ぼやけた、かなしみの鏡像──八木重吉と「外側の自己」についての素描

文責:城輪アズサ

 かなしみがきざした日のことを、わたしはもはや覚えていない。
 それはいつしかわたしの中に棲みつき、わたしをわたしたらしめるひとつのエレメントになった。然るべき方向性と、然るべき激しさをたたえた感情とは決定的に異なるそれ。湿っていて、沈静するようなそれを、わたしは扱いあぐねていた。
 キリスト教詩人として知られる八木重吉(1898-1927)は、まさにその「かなしみ」についてしるしつづけたうちのひとりだった。八木が遺した風土や家族や信仰についての短詩には、どうしようもなく哀しみが凝っている。たとえば次のような一句。

はじめに ひかりがありました
ひかりは 哀しかったのです
ひかりは ありとあらゆるものを
つらぬいて ながれました
あらゆるものに 息を あたへました
にんげんのこころも
ひかりのなかに うまれました
いつまでも いつまでも
かなしかれと 祝福いわわれながら

八木重吉「貫ぬく 光」(『秋の瞳』)

 創世記にある天地創造のイメージのなかに、八木はかなしみを読み取る。ばかりか、一切のうちにそれがはらまれていることを卓越した感性で読み取り、それを詩として造形している。世界はかなしみの体系だ。そしてその悲観的で痛切な認識は、詩一般にも敷衍されていくことになる。

詩人とは
かなしみのひと
詩こそは
かなしきよろこび

八木重吉「幼き怒り」(『詩稿』)

 無論、わたしは詩の専門家ではないし、詩のよき読者でもおそらくない。正直に白状すれば、八木についての本は若松英輔が編んだ岩波文庫の『八木重吉詩集』(ふたつの詩集と、多くの詩稿、そして訳詩から構成されている)のみで、この結核によって夭折した詩人の周辺情報も若松の解説のみによって把握している。ゆえにこれ以上ライトモチーフとしての「かなしみ」について云々できるだけの含蓄は持ち合わせていない。それでもなおわたしが八木について語ろうと思い立ったのは、次の詩がいつまでも心の底に滞留しつづけているからだ。

夢の中の自分の顔と言ふものを始めて見た
発熱がいく日もつゞいた夜
私はキリストを念じてねむつた
一つの顔があらわれた
それはもちろん
現在私の顔でもなく
幼ない時の自分の顔でもなく
いつも心にゑがいてゐる
最も気高い天使の顔でもなかった
それよりももつとすぐれた顔であつた
その顔が自分の顔であるといふことはおのづから分つた
顔のまわりは金色をおびた暗黒であつた
翌朝眼がさめたとき
別段熱は下つてゐなかつた
しかし不思議に私の心は平らかだつた

八木重吉「無題」(『貧しき信徒』)

 周辺情報を補足すれば、これは八木の第二詩集『貧しき信徒』の最後に収められた詩だ。この詩集は八木自身の手によって編集されているが、出版はその死後になった。この詩はいわば、あるかなしみの詩人が最後に世に放った作品なのだ。
 その意味において、この詩は遺言だ。無論、そうした論評は皮相な物語化の臭みを免れるものではないが、いずれにせよ、死を覚悟しながら詠まれたものであることは間違いがない。そしてその点にこそ、わたしは注目したい。
 詩の情景はわりあい平易に取ることができるだろう。詩人はキリストを念じながら入眠した先で、夢を見ている。そこにはひとつの顔があり、それは自分の顔であった。そして目覚めたとき、身体の不調とは裏腹に心は平らかになっていた……。
 しかし個々のエレメントの連関は、一見すると奇妙なものに映る。自分の顔を見ることが、なぜ「平らか」な心につながるのか。いや、そもそも、「現在の私の顔」でもなく、「幼い時の自分の顔」でもない「自分の顔」とは一体なんなのか。それも、否定されたふたつの顔貌は、「最も気高い天使の顔」に比されてもいるのだ(そして、「自分の顔」はそれより優れているという)。これはいったいどういうことか。
 ただちに想起したのは、中世においてキリスト教神秘主義の思想を展開したマイスター・エックハルトの以下のような記述だ。

私の永遠なる誕生において、すべてのものは誕生し、わたしはわたし自身とすべてのものとの原因となったのである。もしわたしがそう望んだのならば、わたしもすべてのものも存在しなかったであろうし、わたしがなければ、「神」もまたなかったであろう。神が「神」であることの原因はわたしなのである。もしわたしがなかったならば、神は「神」でなかったであろう。

田島照久編訳『エックハルト説教集』173頁

 のちに独自の現象学を展開したフランスの哲学者:ミシェル・アンリ(1922-2002)が例外的に高い評価を与えることになった「一体性」についての示唆的な記述である。付言すれば、ここでは「わたし」と「神」の合一が問題になっている。神は魂のうちでわざをなす。業は魂と一体となり、そこにおいて業は愛されている。この愛は神そのものである。ここにおいて、神は超越しているのではなく、内在──それも、一切の隔たりを設けない仕方で──している。わたしが神の原因であるとは、そのような位相において理解されるべき事柄だ。
 しかしもちろん、八木が捉えていたのはここまでに確認したような内的な合一経験そのものではない。夢における自分自身の現れは「顔」の現れであったからだ。顔とは表面であり、こう言ってよければひとつのイメージにほかならない。キリスト教神秘主義的な合一に、そのような視覚的な隔たりはありえない。八木は合一を経験した・・・・のではなく、「自分」と出会った・・・・のだ。
 その閃きには、いわく言いがたい、畏怖にも似た奇妙な感情をおぼえざるをえない。自らの人生の最後に出会うのがほかならぬ「自分」であるとは! しかもその顔は、なににも比して優れているというのだ。わたしがわたしの鏡像に対して「優れている」と感じるとき、その情感はただちにわたし自身に送り返されている。少なくとも、そこに隔たりはない。
 わたしはわたしに出会い直す。それも、自らの生の臨界において。

 同様のイメージは、アニメやポップス/ロックといったサブカルチャーのなかにも見出すことができる。
 たとえば押井守が監督したアニメ映画『攻殻機動隊』(1995年)中盤のシークエンス。体組織の大半を機械化し、そのことによって実存の揺らぎをおぼえている主人公の草薙素子が、黄昏の海でダイビングを行う場面がある。深く沈降したのち、草薙は水面に浮上しようとする──そこで地上と水中を隔てる境界面に映し出されるものこそ、まさに彼女自身の姿だった。作中において、草薙の実存の揺らぎが、自らの身体を構成するものの多くが自らとは関係のないものでしかないということに対する違和感・不安から来ていることが示唆されることを踏まえるなら、この場面はまさに作品の主題にのみかかわる機能主義的なものだ。しかし鏡像のモチーフはこの場面だけにとどまらない。たとえば序盤と中盤を画する点景のシーン。そこではオリエンタルな歌唱とともに、アジア的開発独裁めいた埋め立て地の風景が映し出されるのだが、草薙はその風景のなかに自分自身を発見するのだ。目線の先に、佇む自分の姿が映る。それは物語の結末──電子の海から生まれた、完全な人工生命との合一──を踏まえるなら、ひどく死の気配に満ちたシークエンスだ、と論評を加えることもできるだろう。自らの遍在、自らの融解、その予感こそが、あの点景をしるしづけていたのだ、と。付け加えれば、その「合一」の結果生まれた存在は、目覚めるとともに鏡によって自らの姿を知る。

 またロックバンド:ヨルシカにおいても、そうしたモチーフは見られる。
 ボカロPのn-bunaを中心とするこのバンドは、ある時期以降作中作の存在感を強め、歌唱や演奏を行いながら、同時に物語を語ることに心血を注いできた。その詩はただちにある物語と接続される。あるいは、その物語はただちにある詩と接続される。
 その最大のものが、フルアルバム『だから僕は音楽を辞めた』および『エルマ』(ともに2019年)におけるものだろう。そこで展開されるのは音楽で望んだ成功を得られずにスウェーデンへと旅立ち、自らの音楽をその人生とともに完遂しようとするとある詩書きと、それを追う「エルマ」の物語だ。しかし、ここではそれについての詳細な解説は行わない。ここで注目したいのは、その物語の最終幕とも言うべき楽曲、《ノーチラス》のMVにおける、とあるカットなのだ。

 MVの終盤、毒性の人工染料である花緑青を呑み自殺を図ろうとする詩書きは、上空に潜水艦を見る。「ノーチラス号」だ。『海底二万マイル』に登場する潜水艦……しかし、その車窓から顔を覗かせていたのは、ネモ船長でもなく、エルマでもなく、他ならぬ自分自身だった。
 車窓から下を見下ろす詩書きは、やがて眼を逸らす。一方地上にいる彼は、毒を呷りそのまま着水して姿を消してしまう。そしてすべてが終わったあとのその場所──最後の場所──には、語り手であるエルマがやってくる。そのようにして物語は終わる。
 しかし疑問は残る。彼が最後に見たもの、空に浮かんだ潜水艦から見下ろしていたものとは、一体誰だったのか。彼自身、というのが自然な回答だろう。しかし、それは一体どういうことなのか。
 ヨルシカ、およびn-bunaの詩作は、それについて読解するうえでのヒントになるかもしれない。わたしの考えでは、その詩をしるしづけているのは「アイロニー」(「わかっていながら、あえて」なにごとかをなすこと)だ。かつてn-bunaは、ボーカロイド楽曲《花降らし》──ヨルシカのボーカルをつとめるsuisが最初に歌ったものとされる──において、長い間奏明けにこのような歌詞を配していた。

あなたの葬式を見た
なんてことのないアイロニー

n-buna《花降らし》(『月を歩いている』)

 なぜ「あなたの葬式」を見ることが「アイロニー」なのか。
 その問いに回答するうえでまず押さえなければならないのは、語り手の設定だ。この曲は同じアルバムの多くの楽曲から一人称を──「僕」から「私」へ──変更している。いささか単純に図式化すれば、ここでは語り手が(書き手であるn-bunaに代表される)男性から(歌唱する初音ミクのボイスモデルになった声優に代表される)女性へとスライドされている。
 なるほど他の楽曲において、作中の「僕」の語りはただちにn-bunaの語りでありえた。たとえば《白ゆき》において「毒を呑む」ことを躊躇する主体は、その作者に限りなく近い存在として解釈することを許すようなものだったはずだ。しかしここにおいて、そうした接近はありえない。「私」は「僕」ではない。そこには断絶がある。そしてそうした女性から見た「あなた」の「葬式」は、それと同じような枠組みで解釈するならかつて「僕」であったものの葬式──つまり作者的なものの葬式としてありうる。ここにひとつの解釈が、想像が成り立つ。作者はここにおいて、自らの葬式を見るだれかを構想している、と。
 アイロニーは、ほかならぬこの構想に棲んでいる。自らの葬式を見ることはできない。あなたの眼を借りでもしなければそんなことはできない。あなたの喉を借りでもしなければそんなことは歌えない。そして他人そのものになって見、表現することは原理的に不可能だ。ここには何重もの断絶がある。しかしそれを分かっていながら、さもそれが可能であるかのように振舞って見せることで、この表現は成立している。それは紛れもなくアイロニーだ。
 そしてその意味においてアイロニーとはまた、ひとつのかなしみにほかならない。
 《ノーチラス》において最後に浮上していたのは、まさにそうしたかなしみであった、とは飛躍的な解釈だろうか。自分の人生の最後に、アイロニーそのものが自己解体されること、その表現であった、とは。自己解体は痛みを、悲しみをともなう。だから彼は泣かなければならなかったのだ──。

 まだ20代である筆者、特に大病を患ったこともない筆者は、否応なく迫ってくるものとしての死を感じることなくここまで歩んできた。投身にも似た怒りや焦燥はあっても、「かなしみ」はどこかぼやけた、身に染みない他人事でしなかった、と認識している。しかし今、そうした感情が自分のなかで強まりつつあるのを感じる。
 無論、そうしたあいまいな自意識を持ち出すまでもなく、死はそこここに溢れている。八木のかなしみは、おそらくそうしたものたちとも共鳴しうるものだろう。
 いつかわたしも避けえない死を迎えるのだろう。その直前に萌すのは、果たしてかなしみだろうか。そして最後に直面するのは、やはり自分自身の顔なのだろうか。


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