査読への情熱と愛情と熱量と勇気
引き受けていた査読を終わらせたのが数日前。Decision Letter が Editor からきた。うーん、、、と色々考えてしまった。
査読の依頼は、よっぽどジャンルがおかしくない限りはなるべく引き受けるようにしている。このところは、5〜10本/年ぐらいの感じなので、リバイス原稿の査読も合わせれば、概ね常に1本の査読論文を抱えている状態が続く。なので出張の際は書き込みながら読めるように印刷した査読原稿と+関連論文(PDF)をごそっとフォルダにいれて持ち歩くのが習慣となっている。分野によって論文数も違うので査読数も異なるだろうが、おっさんになった同分野の研究者同士で話す印象では、みな同じくらいの査読を抱えている印象なので、多くも少なくもないぐらいだと思う。
まだ駆け出しの研究者だった頃、査読は編集者からメールでくるのではなくて、周りの教授から紙媒体で飛んでくるものだった。「ちょっと僕は時間がないので、この論文をみてくれない? 素直な感想を書いていいから」みたいな感じでばさっと机の上におかれるのだ。今じゃあり得ないけれども、昔はそういうのが案外あったのです。でも駆け出しの研究者だった私は、「まだ公表されていない論文が読める!」というわくわくした感情と、尊敬している教授の先生から信頼を得たような高揚感が混ざり合った状態で引き受けていたのを記憶している。どちらにせよ、ポジティブな感情だった。今と比較すれば時間も十分にあった。
紙媒体で論文を僕に渡してきた教授は皆さんとっくに引退してらっしゃるが、なかでも一人、とても面倒見の良い先生がいらっしゃった。私が書いた査読の文章を丁寧に直してくれて、査読に関する「お作法」的な指導をしてくれた。今思えば、昔はそうやって若手の研究者を育てていたのかもしれない(もしくは将来の編集委員を育てていたのかもしれない)。今では倫理的にアウトだろうが、当時の私にとっては査読は勉強や修行の類いだった。
駆け出しの研究者だったのが、自ら研究費を獲得して若手研究者と名乗れるように思え始めた頃、査読は年に2−3本程度を引き受けるようになっていた。まだ紙媒体での査読も希に来たが、概ねメールの添付ファイルで査読が届くようになっていた。若い頃に査読を引き受けていたなかで、自分にとって良かった思うことが二つある。一つは、査読をするために、強制的に関連論文をたくさん読まなければいけない点。査読の期限が限られているので、その期間にクリティカルな引用文献を含めて、関連する論文を次々と読まなければいけなかった。当時の自分は若かったし、自分の実験に一生懸命で視野も狭く、まだまだ論文の既読数が足りなかった。ちょうど論文がインターネットを経由して手に入りやすくなってきた頃で、時代的にも関連論文を漁りやすくなった時期だった。なので査読を引き受けると、短時間で大量の論文をインプットすることが出来て、とても勉強になった。査読を通じて視野も広がったように思う。
もう一つは、リバトルレターの文例が蓄積されていき、レフリーと著者のやりとりを学べたことだ。特に英語圏の方々の査読を引き受けると、リバトルレターに、こんな書き方があるのか!こういう返答の仕方もありか!こういう言い回しを使うのか!と、レフリーとの対話方法のノウハウがどんどん蓄積されていった。これは、とても勉強になったし、今でも私のデスクトップには「論文リバイス参考」なるフォルダが鎮座していて、集めたリバトルレターの文例が放り込まれている。実際、その類いの本(研究者のための英文例集)を何冊か購入して持っているが、実際に自分の分野の研究者が使った言い回しの方が便利で良く使用している。レフリーへの対応マニュアルが、自分の論文投稿の時だけでなく、査読をすることによっても蓄積されていった。これは有り難かった。
そしておっさん研究者となった今、査読は業務の一環として引き受けている。自分が論文を投稿する以上は査読もしなければならない、という義務感からである。今では査読依頼のメールが来て、Agreed をクリックしてオンラインから査読原稿をダウンロードするようになった。査読結果もワードで書いたものをオンラインでコピペして記入している。昔と比べて、ラボにいるよりデスクの時間が圧倒的に長いし、学内の業務に時間を割かなければならない昨今は関連論文を読む時間をたくさんは用意できない。しかし、おっさんなので今までに蓄積された分があるので、比較的に新しいのに絞って関連論文を読めば良く、査読の効率自体は上がっている。業務やら会議に追われて期限を1週間ばかり延びることはあれど、概ね期限内に返却している。業務として淡々とこなしているので、昔のようなワクワク感も、高揚感も殆どない。淡々とこなしている。
ただ、今回のDecision Letter をみて、ちょっと反省したのだ。おっさんになったせいだろう、私は査読に来た論文に対する「愛」が足りなかった。私は残念なおっさんだったと痛感したのだ。
実際のところ、論文はひどい有様だった。褒めるところを探す方が難しい論文だった。私は淡々と指摘するべきことを指摘して、だめ出しをした。殆ど褒めなかった。今読み返しても、冷静な査読ではあるが、査読結果の文章から受ける印象は「冷たい査読者」だっただろう。
それに対して、もう1名の査読者は、非常に真面目で、とても優秀で、恐らく若い方だったのだろう。今の現状のひどい有様の論文を、どうやったらちゃんとした論文になるかを、ものすごい熱量で書いていた。膨大な文章とともに。素晴らしい査読の一言だった。情熱のなせる業だ。愛のある査読だ。きっと査読結果を受け取った研究者は勇気づけられることだろう。諦めずに、また(どこかに)投稿するであろう。そういう encourage を存分に込めた熱量のある査読だった。
私がかつては持っていて、今は失ってしまったものだ。
伏して見習わなければならない。まだまだ勉強が足りない。愛が足りない。情熱が足りない。そう痛感した。気づかせてくれた、もう1名の Reviewer に感謝。
