初めての保護猫 第1話(#シロクマ文芸部)
初めての経験というのは幾つになっても遭遇してしまうようで、齢75歳にして初めて捨て猫を保護することになってしまった。
スーパーで昼食の総菜を買った後、お惣菜が冷めないうちに帰りたくて、近道を選択したのが運の尽きだった。
田んぼのあぜ道で泥だらけになってうずくまっている猫が目に入った。
死んでいるのかと思ったら、お腹の辺りが呼吸の為に少し動いたので生きているとわかった。
どうしよう?
今まで猫や犬を飼ったことがない。セキセイインコを子どもたちが幼い頃飼ったことがあったが、世話は数年前に他界した妻がしていたから、生き物の扱いには慣れていない。それに今は買ったばかりのお惣菜を冷めないうちに食べたい。
「これ食べたら助けてやるから、それまでここで待ってなさい」
薄目を開けて私を見た猫に向かって、とんだ安請け合いをしてしまったと後悔したが、このまま見殺しにしてしまうと、あの世で待ってくれている妻に𠮟られそうでとてもできない。若干の葛藤があったが交換条件を設けることで自分に折り合いをつけることにした。
猫が居た場所から我が家までは数分で戻ってこれる。
昼食に30分かかったとしても、一時間も放置するわけではないから、猫だってそれくらいは我慢できるだろう。私にとっては精いっぱいの譲歩なのだ。
昼食を食べながら、まだあそこでうずくまる猫の姿が蘇る。
急いで昼食を平らげ、空の段ボールにバスタオルを入れて自転車で迎えに向かった。もういないかもしれないし、近所には保護活動をしている人もいいるから、もしかすると既に保護されているかもしれない。そうだったらいいなと希望を抱きながら田んぼのあぜ道に辿り着いた。
いた!
まだうずくまってピクリともしない。あれ? もう事切れてしまったのか?
恐る恐る猫の背中を触ってみると冷たいが、若干呼吸をする動きがある。
急いでバスタオルに包み段ボールに入れた。
このまま家に連れて帰るより、獣医に診せた方が良さそうだ。5kmほど離れたところに動物病院があったはずだ。自転車の荷台に段ボールを括り付け、なるべく振動しないように注意してペダルを漕ぐ。
動物病院では午前の診療が終わったところらしく『CLOSE』の札がぶら下がっていた。
待合室を覗いてみると、まだ人の姿があった。ことは急を要するのだ。
段ボールの中の猫はすぐに治療をしないと死んでしまうかもしれないし、正直なところ、元来た道を戻ってまた来るのが面倒だった。
閉まった扉をドンドン叩きながら「すみません、死にそうな猫がいるんだ。すぐに診てやってください」と叫ぶ。
気付いてくれた看護師がドアを開けてくれた。
ことのいきさつを説明すると看護士は獣医の指示を仰ぐ為、一旦病室に戻ったがすぐに中に入れてくれた。
段ボールの中の猫を診るなり、獣医が聴診器で心音を確かめる。
田んぼのあぜ道で見つけたことを告げると点滴を施しながら、
「詳しい状態は回復してから調べないとわからないですが、お腹が大きいし、触診だとおそらく妊娠していますよ、この猫をどうされますか?」
どうされますかと聞かれても、即答できない。
病院に連れてくるだけで肩の荷を下ろした気分でいたから、予想外の展開にあっけに取られてしまった。
「元気になりそうですか?」と、とりあえず聞いてみた。
「かなり衰弱しているので、とにかく栄養を与えて様子を見ることになります。飼われるのでしたらある程度回復するまで暫くの入院をお勧めします」
入院?
それもそうか、あの状態じゃ助からないかもしれない。せめて温かな病院で死ねるのなら本望かも知れない。どうするかは後で考えるとして、
「お願いします」と獣医に頭を下げ、支払いを済ませ帰宅した。
三日後、動物病院から猫を引き取りに来るよう連絡があった。
再び診察室に入ると、あの猫が綺麗な体で診察台の上で大人しく座っていた。
「頑張りましたよ、お腹の中の仔猫たちも無事です」
獣医の説明だと、退院するまでには回復したが、検査の結果猫エイズキャリヤだとわかったらしい。猫エイズについての説明と、今後の注意点を教えてもらったが、そんな病気の猫をどう世話したらいいのか、自信も覚悟もない。
「私に手に負えるでしょうか? 誰か他に世話してくれる保護施設とかないんでしょうか?」
そういうと獣医士の表情が強ばった。
「飼うおつもりがないのでしたら、お腹の子は堕胎させるしかありません。猫エイズ感染の可能性もあるし、病院で引き取ることもできません。いくつかの保護施設もありますが、どこも手いっぱいでおそらく引き取って貰える可能性は低いでしょう。親猫をSNSや里親募集サイトなどを利用して、ご自身で里親を捜してみてはいかがですか?」
淡々とした口調でアドバイスをされたが、声の調子や表情から失望感が滲み出ている。自分に対しての軽蔑の匂いも感じた。
ただ、それよりなにより仔猫の堕胎という判断が気に入らない。無責任に瀕死の状態の猫を安易に預けて厄介払いしたと思われても仕方がないが、お
腹の中の仔猫には罪はないはずだ。
先立った妻は最初の子を流産した時、大きな心の傷となって死ぬまで癒えることがなかった。慰める術も見つけられず、何もしてやれなかった。自分の中ではぬぐい切れないしこりとなって、今でも重くのしかかっている。
聞けば仔猫への猫エイズ感染の可能性はあるものの、必ず感染するとは限らないらしい。ならばこの世に生まれてくる権利はある。それにもしかすると飼い主がいて迷子になっているのかもしれないじゃないか。元々の飼い主や里親が見つかるまで預かるだけのことだ。
今まで猫なんて飼ったこともないが、人間とは違って動物なんだから自分の力で出産するだろう。
「うちで預かります。飼い主が決まるまで私が世話します」
そう告げると自分でも覚悟が決まった。
病院で猫の飼い方という冊子をもらい、身重の猫を連れて帰ることにした。
後は野となれ山となれだ。
見れば可愛い顔してるじゃないか。獣医の話しだと5匹の仔猫がお腹の中にいるらしい。
「ひもじい思いだけはさせないから安心しろ」
猫の頭を撫でると「ニャー」と鳴いた。
初めて鳴き声を聞いたが、生命力を感じる力のある響きだ。
病院でキャリーケースを借りて受付で支払いを済ませる時、
「診察券を作りました、猫ちゃんのお名前は決まっていますか?」と、名前を書くように促された。
名前か? 考えてなかったな。
「じゃあ、初めて飼うので『初子』としてください」
「初子ちゃん、良い名前ですね」
受付の女の子はにっこり笑って診察券と診察ノートを手渡してくれた。
病院のドアを開けると澄み切った風が吹いていた。
「初子、帰るぞ」
自転車にまたがりペダルを漕ぐ。
さあ、温かな家に帰ろう。
そしてゆっくり仔猫の名前でも考えるとするか。
父のような、昭和生まれの男性を想像して書きました。
昔は犬猫なんて家畜扱いで、今のように屋内で飼うことなんて珍しかったと思います。
この初子と生まれてくる仔猫の物語りは、今後シリーズにできれば良いなと思っています。
