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私たちは全員ビフォーChat GPT世代

ちょっとディストピアっぽい話を。

今ですね、次の本の構成を練っているところなんです。章立てとか、各章の内容とか、そういった本の骨格みたいなものを作っています。
骨組みって一番重要じゃないですか。だから、ウンウン頭をひねりながらがんばってやっています。

そこで壁打ち相手になってくれるのが、Chat GPTです。もうみなさんも活用しているでしょうから説明するまでもありませんが、ものすごく優秀ですよね。
「こんな感じのことを書きたいんだよね」と伝えると、瞬時にそれまでの構成案をアレンジして新しい提案をしてくれますし、「いや、この部分はニュアンスが違うかな」と伝えれば「失礼しました」とか言ってまた瞬時に別案を出してきます。

と、これだけ見ればめちゃくちゃ優秀なパートナーですが、これが例えば「なんでもいいから本のテーマを考えて」みたいなゼロからの提案をお願いすると全然だめです。いわゆる優等生的な当たり障りのないテーマしか出てきません。そりゃそうですよね。

つまり、大事なこととしては、Chat GPTを使うこちら側に何らかの問題意識(問いを見つける)があり、そのことについて書きたいという強いモチベーションがあることが前提条件として必要なのです。
その条件さえ満たしていれば、Chat GPTは実用的な答えを出してくれます。

このように、私たちはChat GPTを道具として使っている、という感覚が当たり前にありますよね。使われているわけではなくて使っている、と言えるはずです。
なぜならChat GPTが登場する前から、私たちはずっと自分の頭で考えて生きてきたからです。
おそらくこれからAIが進化していっても、使う・使われるという主従関係が崩れることはないでしょう。

しかし、これから生まれてくる子供たちはどうなのかな、とふと思いました。生まれた時からChat GPTがある世代です。

物心ついた時から身近にAIがある。もちろん自分で意図して使うようになるのはもう少し先でしょうが、最初の最初から聞けば何でも答えてくれる頼れる存在としてChat GPTのようなAIを認識するはずです。

そこから出発すると、なかなかAIを疑うという発想が出てこないのではないでしょうか。
分からないことは考えるより先にAIに聞く。だって自分の頭で考えるよりも速くて正確な(と思われる)答えが返ってくるわけですから、そうなるでしょう。

その時、人間とAIの主従関係が完全に逆転する気がしてしまいます。

いまの大学生ぐらいの若者は、私とは20歳以上開きがあるけど、それでもビフォーChat GPTという意味では同じ世代なのです。Chat GPTへの依存度に多少の違いはあるかもしれませんが、少なくともChat GPTを使っている感覚は持っています。
ただこれから十数年経ってから登場するアフターChat GPT世代は、根本的に何かが違うのではと考えると少し恐ろしくなります。その時、人間に知的創造力は残されているのでしょうか。

なーんて心配してしまいますが、それもこれも今の常識の範囲内で考えているからですよね。その時になったら、きっと現時点では想像することができない変化が起きていて、なんとなくうまくやっているのでしょう(希望的観測)。

あまりに便利なChat GPTを使っていると、ついこんなことをツラツラと考えてしまいました。