見出し画像

「心の居場所」ってなんだろう

「心の居場所」とはなんだろうか?
いざ考えてみると難しい。

 正直、私の人生で「自分の居場所」というものが本当にあったかと言えばたぶん無かった側の人間である。本当はあるのかもしれないが、今振り返った瞬間に「これだ」とはっきり答えられるものがない。

 とりわけ10代の頃なんぞ「置かれた場所で生き延びなさい」と周囲から切り捨てられ、居場所だと思ってた場所が実はそうじゃなくて、その事実に絶望して捨てたり捨てられたりということの繰り返しで、自分がなぜ今生きていられるのか不思議でしょうがない。

 やがて大人になり社会に出て人間関係にも多少融通が効くようになりようやく安心できるかと思いきや、仕事や旅行で色々な物事を見る機会があるごとに、果たして今の日本に「居場所」を持ち得る人がどれだけいるのだろうかと感じるようになった。

 なぜこうした状況が生まれているのか、また少しでも良い方向に変えていくにはどうすれば良いのか。今回は乃井 万さんの呼びかけに応え、自分なりの見解を述べてみる。

 いつも通りまとまりのない長文で好き勝手言うので、どうか話半分で適当に読んでもらえればと思う。

ふとした瞬間に、精神的な居場所を失ってしまう人がいます。

 家や仕事や学校などの物理的な居場所があっても、それが本来の自分の居場所ではないと感じる人がいます。

 これからの自分の居場所を求めて苦しんでいる人がいます。

 そんな思いを抱える人たちが立ち寄って、一時的にでも心が安らげるような居場所。自分を取り戻すきっかけになるような居場所。明日へのかすかな光が見えてくるような居場所。

 そういう居場所を作りたい。

下記リンクより

企画概要はこちらから。



なぜ現代は「心の居場所」が求められるのか?

 ここ数年で聞くようになった言葉のひとつに「心理的安全性」というものがある。ざっくりとだが、組織・集団の中で自分の意見や気持ちを発するのを躊躇ったり、また発したことで周りから非難されたり、疎外感を与えられたりしないかという不安のない環境を作ろうというものだったか?

 本来、「居場所」というものは本人がふと自覚したり、わざわざ他人に注文しなくても勝手にそこにあるはずのものだった。家族なり何かしらの集団に所属する以上、必然的に得られるものだった。それと同時に「居場所」には自分を見てくれる誰かの他者の存在が必ずあった。

 オギャーと生まれてくれば「家とその家族」がいる。数年もすれば「ご近所さん」や「学校と先生・友人」という新たな居場所が増える。大人になれば「会社と同僚や先輩・取引先」や「趣味仲間」といったコミュニティが、いずれも本人が望む望まぬ関わらず居場所というものは生きていれば自然の成り行きで得られるのが普通だと考える人が多いだろう。

 ところがこの流れが実はすでに崩壊していて、仕組み的に機能しなくなっているのが原因ではないかと考える。ここ数年とかいう話ではなく、おそらくもっとずっと前から。

 親が子供の味方とは限らなくなった。
 地域の人との交流が希薄になった。
 教師が生徒の面倒を見きれなくなった。
 そもそも他人同士信用できなくなった。

 その結果、それまで気にも止めなかった「居場所」というものを探し求める人々の目の前に表在化した、というのが正しいのかもしれない。

なぜ「心の居場所」を作るのが難しいのか?

 単に物理的空間を提供するだけでは「居場所」を作ったことにはならないのであれば、一体何が「居場所」に必要なのか。

 そもそも社会という空間には人とセットで考える必要がある。良くも悪くも何らかの交流がある。その交流に不調をきたしている今、もはや「家」「学校」「職場」「地域」いずれもが、ただ物理的に場所だけを提供する空虚な箱庭でしかないのである。

 つまり、自分以外の何者かが、自分に対してその「あるがまま」を受け入れてくれているという「知覚の関係性」が必要なのではないか。当然ながら、これには「自分以外の存在」があって成立する。

 言い換えれば、自分にとって腑に落ちる「安心感」を感じられる環境があれば、たとえ青空の下でも宇宙の果てでも大抵の場所は構わないのである。「自分以外の存在」というのも別に人間である必要はない。例えば愛するペットでもいいし、お気に入りの観葉植物でもなんでもいいのである。単に「他人」がこれらの中で最も汎用的で融通が効きやすいというだけのことである。

 しかし、その最も汎用的なはずの「他人」が存在する「家」や「教室」という自分を受け入れてもらえるはずの空間が、昨今「心の居場所」として機能していないのはなぜか。ここに、居場所のもうひとつの構成要素が関係してくる。

 それは「役割」の存在である。
よくよく考えれてみれば、我々の祖先(縄文人)の頃から行ってきたことで、藁ぶき屋根の集団に所属するなら各自狩りや料理、建物の修理やらを分担協力してやってきたことようなものだ。

 家には家族としての役割があり、学校、職場では仕事や勉強に励むことが役割である。それによって私たちは互いに「居場所」を獲得できる。こう言われれば別にどうということはない話である。

 ところが問題なことに、現代という視点に立ち返ると、実にこの役割への要求値がヒト=ホモサピエンスという生物の許容値を明らかに越え出しているのではないかと思うのである。

 社会構造が複雑化しあっちこっちで仕組みやルールを当てはめまくった結果、たかだか100年弱生きるだけにしてはあまりに過剰と言える仕事=役割が増えすぎた。先ほどの縄文人に比べたら、現代人が居場所に求められる要求値は雲泥の差どころではない。

雨にも負けず
物価高騰にも負けず
周りにも自然環境にも迷惑をかけず
効率性を重視し、
欲はなく決して不満を漏らさず
いつも静かに笑っている
そういふものに、わたしは

なれるかクソッタレ!!!

「心の居場所」はどのようにして生まれるのか?

 結局のところ、心の居場所に必要な最低条件というのは、

  1. 帰属に対する役割の適切な要求値

  2. 自分以外の存在との交流

 ということになる。

 心の居場所がない人にとって、これを得るには当人が「それがちゃんと存在するものだ」という知覚が必要である。
「嗚呼……これが私の居場所なんだ」と、腑に落ちるきっかけ作りが大切だ。言い換えれば「自分はここにいても良いのだ」という納得感が重要なのだろう。そのためには「自分には心の居場所がない」と感じている人にとってその居場所の要求値を適切に調整してやることが一番大切なことである。

またここでいう役割は、「居場所の外部」に向けてあげなくてはならない。

 例えば、学校での勉強は「将来の社会」という外部へ。仕事は「お客様、取引先」という社外への役割である。こうしてみると「家族」というのはその役割の延長線上にある存在なのだろう。真っ当な居場所があるというのは所属先以外へなにがしか貢献を果たしている証なのだ。

 これが身内に向けられた場合どうなるか(例えば金銭とか)。それはただのサービス業かやましい集団の類である

 また、居場所がないと感じる人にとって、その所属先での役割の要求値が大きすぎないかも考えてみてほしい。必要以上に仕事が生活を圧迫していないか、学校の勉強スピードは自分に合っているか(できれば受験する前に検討すべきことだが)、家族としての負担を無意識に押し付けていないか?

 助け合いを無理に引き合いに出す必要はないが、どう見ても「いっぱいいっぱいです」という人に対して冷たい仕打ちをするような環境では帰属意識もあったものではない。

これからの「心の居場所」の作り方

 ここまで散々好き勝手言ってきた(この後もまだ言う)が、「じゃあ、心の居場所を作る側はどんなことを考えたら良いか」という問いに答えて終わりにしよう。

心の居場所はひとりでは手に入れられない

 私は「てめぇの居場所はてめぇの手で勝ち取れ」とは決して思わない。それは単に「自分で勝ち取った(つもりでいる)居場所は決してなくならない」という儚い幻想を抱く者たちの世迷言である。

 時代が移れば物事は必ず変化する諸行無常。それは居場所も同じで、どれだけ安定したように見える居場所でもいずれはなくなる。

 人間一人ができる努力というのもたかが知れている。周囲や環境の助力なしに居場所を確立できる人間なんかいないのだ。居場所を作ろうとする人と居場所を必要とする人が揃って始めて動き出す。そのことを全員が今一度自覚しなくてはならない。

 あなたは生まれた瞬間から働いてお金を稼いでミルクを飲んでいましたか? 他人にSOSを叫ぶのは迷惑でも何でもなく、当然の権利だと私は思う。居場所が欲しいならいっそ「居場所をくれ」と叫んでくれた方が、世間もまだ捨てたもんじゃないなぁと感じる。そんな声すら誰かにかき消される世の中なら、いっそない方がマシである。

まずは手数からでもいい

 居場所を作る上でもいくつか注意しなくてはならない。まず、こうした居場所づくりが議論されない理由として「成功ありき」で物事を考えているのが原因ではないかと思う。

 施設を作ったり法人を設立して「やった気」になってはいけないし、また実行したからと言って期待通りに事が運ぶことを前提とした予算や期限を計画してはいけない。動かしてみないと分からないケースは多々ある。

 我々人間は不完全な存在。一切衆生救うことができるのは神か仏か、少なくともヒト種以上の能力を有する生命体くらいだ。すべての「心の居場所」がない人たちを救おうとせず、目の前のことから始めてみることだろう。とにかく地道に道を切り開くことだ。

 別に新しく物理的スペースや団体を設立しなくても、今いる場所を変えていくことでも問題ない。仕事の負担を会社全体で見直したり、地域交流の活性化を考えることも立派な「居場所づくり」になる。

 まずはトラブルや失敗ありきで、かつ断続的でもいいから、アイデアを実行することである。ほぼ間違いなく何かしらの問題が発生するだろうが、それでいい。大事なのはこの時必ず「分析」をすることである。

 そして居場所作りで発生した問題や携わった人々の経験を蓄積し、「社会空間作りの叡智」として溜め込まなければおなじ失敗の繰り返しで、救える人も救えなくなってしまう。

 本当はとてもシンプルに考えればなんてことない話で、民間からアイデアと人員を出して、お偉いさんが予算に判を押し、役人がサポートできればちゃんと機能する居場所は生まれるはずなのだ。
これに対してやれ真の平等だの自助努力だの既得権益だの妙ちくりんな話を持ち出すから話が明後日の方向に行くんだろうな)

私にできること

 私という生き物は社会にとって取るに足らない存在だ。キャリアも地位も名誉もない無用途人間だし、俗世は嫌いだし、いつくたばっても別にだれも悲しまないだろう。

 そんな半分浮世離れする私に持てる技術と言えば、せいぜい浅い知識のプログラミングで適当に遊ぶかnoteでショートショートを書いてふとした物語を紡ぐことくらい。

 褒められた実績なぞ微塵もないがそんなんでよければプログラミングやパソコンの扱いを教えてくれと言われれば教えるし、知恵がほしけりゃ質問でもコメントでも書き込んでくれればいい。気まぐれに答えてやるつもりだ。

 私にできることはせいぜいそれくらいだ。

 最後までまとまりのない文章にお付き合いいただきありがとう。この先、一人でも多くの人が「心の居場所」を手に入れられることを切に願う。