍(ほたるん)である。
基本的にこの作品は、誰か一人に視点が固定されているものではなく、各キャラに視点が移動するタイプであるが、言いうることとしては、この東京から引っ越してきた内気なタイプのほたるんがしだいに田舎に馴染んでいく過程と、わたしたち視聴者が作品世界に馴染んでいく過程とを、同致させることができる仕組みになっている。ここに既に、日本のどこかにありそうでどこにもない場所としての匿名の「田舎」への郷愁と回帰願望、そして内気な人間がその「田舎」に馴染んでいくという理想が、投影されている。
ここではおそらく、連載の前回の記事で指摘した帰属意識の喪失が背景となっている。帰属意識を喪失した社会にあって、何かに帰属しようとした結果の、すなわちどうにかして内と外を分けようとした結果、作品を作品として楽しむのではなく、新しく再定義された<現実性>としての作品世界に没頭することになったのではないだろうか。そうすると、最適な回答は都市の喧騒を描くことではなく、田舎での、個々人が明確に顔と声と名前を識別されて存在する関係性への渇望となる。
わたしが<グノーシス主義>=<フィロ=ソフィア>の機制に対する問題意識を持つのは、地上の事柄、すなわち身体生活と生活の領域を過度に軽視してしまうことがあるからである。
ところで本来の西暦紀元前後のグノーシス主義は、ひたすらに霊性を求め、肉体を軽蔑するものであった。宮台真司の議論を援用した大貫隆の『グノーシスの神話』や山内志朗の『天使の記号学』の議論では、九十年代にみられた「テレクラ売春」などの行為に走る「女子高生」が、肉体が汚れても、売春相手の「世を受け容れた」オヤジたちとの対比として自分たちは精神的に「無垢(イノセンス)」であるという認識に基づき、<グノーシス主義>であるとされている。
しかし、こんにちの<グノーシス主義>の展開は、そうではない。
ここで、<グノーシス主義>の身体軽視に対する問題点を、見方を反転していわばその「精神過重」の傾向から批判するのではなく、むしろ「身体の過剰」の傾向から批判するのが、こんにちの流れというものであり、それはある点までは宮台の議論を踏襲することになる。なぜなら、宮台の議論を援用して語られた多くの議論では、「テレクラ売春」などの「身体の消尽」に<グノーシス主義>を見出していたからである。
もう一つ、故郷回帰の願望を描いて流行した作品を挙げるとすれば、同じく2013年の、連続テレビ小説『あまちゃん』であろう。
『あまちゃん』は宮藤官九郎脚本のドラマであり、母の故郷である地元岩手に、母に連れられて帰るところから物語がスタートする。そうして、しだいに海女としての活動を行い、「GMT47」なるアイドルグループで活動を行う主人公をメインにドラマは進行する。
これだけでも十分に故郷回帰の願望を描いていると言えようが、問題はその内実である。
岩手と言えば、宮沢賢治の「イーハトーブ」や柳田国男の『遠野物語』などに示されるような、日本の中の<異界>としての地位を確立している。さらに、本作中の「潮騒のメモリー」では、印象的な歌詞として、「北へ行くのね ここも北なのに」という内容がある。様々に考察されているから調べてもよいと思うが、基本的には<異界>の演出としての仕組みであると考えられる。
当初、この作品が始まるとき、インターネット上では、「この時期に海に潜る作品を作る」ということを怪しむ声がきかれた。福島第一原発の事故が発生していたからである。
そして、作中でパロディとなっているアイドルグループの名称やプロデューサーは明らかに「AKB48」と秋元康であるが、これは比較的体制的な存在である。
この作品が作られる頃、ちょうど民主党政権から自民党安倍政権への移行が起こっており、安倍晋三は「地方創生」を打ち出していた。しかし、安倍政権下のアベノミクスにおいて、都市と地方の所得格差は開いている。
当作品においては、震災が描かれる。
震災の思い出としてわたしにあるのは、当時九州に住んでいたわたしが視聴していた福岡のローカルワイド番組で、3月11日の翌日に迫った九州新幹線の全線開通に向けてのイベントを紹介していたことである。前年には東北新幹線の全線開通も達成されており、当時ちょうどそのことによる地域振興が期待されていた時期であった。そこに発生したのが震災である。わたしはこの頃、フリーゲームの「Simutrans」に傾倒していたので、印象深い出来事であった。
ところで『のんのんびより』においても、彼女たちの通学手段はバスであり、移動手段も車であり、背景にも軽トラが描かれていたり、「モータリゼーション」が進展していることが描かれているのだが、結局宮内ひかげ(ひか姉)が東京に出発するシーンでは、鉄道が描かれる。ひか姉の帰省でも、彼女は「新幹線」で帰ってきたことを主人公たちに自慢しているが、ほたるんが「飛行機」で来たことを言い出すとそちらに話題をとられてしまうという一幕がある。そのシーンに対して、外国の反応では、「俺なら日本に行ったときは新幹線に乗りたいな。飛行機はどこでも乗れるけど、新幹線は日本にしかない」というものがあった。
『あまちゃん』においては露骨に「モータリゼーション」という語を使用してその批判めいたことがなされているのだが、当作品においても、最終的に復興とアイドル活動の鍵となっているのは鉄道であることは指摘できる。
日本が道路を中心とする土建国家となった背景に、かの「国土の均衡ある発展」を掲げた田中角栄の政策があったことはよく指摘されるのだが、実際に彼が『日本列島改造論』のなかで書きあらわしていることを受け取ると、その交通政策の主体は自動車ではなく鉄道である。全国に新幹線を敷設し、その周辺に稠密な鉄道網を敷設すること、これが田中角栄の交通政策であった。田中角栄の『日本列島改造論』は、10年代半ばに発生した角栄ブームの余波で、近年復刻版が出たほどである。だから、現在石破茂も「日本列島改造」を言葉だけではあるが言い出している。石破茂が「鉄道オタク」をもって任じていることも指摘しておいてよい。
だとすれば、実は旧来日本の地方創生政策の理念は鉄道にあったことは言うまでもないことで、「我田引鉄」という言葉まであるほどである。
しかしどうであれ日本は、「裏日本」(新潟、鳥取など)を中心とする政治家による鉄道政策ではなく、「表日本」(太平洋ベルト地帯)を中心とする工業-産業化政策を推進してきたし、こんにちなお地方の衰退は止まるべくもない。
「日常系」の日常は確かに「生活」と区別するが、実は生命活動を維持するための「労働」が、近代以後「身体の消尽」になっていると指摘できる。それは、なにも労働者の責任ではないし、それから逃れられないものでもないのだが、現実にそうなってしまっている事態である。
『けいおん!』や『のんのんびより』などの日常系作品では、「生活」であるところの学業や部活に関しては、まず描かれず、日常系が主題として描くものは専ら「掛け合い」である。これは指摘したとおりである。
しかし、近代以後の社会においては、<グノーシス主義>のような身体軽視のありかたとは別様に、労働による「身体軽視」が横行する。そこで「なんのため」ということを問われると、「生活のため」と返ってくるのであるが、それはおそらく過度に「労働による成功」を求める人であったり、或いは過度に「労働しないことにフォビアを感じている人」による言明である。ここには、「金銭を獲得する=幸福度がその分上がる」という錯誤がみられる。実際には、いくら金銭を獲得しても、それ以上に個体性や社会性の複合体との適応性が個体の身体の健全さを決定するのであり、そこから幸福も導出されてくる。
だから、『のんのんびより』にみられる癒しは、現実における身体の消尽へのカウンターバランスとして機能している。しかし必要なのは、現実の「生活」における個々人にとっての身体の適切な使用と休息のバランスである。「日常」は確かに精神の領域におけるカウンターバランスとなるが、日本では概ね「生活」においてのカウンターバランスが機能してこなかった事実が指摘できる。それが、古来より今日まで続く身体の軽視に繋がっているとは言えないだろうか。「性におおらか」ということも、<グノーシス主義>とはまた別様の身体軽視である。その意味で言えば、「日常系」諸作品はその「ほどよさ」を描くものであると言える。
「<日常>と<異界>」と「拡張現実」の差異について
柳田国男の『遠野物語』などを読むと、<現実>と<異界>がはっきりと峻別されている。村、そして昼は、<現実>の位相であり、山や峠道、そして黄昏時から夜にかけては、<異界>の位相である。もちろん、そうした象徴秩序の<物語>に生きる人間たちであれば、「ハレ」と「ケ」の時間もはっきりと峻別されていたはずである。
しかし、先述した『けいおん!』以後の「日常系」の現実性においては、<現実>と<異界>が物語的にそう峻別されなくなった。わたしたちは、作品の眼をトレースされて聖地巡礼に行くとき、既に「作品の眼」をもって聖地に赴くのであり、したがって、かりにも、例えば京都の人間が『けいおん!』を視聴した場合、住んでいる地域がただちに<異界>となりうる。わたしたちは、そうした時代に生きているのである。したがって、「どこにでもありそうな」、しかし「わたしと同じだ」と固有性を匂わせるような演出の作品があった場合、それは自己自身を聖地化することになるのである。そうした事態を、わたしたちは体験しなかったであろうか?作品は、ときに自己自身の聖化ともなりうる。自己自身を聖化すること、それは従来の宗教の役割でもあった。これは普遍的に物語論として言えることであるが、日常系作品の特徴は、先述したような<生活>の位相と<異界>の位相の境界の再定義である。もはやそれは、村と山、のような「身体世界」における二分法ではない。それを決定するのは日常系作品においては、一々の作品である。
現代の生活においては、先述したような意味で、労働こそが「身体の消尽」にあたり、緩慢な会話などの日常こそが「ケ」にあたる。労働はすなわち「ハレ」と言える。ここでわたしは「ハレ」を再定義する。
「ハレ」とは、端的に言って「消尽」のことであり、それをなにか「祝祭」と連合させて良きもののようにとらえるのはよくない。「ハレ」は現実的には何らかの「過剰」だからである。すなわち、こんにちにおいて労働という「ハレ」は身体をも精神をも酷使するのである。
したがって、日常系作品は明確にその「ケ」の部分を書いており、こんにちの社会に対するカウンターバランスになっているから、一定の役割を果たしうるのである。
<日常>と<異界>に関して言えば、10年代頃から、「拡張現実」という語が流行語になっている。現時点では、3Dの画像を等身大でプロジェクションするものが一般にも使える関の山であるが、この「拡張現実」は、<異界>の拡張ではなくあくまでも「拡張現実」である。というのも、それはあくまでもわたしたちの<現実性>が拡張することを企図しているからであって、その逆ではないからである。「拡張現実」の要件に、「任意の往還可能性」を設定してもよい。任意に、「拡張現実」と<日常>を行き来できるのである。だから、それはあくまでも現実性の拡張にとどまる。
しかし、ある程度以上長い作品や、さらに言えば宗教は、そう容易く往還できるものではない。任意の往還可能性がないのである。したがって、仏教であれキリスト教であれ、確かに「還俗」という事態や「棄教」という事態は存在するが、しかし、宗教にある程度熱心に取り組んだことのある人ならわかることだが、いかに自由意志が確保されていても、「任意」には還俗できない。だから宗教的現実性は確かに地上の<異界>なのである。この場合、身体世界のどこかに<異界>を指定できるのではない。いわば儀礼や習慣によって、わたしたちの精神が、わたしたちの観念連合が<異界>となるのである。だから、わたしはこのことから「自由」の概念規定をよく考えてほしいと思うが、そのことは本稿の事柄ではないので措いておく。
わたしはだから、ニコニコ動画やなんJや嫌儲の生起において、<現実>と<異界>の再定義の定式が強くはたらいていると考える。そうした意味における、広義の意味で言葉にすれば<現実性>と呼べる感度は、インターネット空間においても、生起するようになったのである。この、<現実性>の生起を、一切の文化現象の「自律」と呼ぶことができる。もちろん自立は、他者からの影響を強く受けながらの「自律」でしかありえないが、それでも意志の自律があるように、まったく同じ意味で、例えば「絵画の自律」、「文学の自律」などが言われるように、わたしたちの社会性である「インターネット空間の自律」も言えるのである。わたしはその契機を日常系作品の仕組みに求め、そしてその帰結を、もはや現実での活動を行わない専らインターネット空間に閉じた<世界>での制作行為やスレッドの編集などにみたのだった。作り手は、制作行為や編集行為を行うと同時に、自己自身をも制作し、また再編しているのである。それが「インターネット空間」内部でも可能となったのが、10年代前半のこの領域において発生した事態である。「拡張現実」は通常の<現実性>の拡張であって、<現実性>それ自体の更新ではない。だから、<現実性>の更新を担う作業は今後も別の作業として展開していくと思われる。その大きなものが、こんにちで言えば漫画媒体の表現技法である。
結論として述べると、わたしたちの生活の領域が<異界>となっても一向にかまわないのだが、そこでもなお身体忘却と生活忘却をきたさない工夫が重要である。したがって、なにか頽廃的な作品に魅力を感じるようなことは、課題と言えるだろう。だから、あくまでも指針は「健康で快適な生」と、「徳と正義に基づく実践的行為」である。そのためには、自身がまず健康にならなければならない。そのためのヒントは、案外そうした「日常系」作品やその他の漫画、テレビドラマにも満載である。だから、そうしたことを企図していかなければならない。


例えば、これは2010年代後半からの作品『シメジシミュレーション』であるが、ここにはヒントが詰まっているように思う。
主人公の月島しじまは「やすもう」と決めるのであるが、その後に「だからといって…また1日押し入れで過ごすのは あの時期に戻ってしまいそうで… ああ でも…」という葛藤を起こす。
しじまは、本作開始時点で、中学校を不登校になり2年間を押し入れの中で生活して高校から復帰した人物像として描かれる主人公である。
この作品は、現実性が更新されていくような仕組みになっており、その速度感が時代に合っているとの指摘もなされる。
彼女は結局散歩をすることになるのだが、そのさい、文字媒体では機微の伝わらない漫画的な表現がなされていることがわかる。
しじまは「魚」が好きなのであるが、まさにこの散歩のとき、魚を模した持ち物を肩から胸をまたいでななめに掛けて歩いている。それでもしじまはいろいろなことを不安がって外出しているのであるが、しかし彼女には「魚」という移行対象があり、外出を続けられるのである。
こうした知恵が、漫画には数多く、さりげなく描かれていることが多い。こうした表現を漫画的知恵と形容してもよいほどである。説教臭くならずに若者を対象として優しい示しを与えることができるのである。
おわりに
今回は、「日常系」とその<現実性>について考察を加えた。また、「ハレ」と「ケ」の再定義において、わたしは社会に対する日常系作品の積極的意義についても指摘しておいた。至らなかった点も多いと思うが、わたしなりに書ける限りのことを書いたつもりである。
そうしたことは、絶えず消費するあらゆる事物との距離感に関しても、大切なことなのかもしれない。
