制作がアートになる瞬間。
美術家・藤山識さんが主催するアート分科会の勉強会に参加した。
テーマは球体関節人形。
遅くなりましたがお知らせです📢
— 藤山 識 (@dollemeth) December 6, 2025
藤山識作品展「Soup」@クオラギャラリー、はじまりました!12/26(金)15:00までになります。お近くにお越しの際は是非ご覧いただければ幸いです。
会期中盤以降を目処に自身初のビスクドールの追加展示も予定しています。よろしくお願いいたします。 pic.twitter.com/RPHW1ynsc3
球体関節人形という、動かせる身体
球体関節人形とは、人の形を持ち、関節が球体構造になっていて、前後左右だけでなく全方向に動く人形のことだ。本気を出せば人間に近い自由にポーズを取れる。
技術の話ももちろん面白かった。球体と受け、内部のゴムテンション。スリットの入れ方ひとつで、動くか動かないかが決まる。つまり、どの方向に動かしたいかという意思が、構造そのものに大きく関連している。
構造よりも刺さった話
でも、構造以上にいちばん刺さったところがある。制作の途中で、「モノ(人形)が人に変わる瞬間がある」というのだ。ある瞬間、ただの素材だったはずのものが、急に「いる」と感じられるようになる。作り手の中で、存在が立ち上がる。
藤山さんは哲学者バークリーの「存在するとは知覚されることである」という言葉で、だれかに見られ、感じ取られ、その人の中で意味を持ったときに、存在は存在として立ち上がるのだと説明してくれた。
「売れる」ではなく「お迎えされる」
だから人形界隈では、作品は「売れる」のではなく「お迎えされる」と言う。これも、私にとっては驚きのひとつだった。「所有」ではなく、「関係」の始まり。実際、勉強会の会話の中でも「お迎え」という言葉がごく自然に出てくる。
ぬいぐるみを連れて出かける「ぬ活」も、たぶん同じ構造である。人でなくてもいい。クマでもいい。一緒に時間を過ごした瞬間、それはもう、ただのモノではなくなる。
動かせるのに、動かさないという矛盾
ここから先が、今回の勉強会の「議論として熱かった場所」だ。
動くものが動かない。
球体関節人形は動かせるのに、展示では動かない。
そこで参加者から、率直な疑問が出た。せっかく動くのに、動かないのはもったいない。「え、動くんだ」ということが、もっと見えたほうがいいのではないか、と。
正直に言えば、素人の私も同じことを感じていた。
なぜなら、動かないことが人形界隈特有の美学をつくっているように見える一方で、初見の人にとっては「え、動くんだ」が一番の入口になるからだ。動ける身体を持っているのに、その豊かさが伝わらない。
ストップモーションというアイデアと違和感
そこで出たアイデアが、毎日少しずつポーズを変え、定点で記録し、最終的にストップモーションのようなアニメーションにしたらどうか、という提案が出た。
実際に調べてみると、球体関節人形を用いたストップモーション作品はすでに存在している。だから発想としてはむしろ全然「ある」。
その場では「それだ」と思った。けれど、いくつか動画を見てみると、少し引っかかった。動いた瞬間に、作品が持っていた静謐さや神秘性が、少し失われる気がしたのだ。動かすことは、魅力の増幅にもなるし、逆に減衰にもなる。人間というのは、非常にわがままで複雑な感情を持つ生き物である。
だから折衷案が面白いのではないかと思った。微細なアニメーションにしなくてもいい。毎日ほんの少しだけポーズを変える。その変化が、どこに向かって、何を目指している動きなのかを、短い物語として観客に渡す。静止とアニメーション、この中間の設計に、人形の可能性を見出せた気がする。
展示作品の「背景」を知ってから観るおもしろさ
藤山さんの展示のコンセプトは本人のブログで公開されている。
展示全体のテーマは「いのち」。個としての役割を終えた存在が、全体としての存在に還っていく。その全体を「Soup」、個々の存在を「Drop」と呼ぶ。
私自身、美術の技術的な巧拙を見ただけで即座に共感できるほど、鑑賞眼が鋭いわけではない。かといって、説明なしで作品のすべてを感じ取れるわけではない。
けれど、背景や思想を知ることで、作品は一気に立体的になるという感覚はある。だからこ、この卵をモチーフとした「前夜」という作品のテーマは感銘した。
卵を人に手渡し、温めてもらう。卵は、だれかに視認され、意識されなければ生まれない。作品そのものではなく、「あの卵は明日孵るのだろうか」と人々の頭の中に立ち上がる時間そのものが作品になる。
ちょっとだけ、はみ出す
私は、こうした情報や背景と一緒に鑑賞するスタイルのほうが、どうやら性に合っているらしい。見ただけでわかることより、知ったあとに見え方が変わることのほうが、ずっと面白い。
ここで思い出したのが、『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』の話だ。論文の価値とは、先行研究をなぞることでも、すべてを壊すことでもない。人間が積み上げてきた叡智を、ほんの少しだけ更新することにある。
アートの新しい文脈も、きっと同じだ。既存の美学を壊さず、でも既存のままでも終わらせない。その「ちょっとだけはみ出る」場所に、次の入口が生まれる。
存在は、どこで立ち上がるのか
ふつうに生きていたら、まず知り得ない世界を、こんなにも身近な視点から学べたこと。それが、今回の勉強会のいちばんの収穫だった。
存在とは、作品の側にあるのか。
それとも、見る側の中に立ち上がるのか。
人形が、その境界を、人間に問いとして突きつけてくる。
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