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私がnote「共同マガジンに加入しない」たったひとつの理由

固定記事としている「私がnote『フォロー0』を貫くたったひとつの理由」では、多くの反響をいただいた。数字や形式に抗いながら、自分なりのつながり方を問い直す姿勢に、共感や異論が寄せられたのはありがたい経験だった。今回は、その延長線上にある「共同マガジン」に対する私の立場を記してみたい。

かつて私は参加していた

noteには「共同マガジン」という仕組みがある。複数の書き手が同じマガジンに記事を投稿し合うことで、更新通知が参加者全員に届き、スキやビューが伸びやすくなる。いわば「ゆるやかな共同体の箱」に入り、相互に記事を読んで盛り上げる制度。数字は確かに伸びやすく、書き手にとっては魅力的に映ります。

私は過去に一瞬だけ、興味半分で共同マガジンに参加していたことがある。
記事を投稿すると通知が鳴り、仲間のように集まった参加者から次々と「スキ」がつく。ビューも伸びる。数字が跳ねる感覚は、確かに心地よかった。

しかし、冷静になればそれは「内輪での循環」にすぎなかった。外から新しい読者が入ってきたのではなく、同じ箱に入った人たちが互いに反応し合っていたのだ。数字は積み上がるが、それは外に出ればほとんど通用しない。私はその正体を「錯覚資産」と名付けたい。

資産のように見えるが、換金できない。影響力のように見えるが、外部では認められない。その虚構性こそが、共同マガジンという仕組みの本質ではないか。

今回3人の哲学者に登場してもらい、共同マガジンの幻想を紐解いてみたい。

ボードリヤール──数字の虚構としての「錯覚資産」

フランスの思想家ジャン・ボードリヤールは「シミュラークル」という概念を提示した。実態を持たない記号が、あたかも現実のように振る舞うこと。共同マガジンで積み上がるスキやビューは、まさにこれだ。

読者との関係を表しているように見えるが、実際には「数字が数字を呼んでいる」だけである。そこに実体はない。人気があるように「見える」ことが価値となる社会で、私たちは容易にこの錯覚に絡め取られる。

「伸びた」という感覚は、中身を伴わない数字の交換に過ぎない。まさにシミュラークルの世界。だから私は加入しない。自分の言葉を、虚構の数字に還元させたくないからだ。

ショーペンハウアー──欲望の盲目

ではなぜ人は共同マガジンに惹かれるのか。それは人間が「欲望の意志」に突き動かされる存在だからだ。ショーペンハウアーが指摘したように、人間の根底には盲目的な意志があり、それが承認を求め、名声を欲し、満たされないまま動き続ける。

共同マガジンは、この欲望を巧みに刺激する装置である。「スキが増える」「ビューが伸びる」という報酬が、私たちをさらに投稿へと駆り立てる。しかしその先にあるのは、「言葉のための言葉」ではなく「数字のための言葉」だ。

承認を得たいがために、本来書きたいテーマを曲げてでも「ウケる文章」を量産する。その姿は、まさに意志に支配された盲目の存在である。私はその誘惑を知っているからこそ、距離を取る。

キルケゴール──大衆の中に埋没する危険

もうひとつ、共同マガジンには「大衆化」の問題がある。デンマークの思想家キルケゴールは「大衆」を批判した。大衆は匿名的で、責任を伴わない。人はその中で主体を失い、流されるように振る舞う。

共同マガジンで通知が鳴ると、私たちは「とりあえずスキを押す」「なんとなく読む」という行為に流される。そこには主体的な選択はほとんどなく、「同じ場にいるから読む」という同調圧力があるだけだ。

だが、本当に価値ある文章は、孤独な選択からしか生まれない。大衆に溶けることではなく、主体的に孤立すること。それがキルケゴールの言う「主体的真理」に通じる。私はこの孤独を選ぶために、共同マガジンから離れる。

加入しないことは批評の実践である

こうして見ると、共同マガジンは三重の構造を持っている。

  • ボードリヤール的には「シミュラークル」=錯覚資産。

  • ショーペンハウアー的には「欲望の意志」を煽る装置。

  • キルケゴール的には「大衆の中に埋没させる構造」。

だから私は加入しない。それは単なる反抗ではなく、批評的距離を守るための選択だ。

もちろん、加入すれば数字は伸びるだろう。しかしそれは虚構にすぎない。むしろ加入しないことで、私は自分の言葉を「錯覚資産」に還元させずに済む。孤独に言葉を立ち上げ、読者に届ける。その道を選ぶことが、私にとっての哲学的実践なのだ。

noteに問いたい

共同マガジンは、人間の欲望と虚構を映し出す鏡である。そこに身を投じるか、距離を取るか。正解はない。ただ、私は「加入しない」を選んだ。

さて、あなたにとって本当に必要なのは、錯覚資産か。それとも孤独を引き受けながらも、自分の言葉を信じ抜く自由か。

共同マガジンの批判は、noteの立場からすれば本意ではないかもしれない。だが、それを書けるのがnoteという場である。noteは「届ける」という営みを日本で最もリアルに引き受けてきた媒体だ。

本音と建前が共存するのは当然であり、だからこそ課題や批判をも正面から載せられる強さが求められる。「イチオシ記事」にも、批判や問題提起の記事も掲げられるような懐の深さがあれば、noteが「器の大きい場」であることの証明になるとといえるのではないだろうか。

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