AM8:15 祈る余白と傷
「げんしばくだんがおちると ひるがよるになって ひとはおばけになる」
他人の傷みを想像できずにどうして自分の痛みだけに対処できようか。平和記念公園に来たことがなくても良い、アウシュビッツを知らなくても良い、排他的な正義や理想論は本末転倒だと思う。ただ、それを超える想像力がないなら見ておかなければならないとは思う。
丹下健三の言う「平和を作り出すための工場」に訪れる必要がある。戦争とアートと音楽と。人間の理不尽な生と死、愚かさと醜さには中指立てるかアートや音楽に昇華するしかない。
私が1945年8月6日を1日でも生き延びていたら何ができただろうか。何もできなかったのではないかと思ってしまう。祈念館の方のVR映像を観て、今年も色々な手記を観て痛感した。

今年は変化の多い中で満身創痍になることが多いながらも、大切に思える人が増えたり、新しい価値観を得た1年でした。私の1年の節目は誕生日でも元日でもなく、この8月6日にあるので今年も振り返りを。
被曝体験記はまだ読み切れていない、一生の間には全部
AM 8:15 ― 蝉の声と無音のあいだで
平和記念公園に立つと、まず蝉の合唱が耳を包む。80回目の8月6日、午前8時15分。鐘がひとつ鳴り、あらゆる音が吸い込まれるように消えた瞬間、世界はわずか一拍だけ「無音」を許した。海外120 か国・地域の参列者が同時に黙祷を捧げたあと、「被爆者のいない世界がいつか訪れる。」という言葉があったことが脳に焼き付いている。
平均年齢86歳を超えた被爆者が抱える現代への焦燥のようなものと、核抑止が国際政治の“前提”になりつつある現実の乖離を指摘する声が、祈りの空気にひそかな緊張を走らせていたように思う。最近はTikTokでも配信をしていたり色々なデバイスで配信を見られる時代の中で、何かを感じた人も多いのではないか。

生命の雑音を「よろこび」として聴く
今年も蝉はよく鳴いている。震える羽音を「うるさい」と切り捨てるのか、それとも“生きて在るだけで鳴動するもの”として歓迎するのか。私らしく環世界(Umwelt)の論に倣えば、蝉の声は私の世界に穿たれた他者のリズムであり、そこに「不協和音」を感じるか「旋律」を感じるかは感受性の編集作業だ。私は後者を選びたい。仮に前者だとしてもそのズレを喜びたい。騒音も時に祝祭や祈りへと転換する想像力。それこそが戦争や争いを「当たり前」にしない抵抗の最小単位ではないかと思う。
小学4年生の私と現在の私
10歳で原爆ドームを初めて訪れたあの日、私は帰宅するやいなや瓦礫と雲と黒い雨、被爆者の絵を描いた。絵は失われても、なぜか線の運動だけが手のひらに残っているように思い出して描くことができる唯一の絵。以来ずっと私は「理不尽な生と死」に心を刺されるたび、この日に立ち戻る習慣を得るようになった。


過去の自分への手紙として書き継いできたnoteの記事群を読み返すと、自分の軸は殆ど動いていない。「自分に必要な経験をください」と祈り、翌年にはその経験を血肉化して次の問いを立てる。その繰り返しだ。現実はフルメタル・ジャケットのように無残で機械的で絶望も常に隣り合っている、しかし、“いま・ここ”に蝉が鳴くかぎり、私は“生存を面白がる”権利を手放さないだろうと思う。
攻撃しない勇気、理解しようとする努力
式典で改めて胸に刻んだのは、相手を攻撃しないという最低限の倫理と日々を当たり前のように大切にする努力だ。意見が異なることと、相手の存在を否定することは同義ではない。敬愛するハンナ・アーレントが語る「世界への愛(Amor Mundi)」は、相互不可解性を抱きしめながら世界を愛する態度だと言われる。互いの不可解さを“排除”するのではなく“余白”として扱うこと、それが私たちの会社のyohaku Co.,Ltd. の理念でもある。
アートが見つめる未来
私の好きなウォルター・ベンヤミンは、“Angelus Novus”というアートをパウル・クレーから手に入れ、過去と未来、進歩についての詩を書いている。平和記念公園にあるモチーフを見ているとこうしたアートが紡ぐ時間の流れを感じることが多い。複製技術時代の芸術で言われるアウラについて考えることが多いので、今年はベンヤミンやパウル・クレーを思い出していた。被爆80年の今年、私はその天使の翼に蝉の翅を重ねてみる。未来から吹きつける暴風の正体は、核抑止を“合理”と見なす私たち自身の思考かもしれない。天使が見据える瓦礫の山をこれ以上高くしないために、私は背中で風を受けながらも、一歩だけ地面に爪を立ててみたいと思う。アートとAIと手仕事と、そのどれもを同じ熱量で行き来しながら。
▼Angelus Novusは今こちらに収蔵されているらしい▼
私的な願い
澄ますこと
被爆体験を語れる人が減るにつれ、証言は「書き言葉」に閉じ込められる。声が届くうちに耳を澄ます。これは被爆者の声に限らず日常で接するものから私が“顔の知らない”人たちの声も含めている。HERALBONYとの関わりでもただ自分が語るだけでなく出会う人の心に耳を澄ましていく。紡ぐこと
テクノロジーとアートの境界を行き来しながら、“手触り”のある作品で記憶を媒介しようと思っている。今年は環世界写真×AIでシリーズを試作するし、PxDTでも技術と研究を紡ぎ続ける立場の仕事を全うしていきたい。余白をつくること
障害・国籍・信仰の差異が“欠落としてのモノフォニー”ではなく“ポリフォニー”として響くような場を設計する。コーチングでも経営でも開発でも、共振を促すような仕組みを新しくつくりたい。顔の知らない人同士が刹那的に助け合うような場所があっても良いと思っている。
被爆者のいない未来は、生の時間軸が自然に進めば必ずやって来る。その必然を「風化」にしないために、私は来年も蝉の合唱を喜びとして聴き取り、8月6日を「意味や意義を刷新する日」として祈る。同時に意味や意義に縛られず身体性のノリとグルーヴであらゆるものに絶望しながらあらゆるものにときめいて手を動かす。
祈るための余白
大切な人を失い誓いを立てた日も近い。一体この一年で私は何ができたのだろうか。昨年想像していた以上に何か新しいものを生み出すというよりは只々生き延びることしかできなかったように思える。批評家になることだけはなく手を動かし続けること、それは出来ていたし良い意味で絶望も程々に色んなものにときめきながら手を動かしていたのは救いかもしれない。
ビジネスキャリア的なものに関心を抱かなくなってから歩むスピードが遅くなった気はするが軸は変わらず。修論はMBAでなくアートや医療の研究に携わりたいという思いが強くなった1年だった。これは経営という抽象度の高い場所から現場近くにいる機会が圧倒的に増えたからだろう。


箱は銃をしまう箱だったそうだ
抽象度の高い理想を追い続けることも大切ですが、一方で明確に人の課題を解決するテックや研究やアート、そうした手触りのあるものを作り続ける覚悟と学び続ける芯のある人達、ないしは無意識かつ無目的的に永続性のある生を全うしている人達にこそ、やはり敬意を抱きたい。
2025年までにMBAで修論を書き上げそれを社会彫刻として実践し、写真とテックでアートを作り続け、仕事では障害の概念を拡張し、余白を楽しめるパートナーや友人と、豊かな後悔の多い人生をつくれるように。
“多様性とか社会貢献とか言ってる後付けソーシャルアントレプレナーシップにこそ、反骨心とハンマーで殴られたような、恐らく想像もつかない貧困と虐待と学習の機会損失を幼少期に経験していただきたい。”
...と思っていた若かりし自分も、実存している人を誰でも愛せるくらい大人になりました。
必要な経験をください。百難でも千難でも構いません。
不完全さを許容し、私たちが”生の余白“へ歩み寄る方法を探り続けることで分かり合えなさを超えるために。
祈りは無力だと嘲る声があってもよい。
私は蝉の声のように、理不尽な世界にあえて響く雑音の一部でありたい。今日に限らず理不尽な生と死をよく考えるしその現場にも赴くが、果たして、この日広島に誰かと訪れることはあるだろうか。不可能でも祖母とはまた来てみたいし、子どもに恵まれることがあれば小学4年生の頃にでも、理解力がついてきた頃に一緒に来たい。そんな奇跡も期待しつつ。

来年もAM 8:15、平和記念公園で過去の自分と会おう。
【追記】キズと戦争と音楽と
8月6日。
この日は、毎年特別な意味を持って私の中にやってくる。
だから平和記念式典の間も、献花の瞬間も、私は静かに目を閉じ、誰よりも身近だった人たちのことを思っていた。
ライブのことは、あえて考えないようにしていた。切り離したかった。
けれど、それでも──
“そもそも8月6日と9日について歌おうとしないのは、日本のロックバンドとして恥だと思ってるぐらいのところがある”と来夢さんが言ってから毎年8/6と8/9にライブして、曲作って...
その生き様に惚れ込んでるから、感動だけでなく圧倒的に自分の足りなさを感じて悔しさもあって泣くのかもしれない。
「黒い雨」「銃声」「鳩」「リトルガール」
それらの音楽が耳に届いた時、耐えられなかった。
思考よりも先に涙が溢れた。
心のどこかで蓋をしていた感情が、音と光と沈黙の間からにじみ出てしまった。
終演後来夢さんが目の前でピックを手渡してくれて、
きょのすさんが頭に手を置いてくれた。
ユエさんとreikiさんも目を合わせて笑いかけてくれた。
ライブ中の思い込みでなく、本当に。
あの一瞬だけで、今日という日の重さが、少しだけ軽くなったように感じた。
この場所で、救われた気がしているし、生きる理由が増えた。

曲中に色々考えたのか考えられなくてなのか嗚咽してしまったことは、正直に言えば恥ずかしさも感じた方が良いのかもしれない。
けれど、感情の洪水を抑え込まずにいられた自分に、少しだけ「正直でいられた」と思えた。
本当に感謝しています。
キズというバンドの音楽が、「8月6日」という日に深く交差していて、いろんなアーティストを聴いてきてもこれは初めてのことで。インタビューで「今日も楽しんでほしい」と語ってくれた来夢さんの言葉は、決して軽いものではなく、この日に込められた意味の上でなお、それを言葉にしてくれる重さを感じた。


生き様として尊敬したい
愛してる君だけを守る為刃を持ち
この命さえ捨てていい捨てていい
足元に散らばる亡骸の上で笑う
鬼の子達いつの間にか角を失くしてる
ぽつりと黒い雨は乾き始めてる手負いの使者は空へと戻り
愛してる君だけを守る為なら今すぐに
銃口を向けるお前くらい簡単に
繰り返す悲しみを僕等は何も学ばず
過ちさえ繰り返す繰り返す
流れた血の海の上にアスファルトを敷き
街が出来て今日もショーケースに飾られる命
また死にたいとか悪い冗談並べて遊んでいる
この街はそう悪くはない
木漏れ日に揺れる
ぽつりと黒い雨は乾き始めてる
悲しみさえも引き摺り消える
愛してる君だけを守る為刃を持ち
この命さえ捨てていい捨てていい
繰り返す殺略の中僕等は家を建て
夢を唄う血と骨で音奏で
愛してる君だけを守る為なら世界さえ滅びていい
空に舞う弾頭と
許し合うこともなく解り合うこともなく
憎しみ回る永遠に永遠に
愛してる君だけを守る為刃を持ち
この命さえ 捨てていい捨てていい
自分が死ぬ覚悟は出来ても、敵の人間を殺す覚悟ができないという兵士の言葉を思い出す。
ライブは、当たり前ではない。
アンコールも、当たり前ではない。
それを毎回のように思っていた中で、二度目のアンコールに応えてくれたこと、この日この時この場所にいてくれたこと、そのすべてが嬉しかった。
曲や歌を超えて生き様に共鳴し、尊敬できるアーティストは実はそう多くはなく限られている。生き様に惚れ込むともう後戻りできない。

2アウト目の後なしのイエローカードも
誰に出してアレは誰の落とし物
正しく人を殺すルールをもう一度聞かせてくれ
エル・チャポと穴を掘りたい
世界がシラフに戻るまで自慢のメカで解いて
八月の雲を晴らして
ミサイルなら幸せをピストルなら願いを叶えると噂に
リトルガールさえ呆れちゃうから
肌の色を一つにしてあの涙も枯らして
瞳の色を一つにしてエンドロールを歌って
2シーズン目の『回して!!ハラショー』
潰すゴールデンタイムをシンキングタイムで
猟奇的なマミー残る僕を分別して
脳は第3水曜日
マザー・テレサも見捨てる世界が終わりを学ぶまで
得意の式で解いて
八月の答え出して
ミサイルが口を開いて
その涙の理由も答えると噂に
リトルガールさえ病んでしまうから
憎しみも一つにして僕も笑わせてくれ
神の名も一つにして僕も笑わせてくれ
2テイク目の肌の色はイエロー
切れた赤い糸(レッドライン)なら
国境線(ボーダーライン) 越えて
君の魅力(ボディライン)を拐うなら
ギター鳴らすしか興味ない彼も
戦場のロックスター
2アウト目の後なしのイエロー
英雄(ヒーロー)気取りの正義を飛ばすC4
正しい平和の祈り方をもう一度教えてくれ
チェ・ケバラと麻雀して世界が正気に戻るまで
モハメド・アリと肩パン みんなでしてみないか?
また飽きずに地上で知的生物の繁栄
自転車(チャリ)で月まで漕いで
そろそろ僕も入れてくれ宇宙の暇人に
ミサイルなら幸せをピストルなら願いを叶えると噂に
リトルガールさえ呆れちゃうから
肌の色を一つにしてあの涙も枯らして
瞳の色を一つにしてエンドロールを歌って
リトルガールは病んでいる
生まれてきたことさえも
リトルガールは生きている
死ぬことも許されず
リトルガールは病んでいる
今、私はこの想いを未来に繋げたいと思っている。
「努力している」と胸を張って言えるようになるまで、もっと必要な経験を乗り越えて、恩返しをし続けたい。
「当たり前じゃない大切」を、大切にし続けたい。

そして来年の8月6日も、
この地・広島で、またあなたたちに会えますように。
スティグマを超えて。
0815追記
終戦記念日の今日にキズがこの曲のMVを発表してくれた。
終戦100周年も大切な人たちと一緒に迎えられるように。
今日の日本は平和で良い1日でした。
世界にも平和が訪れるように、できることを。
日本でやりたいことも山積みだけれど日本に閉じ籠りすぎないように頑張ります。
今日参拝してる時も頭に流れてくるしどうにかなりそうな曲と音と声。
同じ時代に同じ国でこうして音楽を響かせてくれているだけで心からありがとうの気持ちです。
破けたワンピース 裸足で歩いていく
その子が道で強請る シャボンが欲しいと言う
汚れた体じゃ売れないから
明日も生きてはいけないから
果てなく歩いていく
銃声が午後の知らせをしてくれる
心も耳も慣れてしまった
生きることを持て余した僕等は
死んだふりをして遊んでいるこの夜が明けるまで
LALALALALA LALALALALA
LALALALALA LALALALALA...
幸せが何かも解らない僕等は
病んで病んで病んで狂っている
野良猫に餌を撒くふと両手を出した
老夫婦が僕にそのパンをくれと言う
ポケットの中の金を全て渡しても
何も変わらないみたいだ 手遅れのようだ
銃声のない国で君は撃たれる
心の風穴は治りにくい
生きることを持て余した僕等の痛みはどれも陰湿なもの
ほらまた命 落ちていく
LALALALALA LALALALALA
LALALALALA LALALALALA...
幸せが何かも解らない僕等は
病んで病んで病んで狂っている
Sing a song for the world
Sing a song for my life
Sing a song for the world
Sing a song for my life
色々と知る前にこの曲を聴いてキズを好きになり、この曲をきっかけにこのバンドは...と調べ始めたのがきっかけ。


嫌な思いどころか良い気持ちになったことしかない
経営してコーチングして学会出ても、研究開発しても精神医学学んでも、ジャズドラム叩こうが写真展しようが、本当に誰のことも何も幸せにできてないし描くこと何もできてない。
今の自分に人に優しくしてもらえ得る理由が何もない。
しかし周囲の人の優しさに救われ、沢山の優しさを与えられている。帰り道、プレイリストの黒い雨が流れてもはや辛かった。何もできていない。
仕事で苦楽を共にする仲間や、いつかまた愛せる人ができたらきっと広島に来たい。子どもに恵まれることがあれば、養子縁組でも、いつかつくる養護施設の人たちとでも。
本当に言ったこと描いたことは全部形にしてまた広島来ます。
きっと、必ず、恩返しをします。
