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くるり「ロックンロール」の歌詞について

すいません、あー、ロッケンロールは好きですか? 私もです!!
──クリストファー・マグワイア

「ロックンロール」はロックバンドくるりの13枚目のシングルである。ならびに5枚目のアルバム『アンテナ』に収録されている。発売は2004年。『アンテナ』といえば、ドラムにアメリカ人のクリストファー・マグワイアを迎えた唯一の特徴的なアルバムである。
作詞作曲はもちろんフロントマン岸田繁。1976年生まれなので、当時27歳だ。

私はこの曲が好きで、これまでの半生で一番聴いた曲と言っても過言ではない。それでいつかこの歌詞について文章にしようと思って長年が経ってしまった。
よく言われている説は、「死」を歌ったものだということだ。
ここではそれが本当なのかも含めて考察していきたい。
優れた歌詞というのは聞き手に多様な解釈を与えうるもの、と相場が決まっており、だから直接的な表現は避ける傾向にある。
「君」や「あなた」と呼びかけたとして、それが語り手(「僕」や「私」。この歌詞の場合は「僕」)との関係性がどうとかは明示されない。だから聞き手は恣意的にその二人称の部分を誰か聞き手に関する実在の人物に当てはめて試聴することが可能になるのだ。

冒頭の歌詞はこうだ。

進めビートはゆっくり刻む
足早にならず確かめながら
涙を流すことだけ不安になるよ
この気持ちが止まらないように

岸田繁「ロックンロール」

これは倒置法である。
「進め」と「ビートはゆっくり刻む」はあまり文が繋がっていない。
「ビートはゆっくり刻む、(なので)進め、足早にならず確かめながら」が語順として正しいのではないかと思う。
冒頭に「進め」が置かれるというのは、メロディに対するリズムという面ももちろんあるだろうが、「進め」というメッセージを強調しているのが一番の理由だろうと私は解釈する。
それは肯定的な聞き手への後押しのメッセージだ。

「ビート」はもちろん音楽用語で、打点、および基本の単位として聞こえる基準のことで、曲から基本的な時間の単位を取り出したものである。日本語に訳すと「拍」と言ったところだ。
ここでは一歩一歩歩くその歩幅のリズムがビートに喩えられているように思う。
歩くというのは散歩しているというのではなく、人生を進んでいることの比喩だ。

「涙を流すことだけ不安になるよ」
という部分は、今の私にはあまりしっくり意味が理解できない。
「涙を流すと不安になる」や、「涙を流すくらい不安になる」なら意味が分かるのだが、詩人岸田はそのように明快な言い方はしない。
不安なのは、涙を流すことだけに限定されている。この限定にはどのような意味があるのだろうか?
しかもこの「涙を流すことだけ不安だ」という「気持ち」が止まってはいけないような言い方である。ここに重要なポイントがありそうだ。

それでも君は笑い続ける
何事も無かった様な顔して
僕はただそれを受け止めて いつか
止めた時間を元に戻すよ

岸田繁「ロックンロール」

ここで「君」が登場する。
「それでも」ということは、前の節で歌われている不安とか涙とかと何か関係があるのだろうか。
「僕」と「君」は共通の困難や辛い経験をしたというのか。
「何事も無かった様な顔して」というからには、そうなのだろう。「何事かがあった」ということに他ならない。
僕はそれを受けとめて、
「止めた時間を元に戻す」

一つ思い浮かぶのは、笑い続けている「君」というのが遺影ではないかということだ。
それなら表情が変わらないことの説明がいく。
「止めた時間」……。
時を止めるなどというのは、アダルトビデオの企画物の世界以外には考えられない。
もちろん自分の世界が止まったことの比喩なのだろうが、これは「僕」は相当に衝撃的な体験をしている。
「止めた時間を元に戻すよ」の前に、「いつか」と歌われている。
つまりこれは今すぐにはそうはできないということなのだ。
時間が止まる前の世界には簡単に戻れそうもない。
なにげなく歌われる「いつか」に重みを感じる。

裸足のままでゆく 何も見えなくなる
振り返ることなく 天国のドア叩く

岸田繁「ロックンロール」

この歌詞は、実は私のこのnoteのアイコンに書いているくらい気に入っている箇所だ。アイコンを設定したのは6年ほど前だろうから、その頃からずっと捉えきれない名言として私の心に残っている。

「何も見えなくなる」はビートルズ「ノーウェア・マン」
「振り返ることなく」はオアシス「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」
「天国のドア叩く」はボブ・ディラン「ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア」
それぞれ世界的に有名な楽曲からの引用である、というのを以前どこかで見かけたことがある。
信じるか信じないか、岸田がどこまで意識したかどうかは読者の想像に任せるとして、これについては私は自分の意見は述べない。

「裸足のままでゆく」は、決意に満ちた力強い語で、これだけで詩性を有していると思う。
裸足は着の身着のまま、何の準備もなく、無防備な状態で、自分をさらけ出した状態で、ということを連想させる。
「背水の陣」というような趣きもある。
人生の節々で、勇気づけられそうな言葉の力を感じる。
ここで「天国」という言葉が出てくるのは、直接的に「死」を連想させるものだ。
それは次の節に繋がってくる。

たった一かけらの勇気があれば
ほんとうのやさしさがあれば
あなたを思う本当の心があれば
僕はすべてを失えるんだ

岸田繁「ロックンロール」

私は何度聞いても、ここで歌われる「〜〜があれば」が、「僕」にはないんだ、というニュアンスで受けとってしまう。
つまりそれらがないから、僕はすべてを失えない。
すべてを失うが「君」を追って死ぬことであるなら筋が通る。
実はこれはYahoo!知恵袋で読んだ解釈なのだが、一かけらの勇気とほんとうのやさしさ、本当の心があれば自殺することは容易い、でもそれを僕は持ち合わせていない、だからごめんね、贖罪的解釈である。

それまで「君」と歌われていた人物と「あなた」と歌われる人物が同一人物なのか、違う人物なのか、ここも考えてみる必要があると思う。
「あなた」は生前のすがたを指して、「君」は写真のなかの失われた存在を指すということだろうか。ここもさまざまな解釈の余地がありそうだ。

晴れわたる空の色 忘れない日々のこと
溶けてく景色はいつもこんなに迷ってるのに
8の字描くように無限のビート グライダー飛ぶよ
さよなら また明日 言わなきゃいけないな

岸田繁「ロックンロール」

「晴れわたる空の色」から連想される情景は美しい。清々しい感じがする。
「忘れない日々」は、「君」あるいは「あなた」との日々だとしか前後の文脈からは考えられないように思える。
溶けてく景色が迷っているという言い方は、ここでも詩的な難解さを含んでいる。
迷っているのが「僕」ではなく、主語である「溶けてく景色」なのが意味深だ。あるいは主語の「僕」が省略されている?
考えるな、感じろを採用したい表現だ。
「8の字描くように無限のビート グライダー飛ぶよ」は、エイトビートで演奏される典型的ロックンロールであるこの楽曲の音と、8からの連想で曲芸飛行として8の字飛びが歌われる。
もちろん8は横向きにすると♾️(無限)の表象となる。

しかしグライダーといえばエンジンやプロペラがなく、降下飛行(滑空)のみの乗り物だ。
ブルーインパルスのように、8の字を描いて飛行することなど不可能なはずだ。
岸田がそれを知らないはずはない。

「さよなら また明日 言わなきゃいけないな」を言わなければいけない相手は誰だろう。
やはり「君」もしくは「あなた」なのか。
この区切り方なら、ふた通りの解釈ができる。
一つは、「さよなら」を「また明日言わなきゃならない」
もう一つは、「さよならまた明日」を「言わなきゃならない」
前者だとしたら、「さよなら」は今日も言ったが、また明日も言わなければならないということになる。
もしくは今日うまく伝えられなかったから、明日に延期したということか。
後者だとしたら、今日は別れるがまた明日会うという意味になる。伝える相手はおそらぬ生きていることになりそうだ。
なので前者のほうがしっくりくるだろうか。

おわりに

よく言われることだが、この曲のタイトルを「ロックンロール」としたことが素晴らしいと思う。
詩人岸田繁にとってみれば、逆に当然と言えるのかもしれないが、「ロックンロール」を明示する歌詞は曲中に出てこない。
曲のタイトルにロックンロールとつけるのは、小説のタイトルに小説とつけるようで、並大抵のことではない。
ここぞという時、これだという時にしか成功しない。
中村草田男の俳句「降る雪や明治は遠くなりにけり」が、例外的に「や」と「けり」の二重での切れ字を使用し、それでも成功しているのと似た様な、稀有な例だ。
(いや、これた例えが全然上手くない気がする)

世代ではない自分などより、もっと思い入れの深い方は、この文章を読んでくれた人のなかにたくさんいると思うし、聴いたことのある人の数だけそれぞれの壮大だったり細かかったりする「解釈」が存在すると思う。
理想を言えば、そんなそれぞれの人の解釈を色々聞かせてほしかったりもするものだが、この曲が素晴らしいという共通理解が得られるだけでも、嬉しいものだ。
ちなみに私は2022年のくるりのライブで、直接ロックンロールを聴くことができた。
あの時は感動したな、また聴きたいものだ、ぜひライブに行こうと思う!

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