電通ハラスメント事件が突きつける私たちの責任。『勉強しなくていい、頑張らなくていい、生きていてほしかった』
【超訳】過労死やハラスメントは、個人の弱さや偶然で片づけられるものではない。組織が積み重ねてきた負債を私たちがどう返済するかが鍵となる


正直、このnoteでも本書籍を取り上げるべきかずっと迷っていました。
広告大手・電通の新入社員だった高橋まつりさん(当時24)の過労自殺から9年が経ち、昨年末の命日に母・高橋幸美さんの手記が公表されました。超有名企業のエリートコースに入社しながら、わずか数か月で命を落とした悲劇は、当時の社会に大きな衝撃を与え、いまなお「働き方改革」や「ハラスメント対策」の象徴的事例として語られています。
私は元広告代理店の社員として、同じ業界の文化や長時間労働を身をもって体験した立場です。過去に自分が受け、あるいは他人に加えてしまったかもしれないパワハラや過度な働き方が脳裏をかすめるいま、あの事件をどのように受け止め直すべきか。今一度、担当された弁護士とお母様の書籍『過労死・ハラスメントのない社会を 電通高橋事件と現在』(川人博・高橋幸美)を題材に、あの事件が私たちに問いかけるものについて再度考えを深めてみたいと思います。
なぜ電通ハラスメント事件が社会を揺さぶったのか?
電通という日本最大の広告代理店で、東大卒の高橋まつりさんが入社数か月で過労自殺した、ただそれだけでも十分にショッキングですが、実際には以下のような事情が重なった人身事件なのです。
新入社員に求められた「超人基準」
まつりさんは東大卒のエリートコースを歩み、新入社員研修でもトップクラスの成果を出していました。にもかかわらず、入社数か月で100時間を超える残業や深夜業務に蝕まれ、心身が持たなくなってしまった。広告業界の華やかさの裏にある苛烈な働き方が、社会の理不尽として可視化されたのです。
SNSであぶり出された「本音」
まつりさんが残したSNS投稿には「死にたい」「体がもたない」といった生々しい悲痛が散見されました。これにより過重労働の実態が可視化され、個人の弱音が社会全体に届き、過労の実態を白日のもとに晒し、電通という牙城を崩したのです。

最大手企業ゆえのインパクト
電通は日本有数の広告代理店であり、その影響力やイメージは絶大です。「広告業界では徹夜も当たり前」と言われがちですが、まさにその常識がどれほど歪んだものかを大衆に突きつけたのが電通高橋事件でした。新入社員・高い学歴・若い女性という三拍子が重なって、一気に社会問題として浮上したのです。
「まつりさんの母」手記全文の重み
ここで、あえて手記全文を引用します。ここには、「娘が入社10年目を迎えていたかもしれない」という母の悔しさと、「過労死を繰り返さないために何が足りないのか、本気で考えてほしい」という力強い願いが込められています。いま、この想いを他人事とするかどうか。あなたの隣にいる大切な人の命を守るための、小さな声かけや気づきに繋がるかもしれません。
まつりがいない9回目のクリスマス。12月はいつも心がざわざわします。言葉で表すのは難しいですが、まつりを助けられなかったあの日が近づくからです。たとえ「電通過労死事件」が人の記憶から消えても、どんなにときが過ぎても、まつりは大切ないとしい娘。一生忘れることはありません。
2015年、まつりは希望を持って電通に入社しました。新入社員研修でアイデアが採用されてラジオで放送されたことや、研修の最後のプレゼンで優勝したことをうれしそうに電話してきたことが昨日のことのようです。
今年は「入社10年目」。同期入社のみんなは「入社10周年同期会」をしたそうです。在職中の人も退職した人も一緒でした。
もしまつりが生きていたら、参加していたかもしれません。
10年目の社員として、後輩社員のロールモデルになれるように頑張っていたかもしれません。やりがいをもって生き生きと働いて、休日には大好きな人たちと過ごして、充実した人生を生き、将来に夢を描いていたかもしれません。
「あんなに頑張って生きていたんだから、絶対に幸せになってほしかった」そう思うと悔しくてたまりません。
まつりが亡くなった後、電通が過労死の再発防止を約束して8年になります。これまでさまざまな取り組みを行って、2年で残業時間を6割削減したそうです。娘がやっていたデジタル広告の「とてつもなく時間がかかる作業」はAIがやるようになったそうです。制度を整えて、グループ各社で女性活躍推進企業「えるぼし認定」などを取得したそうです。娘がいたころも制度はありましたが、長時間労働や残業隠し、ハラスメントに苦しんでいる社員がたくさんいました。娘の他にも社員の過労死がありました。電通があのころの社風を変えようという姿勢はわかります。全体的には残業時間を減らすことはできているのかもしれません。今最も大切なのは、プロジェクトのために睡眠時間を削って残業をしたり、休日出勤をしている社員に対して、会社は何をするべきなのか考えることではないでしょうか。残業時間が長い社員は知らないうちに病気になる危険が高いということを絶対に忘れないでほしい。電通が働く全ての人の人権を尊重した経営を行い、全ての社員が生き生きと誇りを持って働ける会社であることを願って、これからも見守っていきたいと思います。
そして今年は過労死防止法が施行されて10年になりました。娘が亡くなる前年の2014年11月1日、大切な家族を過労でなくした遺族の方々のたゆまぬ努力によって過労死防止法が施行されました。その後、働き方改革が叫ばれる中、残業時間の上限が定められ、労働環境の改善が進んだかのように言われますが、今でも仕事が原因で病気になる人や、過労死する人がいます。特に精神疾患の労災請求は毎年増えて、娘が亡くなった年の2倍以上になっています。国は過労死対策に何がたりないのか。どうしたら過労死がなくせるのか。私たち遺族の意見を本気で聞いて、対策を見直してほしいです。
経済成長のため、企業の利益のために人の命が犠牲になることがないように、働く人の健康を第一に考えた企業経営、国の政策を実行してほしいと思います。
先月の11月28日はまつりの誕生日でした。
生きていたら「33歳」。どんな人生があったでしょう。「死んだ子の年を数える」といいますが、どんなに悔やんでも、どうすることもできないと頭ではわかっているのに、「あのときああすればよかった。こうすればよかった」と、まつりのことばかり考えてしまいます。自分のいのちより大切な娘でした。私の願いは「まつりの幸せな人生」でした。まつりがこの世に生を受け、共に生きた24年のいとしい時間を絶対に忘れない。まつりと同じように苦しんで亡くなる若者がいなくなるように。働く人のいのち。若者のいのち。未来の子どもたちを守りたい。それが今の私の願いです。
まつりのいない9年もまつりとともに歩んだ9年でした。誰もが安心して働き、誰もが希望を持って人生をおくれる国になるように願い、まつりとともに力を尽くして参りたいと思います。
「らしさ」がパワハラを生む
私自身、代理店にいた頃は「徹夜は武勇伝」「納期のためなら上等」とする価値観に疑問を持ちませんでしたし、それは「らしさ」という文化でカタッれていました。
成果のためには徹夜上等
納期最優先、クライアント優先が美徳
自分も若手時代そうだったという武勇伝の蔓延
ひとつエピソードを挙げるなら、私が博報堂を中途採用を受ける際、OBに相談したところ「お前ごときが入れるわけない」と初対面で詰めに詰められました。その後、内定して配属されると、なんとそのOBが私の直属上司に。やはり相当に厳しいお方でしたが、その厳しさとパワハラが紙一重で、多くの部下が病み、辞めていく光景を目の当たりにしました。当時は「これがこの業界では普通」という感覚が根づいており、それを疑問視する文化は薄かったのです。
私たちが問われているのは「罪」ではなく「責任」
哲学者カール・ヤスパースは「我々は祖先の罪に対して責任を負っているのではない。しかし、祖先がもたらした負債に向き合う責任はある」と説きました。過去過去の事件を罪として個人に問うのではなく、その事件がもたらす負債(たとえば企業文化の歪みや慣行)を現在の私たちが引き受け、返済していく責任があるがあるということです。
電通は過去にも社員の過労自殺があったと報じられています。それでも再発防止が徹底されずにまつりさんの事件が起こった。まさに企業全体が抱える負債を返済してこなかったことで、また同じ悲劇を招いたのだといえるのです。私も広告代理店の一端にいた者として、その負債への責任を今でも感じています。
長時間労働と隠蔽の構造
過労死として一番わかりやすいのは長時間労働ですが、それを可能にする構造が何重にも敷かれていたことが問題です。具体的には三六協定(残業上限時間の協定)を超えそうな場合でも、実際の退館時刻と乖離させた記録を作る。局会や部会などの業務外接待準備も含め、徹夜も辞さない。「若手がやるのが当たり前」という意識が蔓延していました。その結果、体力的にも精神的にも余裕のないまま、誰もまつりさんを助けられなかった。
「辞めたい」「助けて」と言えば評価が下がる。広告業界では同僚や上司も超忙しいため、余計なことを言わないようにする空気がある。結果として、被害者が自分でSOSを発しても周囲は十分に受け止められない。まつりさんのSNS投稿はその苦しさを示す直接的証拠になりましたが、会社としてフォローし切れずに悲劇に至ったといえます。
再発防止への具体策
川人弁護士の視点や業界構造、私自身の経験から共通して指摘したい点は以下です。
1.「過労死」の実態を風化させない
悲劇を忘れず、具体的に学び続ける仕組みが必要。あの事件は「社員が自ら弱音を上げても会社に吸収されない」構造をあぶり出した事例です。誰かの嘆きを他人事にせず、自分事として共有していく文化こそが予防策です。
2.労務管理の徹底とハラスメントリテラシーの徹底
三六協定を形骸化させず、勤怠管理を厳密にするのは最低限。ハラスメントやメンタルヘルスの正しい知識を学ぶ場を、管理職だけでなく社員全員に作る。「これって行き過ぎじゃない?」と気づける声こそ命を救う入り口になります。
3.「天使十則」に代表される新たな価値観へ
鬼十則のような「とにかくやりきれ」という旧来のマインドを根こそぎ更新する。自分の人生の生殺与奪を握られるな、コントロールすることを恐れてはいけません。本書で紹介されているような「天使十則」を新しいスタンダードとして標榜すべきです。
天使十則
1. 仕事は自ら創るべきで、休暇も自ら作るべきである。
2. 休暇とは、働き掛けていくもので、 受け身でとるものでもある。
3.大きな仕事と取り組め、大きな人数でおのれを支え合え。
4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを協力して成し遂げるところに進歩がある。
5. 取り組んだら見失うな、1度放してもいいから見失うな、目的完遂までの道は1つではない。
6. 周囲に声をかけろ、声をかけるのと声をかけられるのとが、仕事の向上のカギである。
7. 目標を持て、長期の目標を持っていれば、過程を柔軟に変えられ、そして正しい努力と希望が生まれる。
8. 自信をもて、君の仕事には、迫力も粘りも、 そして厚味のすべてがそろっている。
9. 頭は常に全回転、八方に気を配り、一部の隙のつくりどころを見極めねばならぬ。 サービスを伸ばすのはこの一部の隙である。
10. 辞職を怖れるな、 辞職は進歩の母、積極の肥料だ、転職は君の人生を豊かにする。
4.外部ホットラインなど相談ルートの複線化
社内に頼れない空気があるなら、外部に頼れるルートを作る。第三者委員会やホットラインを設け、被害者自身が相談しやすい複線化を進めること。隣の同僚に「大丈夫?」その一言が大きな救いになるかもしれません。
5.「脱ハラスメント」を公にアピール
経営トップ自ら、社内文化の刷新をコミットする。社外に向けて宣言することで退路を断ち、社員の安心を確保。声をかけよう、あなたの隣にいる人へ。
「過労死」を二度と起こさない社会へ
ヤスパースが言うように、私たちは過去の罪を個人で負うわけではありません。しかし、その負債を放置すれば、また同じ悲劇を生むでしょう。まつりさんの事件は、超大手企業と高学歴な新人を舞台に、社会の闇をはっきりと突きつけました。これは広告業界の特殊例にとどまらず、さまざまな業種が抱える課題にも重なります。
どんなに素晴らしいクリエイティブも、人の命をすり減らしてまで得た成果が正義と呼べるのでしょうか。
資本主義に飲み込まれるな
過労死は広告業界だけの特殊例ではなく、高いノルマや深夜勤務が常態化しているITや外食、医療現場、介護施設など、多くの職場に潜む問題でもあります。日々の糧を得るために我慢を強いられ、その苦痛の声がかき消されている人たちが数え切れないほどいるのです。
資本主義という大きなゲームのなかでは、結果を出した者が莫大なリターンを得られる一方で、運やタイミングによっては「ゲームオーバー寸前」からでも大きく巻き返せる可能性があります。たとえば、不動産業界のような特異なビジネス領域は、一発逆転のチャンスを秘めている代表例です。
こうした成功の可能性を目の当たりにすると、「ジョン・スチュアート・ミルのように質の高い快楽を追求する哲学なんて意味があるのだろうか。いっそ不満足なソクラテスよりも満足した豚のほうがシンプルに幸せかもしれない」と、思わず偉人の思想を批判したくなる現実も存在します。
「満足したソクラテス」でありたい
しかし、私が最終的に選びたいのは、「満足した豚」でも「不満足なソクラテス」でもなく、「満足したソクラテス」です。なぜなら、資本主義社会で得られる華々しい成功は、しばしば奢りや勘違いを生み出し、公共善や美意識を追究していこうとする姿勢からは遠ざかりがちになると感じるからです。
過去の苦しみなどもう忘れて「今の自分の成功と快楽こそがすべて」となってしまう様相には、どこか空虚で寂しい響きがあります。自分の受けた恩を社会に還元し、貢献することで、自分自身の生きる喜びを得られる生き方を模索する。そんな大きな視点から使命感を持って生きる働き方とあり方を目指したいのです。
『勉強しなくていい、頑張らなくていい、生きていてほしかった』
まつりさんの母が『勉強しなくていい、頑張らなくていい、生きていてほしかった』と語る悲痛な叫びを、私たちはどう受け止めるのか。「また同じ事件が起きるかもしれない」ではなく、「もう繰り返さない」ための行動へ。罪を断罪するのではなく、負債を返済する。そこに私たちの責任と希望があるはずです。
「恐怖と沈黙を終わらせる」という未来観
私はかつて、「恐怖と沈黙を終わらせる——雇用クリーンプランナーが描く社会変革の哲学」というnoteを執筆しました。そこで主張したのは、「パワハラや過労死が個人の問題に矮小化されがちだが、実際には社会全体の構造が作り出す深刻な歪みだ」ということ。電通過労死事件はまさしく、その最たる象徴です。
ハラスメントを防ぐには、被害者や周囲が正しい知識を身につけ、外部専門家とも連携できる環境を整えることが不可欠です。会社の内部で声がかき消されるなら、社外ルートを通じてでも救いの手を差し伸べられるようにする。そういった具体的施策が「恐怖と沈黙を終わらせる」一歩となります。
さらにそれを維持していくには、企業や社会が鬼十則ではなく天使十則的な考え方へ転換する、それくらい大きな文化改革が必要です。
あなたの隣でSOSを出そうとしている人がいるかもしれない
雇用クリーンプランナーはその一端を担うことができ、いつかその役割を終える日が来ることを願っています。一般社団法人の活動は「ハラスメントをゼロにする」という壮大すぎる目標です。会社が抱える負債を返済するには勇気が要ります。「毎日終電は当たり前」とか「若手は徹夜三昧が当然」という空気を変えるのは容易ではありません。
しかし、組織に従属するだけの社会観を乗り越えて、「恐怖と沈黙」を超えた未来をつくることこそ、私たちの責任であり「命が削られる職場を過去のものにする」ここはまつりさんの事件が突きつけたまだ残された課題なのです。
まつりさんの母は「娘を失っても、ずっと一緒に歩んでいる」と語ります。私たちもその想いを受け止め、「勉強しなくていい、頑張らなくていい、生きていてほしい」という願いを、いままさに隣にいる誰かに伝えられる世の中を作りましょう。
《追記》2025年12月過労死報道から10年目の幸美さんの会見です。
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