私の考える「日本的なるもの」媒介装置としてのゆらぎ(1)花見/雪月花
本記事は私が約15年前の学生時代、建築史のレポート課題で書いたものに加筆修正を行ったものです。青臭さと加齢臭が同居していますがご容赦ください。
雪月花
日本の美しい自然を表す言葉として「雪月花」がある。
そして、この雪月花に対して日本人が共通して行う行動に「見る」がある。つまり、「雪見」「月見」「花見」だ。
本記事では、この3つの行為を題材に日本人の建築美意識と自然との関わりについて、四季に倣って「花見」「月見」「雪見」の順に論じようと思う。
花(桜)
桜色
日本を代表する花として桜が挙げられる。今回は桜花見に絞って論述したい。
桜は遠くから木として見るとピンク色、花弁を一枚手に取ると白色に見える。その薄く曖昧さにあふれた色味は木・枝・花弁というスケール=花見をする人と見られる側の桜との距離感に応じて多面的な美しさを私たちに見せる。
桜吹雪(2つの時間感覚)
そして、その変化をダイナミックな形で起こしてくれるのが桜吹雪である。
まず、満開に咲き誇る花よりも花弁の散る様に寂びの美を感じるという点で既に日本的であるが、桜吹雪はさらに桜を雪に見立てた表現を取っている。「見立て」は日本建築・日本美術に特有の「見えないものを見る」を体現した表現方法である。
また、3月に新芽が咲くと春の訪れを感じ、花弁が落ちた葉桜からは初夏の到来を感じることができる。桜には、風雨で儚く散ってしまう刹那的時間間隔と四季の移ろいを表す時間間隔の二つが併存しており、これは寂びと四季という日本ならではの感覚であると言える。
花見(記憶装置)
桜花見は規模の大小や歴史によって3種類に分けられる。大規模でソメイヨシノが何百本と並ぶ桜百選を眺めながら行う花見、京都の名園に咲く歴史と風格ある一本桜に集まる花見、地元や隣近所の公園で行う小規模な花見の三種類である。
私は、桜とは記憶装置だと考えている。
桜は、私たちの寿命を超えてその街の生きてきた歴史を保存する。伐採しない限り私たちが寿命を迎えるまでその土地に堂々と立っている。
そして、桜が植えられる場所とは、個人邸を除いて、桜の成長を許容できる公共的シンボルとなる広場や道路である。(これが都道府県スケールなら桜百選、町内会スケールなら小学校や近隣公園である)
実家近くの就学前から遊んでいた公園はもちろん、小学校~大学まで社会人以外のすべての活動場に咲いている。そして、子供たちは桜が咲いていても花見などせず、座っている大人を尻目に野球や鬼ごっこ・木登りに夢中である。この様子は私が小学生だった30年前も今も変わらない。子供にとって「桜より遊び」というプライオリティは普遍的な感覚なのだろう。
だが、大人になって桜の時期に広場や小学校に行ってみると、この季節にどんな遊びをしていたか、その様子がAR合成のようにそして昨日の出来事のように見えてくる。
桜を意識したことなど入学式と卒業式で校門で写真を撮った時だけなのに不思議なものである。
だから私は「桜の名所」である千鳥ヶ淵や上野公園ではなく、実家から200mほどの広場で行う花見が好きだ。たとえ桜の木が1本しか生えていなくても、桜に記憶が保存された「ホームタウン」で行う花見こそ真の花見なのではないかと私は提唱したい。
あえて弁明しておくが、別に桜の名所百選が悪いわけではない。そこで生まれ育った人もいれば、そこで長く働いていてそこがホームの人もいる。私の後輩に青山の都営住宅で育った人がいたが、彼の記憶装置を尋ねると外苑のイチョウだという答えが返ってきた。
記憶が桜に保存されているか否か、桜が私の人生を見届けてきたか。これがポイントだと思う。
個人邸に桜の木を植え、子供の成長を桜の木の成長と重ね合わせ見届けるという価値観が普及した時期もあった。しかし、人間の寿命と敷地面積を超えて大きくなりすぎた木は周辺住民のために切らざるを得なくなる。
個人邸の桜は「ホーム」そして「記憶装置」としての性格が強すぎるので。庭師として立派に成長した桜の伐採を行う瞬間と、やむにやまれぬ決断に至ったご家族の顔を見るのはとても辛かった。
今回は話が逸れてしまうのでこの辺にしてまた機会があれば話したい。
月見、雪見については次回掲載予定です。
参院選が始まり、原神のアプデがあり、ウマ娘が4.5周年になりで執筆時間が無くなってしまいました。
結果「溜め込まないでコツコツ書きましょう」とnoteに怒られてしまったので半分づつ公開することにしました。今回は雪月花で3章明確なので連載にしやすいですが、他の記事だとどこで切るのが適切かわからなくて「連載できる人ってすごいな」と思っています。ではまた。
