リスペクトは「法律・ルール」にあらわれるのがドイツ。「雰囲気・行間」にあらわれるのが日本。
僕は初めて、なぜ海外帰りの人間があんなに鼻につくようになるのか、ようやくわかった気がする。
僕は常々妻と議論のようなことをすることがある。
でもいつも妻は僕の話を最後まで聞かず、「私は〜」といって僕が話し切る前に話されて、なんというかモヤモヤして終わることがほとんどだ。
そこで諦めて向こうに合わせるようにしていたが
今回、どうしてもこれでは今後喧嘩した時に全てを伝えられずに
自分が諦めてしまうかもしれないという危機感から
妻には悪かったが全てを伝えれるように努力した。
2時間くらいかかった。笑
それも少し違う形で着地したと思う。
そこで感じたこと。
今までは僕のドイツ語の語彙力が足らないからだと思っていた。
違う。
それよりもさらに奥の思考の方法に差があるのだとわかった。
それは、大きく表現して2つ。
1.本当の意味で「文字通り」に受け取ること
2.行間やストーリーを読まないこと
なんだろう。ドイツ人は小説や漫画などのようなストーリーを読むのだろうか?
冗談抜きでそう思ってしまった。
これは妻の特徴かもしれないが、そうとも思えないことがたくさんあって
クレームや要求を通すときに、本当にはっきり言わないと理解されない。
これはドイツ人だろうが日本人だろうが何人だろうが変わらない事実だ。
「俺はこれがしたい」を遠回しに表現したところで
彼らは煙に巻かれたような印象をかじるだろう。
さて、この二つの事柄であるが
文字通りに意味を受け取るというのは、本当にそのままの意味で
事実を事実として受け入れる。
これは、反対を言えばそれ以外の曖昧なところに関しては
解釈を自分のものだとして受け入れるということである。
例えば、自己紹介をするとする。
「私はガストさんです。30歳の男性です。ドイツに引っ越して4ヶ月が経ちました。今は頑張って就活中です。よろしくお願いします」
これを日本人である僕が聞くと
「うん、ガストさんって名前は日本人じゃないな。で30歳でドイツに引っ越してきてるのだから、多分年齢的に30歳という節目で奥さんかパートナーか知らないけど結婚してドイツに越してきたのか。でも男で結婚して今までのステータス捨てる人は珍しいな〜。ゲイなら確かにドイツでなら結婚できるしパートナーがドイツ人なら理解しやすいかな。就活中っていってるけどそりゃあドイツで就活するのなんか日本でも大変なのに色々挑戦してるのかな〜」
くらいは思います。
これがドイツ人になると
「うん、名前はガストさん。30歳。ドイツに来たのは4ヶ月前。就活をしてる」
こんな感じです。ファクトだけ抜き出して理解している感じです。
考え方が、まじのビジネスライクな感じがします。
そして彼らにはそういう想像力が比較的乏しく
その代わりに圧倒的な事実を理解する分析力と
それに対して答えを出すという決断力に富んでいます。
昨日、僕は妻となんで今ナショナリズムと孤立主義が目立ってきているのか
話していたのですが
僕の話し方は情緒的です。
結論を先に出さず、例を出しながら最後の答えに導こうとするのが
僕の話し方です。
考え方がまずどういうストーリであるか小説と似た感じで
一つ一つ追っていきながら説明します。
すると、妻にとってはいつ自分の話が終わるか分からず
かつそれぞれのファクトを整理した上で
最後の結論に辿り着かないといけないため
非常に理解に苦しんでいたようです。
僕はといえば、少し説明をするとすぐに「私はこう思う」的な
お気持ち表現が多く、かつ例えなのに「それは違う、これは歴史的に⚫︎⚫︎」
という回答が来るので、なんというかイラっときます。笑
別に例えなんだから、重要なのはその後の話なのに。という感じ。
話において別のレイヤーで生きてる感じがするんです。
実際に話した内容はこんな内容です。
「ナショナリズム・孤立主義がはやるのは、インターネット・グローバリズムによって自分たちが常に何者であるかを問われ続けており、また常に多様なチャンネルから自分の立場を選ばなければならないから」
という答えに対して
僕は以下のような説明をした。
例えば、僕たちは昔国から一方的に情報を渡されていて、それを理解するだけで良かった。
今はインターネットの普及によって、それが多様化してしまっていて、一つの事柄を調べようとしてもあらゆるチャンネル、あらゆる人たちの意見をたくさん見ることができてしまう。
あらゆる情報というのはカオスで、自分が自分を認識するためには自分が今どこにいるかを示す必要がある。
そうなると自分のアイデンティティについて思考することになり、その中で一番群体として結びつきやすいのは自分が使っている言葉であり、さらに言葉と国の歴史が同一視されやすい国民国家という概念が自己表現をするのに最もわかりやすいのではないか?だからナショナリズムや孤立主義では国民国家的な立場を表明することで、自己の確立を容易にしているのではないか?
という内容だった。(理想)
妻は一番最後まで僕の話を聞くことはなかった。実際はこうである。
例えば、僕たちは昔国から一方的に情報を渡されていて、それを理解するだけで良かった。
(妻)そんなことはない。テレビもラジオもあるし、人から人へも情報は伝達さ
れる
⇨一旦会話中断
今はインターネットの普及によって、それが多様化してしまっていて、一つの事柄を調べようとしてもあらゆるチャンネル、あらゆる人たちの意見をたくさん見ることができてしまう。
(妻)違う。自分たちは言葉があるから調べられる情報はある程度限られてる。
全ては無理だし調べる時間もない
⇨一旦会話中断。僕混乱
あらゆる情報というのはカオスで、自分が自分を認識するためには自分が今どこにいるかを示す必要がある。
(妻)今話している内容と結びつかないし何が言いたいか分からない
⇨発狂
みたいな感じ。
ここで僕が言いたいのは、僕の抽象度の高い会話には、定義がなされておらず、その定義を相手に預けるという日本式の考え方で話を進めていたため
ファクトがどこにあるか、僕の妻は探っていたことだ。
例えば、「僕たちは昔」という話に対して
「昔」とはどこを指すのだろうか?
中世かもしれないし、古代かもしれないし、はたまた10年前くらいの話なのかもしれない。
「あらゆる人たち」とは
どの人たちを指すのだろうか?
自分たちを主語にすれば、僕たちの会話はドイツ語なので
ドイツ語でしか基本情報を収集しない。
「カオス」とは
なんだ?
何を持ってカオスだとする?どういう状態がカオスで
それが今回の国民国家とどうつながる?イコールの概念ではなくないか?
例えともいっていないから、これはファクトと繋がるはず。
これが妻の思考だと思う。
結局、この記事を読んでいただく方も同様のことを思うはずだ。
でも日本人の会話においては、こうではない。
文字においてはファクトが重要視されていても、会話においてはどちらかというとストーリー性が重要ではないか。
議論において、相手の考えや思考を辿るのに、情緒的な表現を挟むことで、その人がどんな性格であるかを読み取ろうとするのが日本人の感覚だと思う。
それが、ドイツだと会話も文章も変わらずファクト目線。
今回の定義をきちんと明確にした上で、それぞれの会話に具体性と答えを用意した上で、物語を繋げないといけない。
最終的に会話するのであれば、以下のようにする
僕は、ナショナリズムと孤立主義がドイツで流行っていることについて、インターネットの普及によって「自分が何者か?」を選択することを迫られているからだと思う。
なぜなら、2024年現在の世界ではインターネットに情報が溢れていて自分が情報を選択しないといけないから。
例えば、ゲイカップルの結婚というテーマで調べるとする。インターネットが流行る前のWW2のドイツであれば、こんなことを調べると間違いなくNOという答えが国(国が管理しているメディアや役所)から帰ってくるし、それ以上調べようとしても情報は国から逃げない限りはそう簡単には手に入らない。
ただ、2024年現在はインターネットで調べると「アメリカではゲイカップルが結婚した事例がある」「ドイツで同性婚ができる」「日本では同性婚ができないのはおかしい」「ドイツの人口増加が抑制されたのはゲイカップルのせいだ」「ゲイカップルの結婚は治安を悪くする」など非常に様々な結果が出てくる。
もしもあなたがゲイだとして、パートナーと結婚したいと考える。そうすると先ほどでた検索結果の中からどこを事実として選択したくなるか。それは「アメリカではゲイカップルが結婚した事例がある」「ドイツで同性婚ができる」というポジティブな情報だ。
わざわざゲイとしてパートナーと結婚したいのに「ドイツの人口増加が抑制されたのはゲイカップルのせい」で、ゲイは存在してはいけないという情報を選択して苦しむ必要はない。
こういった心理が働くことが「情報を選択する」ということであり、この情報を選択するということが集まることで、「自分とは何か?」を形作っている。
それでは、2024年の時代では、この「自分とは何か?」を常に選択していく必要性があると仮定する。
この中で自分が何者か明確に理解していない人がいる。それは今まで自己について深く掘り下げられておらず、かつ知らないことについて知ることに拒絶反応を起こす人たちだ。
例えるなら、自己紹介をするときに、自分をきちんと語りきれない人だ。
そういった人たちは、自分のことをきちんと語ることができないから、常に自分の立場を問われ続けるインターネットによって、自己の確立が非常に困難になる。
そうなったときに、最も簡単で、最も自己の立場を表現する方法は、「他人に一切興味を持たないようになること」か「他人を強く否定する」ということだ。
他人に一切興味を持たないようにすることで、逆説的に自分という存在を担保できる。つまり情報をシャットアウトして、他人とは違うことを表現する。
他人を否定するということは、こちらも逆説的に自分が存在していることを証明することになる。
否定の反対には肯定がある。では、否定をするためには肯定的な意見がいるが、それを最も手早く表現できるのは「国民性」である。
なぜなら、国民性は情報リソースを得るために必要になるツールである「言葉」と「土地」「民族」が結びついている概念だからである。
この立場を強化することで、他者を否定しやすくなる。僕のような移民にはこれら全てを持ち合わせておらず、例え中卒だろうが、ドイツ人であれば僕を否定するのに十分な材料たらしめるだろう。
だから、ナショナリズムや孤立主義は流行ったのではないか。
という感じ。
これでも足りないと思うのだが
とにかく1文1文に定義と答えを持ってきて
次の文に解釈を預けないといけないような抽象的な内容ではないように
論理を強化しながら作った。
なんというか、論文ちっくだなあと思うのと
自分が昨日話した内容を改めて考えると、
日本人が俳句で上の句と下の句を合わせて最後に意味を感じられるようにすることで、情調的な演出をするところと重なるなと思った。
詰まるところ日本人は何事においても最後まで聞かないと結論は出てこず
その間にある解釈に無限の可能性がある。
でもドイツは、一つ一つに意味がないと気持ち悪いのだろう。そして一つ一つの事実をグループでまとめて最後の結論を作るような、そんな感じ。
なんというか、日本人の回答は先に大きな円を描いておいてだんだんと狭めていって最後の重要な点にたどり着く感じだが、ドイツの回答はまず目の前の点から答えて、その理由は周りに点在する事実を選択していく感じで論理を広げる感じだ。

日本だと事実にたどり着くのにざっくりと答えるのに対して
ドイツではとにかく各フェーズも事実であることが求められて
それぞれの論理が独立しているところを接続詞で埋めてる感じ。
さて、非常に長くなってしまったが、これも日本人の特徴だろう。
本題に入ると、ドイツ人はこういった明確なファクトであること
以外を理解しようとする、そういう力はあまりない。
なぜなら会話の仕方が常に短文で事実を伝えて、つなげるからだ。
なので、ドイツ人が敬意を払う場所は、ファクトであり、そのファクトが明文化された「法律」や「ルール」に対しての捉え方が日本人よりも強い。
定義すること、合意をすること。これを前提に添えておくことで理解が早まる。
したがってあらかじめ合意が前提である法律やルールに関してはとにかく従順だ。
逆に自己解釈が入る、自分が合意できていないことに対しては全力で自分のファクトを積み重ね主張することで相手に敬意を払わせようとする(ルールを作る)
日本人は逆。法律やルールよりも他人との会話の中で生じる空気感や行間から理解を深めて敬意を払う。
だからこそ明文化されていない振る舞いや細かい動作に対してまでも意味を汲み取ろうとするため、忖度や気苦労が発生する。
「面接は、気軽に参加してもらってもいいですよ。」これを日本とドイツでいった場合、意味が全然違う
日本では失礼のないようにばちばちに決めて参加するが、ドイツでは本当の意味で気軽でいいのだ。本当に敬意を払ってもらいたいのであれば明文化するのがドイツ。
リスペクトは、忖度ではなくてルールから発生するのがドイツ。
彼らの礼儀とはルールのようなもので、それは事実と合意から下された決定のようなものなのだと思う。
そして最後に、ドイツ人がなんであんなにロジカルに思えるのか。
多分この思考からくるものであり、そして子供の時から他人に敬意を払ってもらうために、事実から話していくこと、事実を積み重ねることが重要だったのだ。
「私は、・・だと思う。なぜなら〜、そして〜だから、・・だと思う」
これが普通。
子供だと「私は・・だと思う」
小学生になると「私は・・だと思う。なぜなら〜」
中高生になると「私は・・だと思う。なぜなら〜、そして〜だから」
大人になると「私は・・だと思う。なぜなら〜、そして〜だから、・・だと思う」
という感じでどんどん綺麗に発展している。
真ん中から円を広げているあの感じと、成長する時の話し方が同じ。
これすごくね?
日本だと、これが全く違っている。
子供だと「私は・・だと思う」
小学校だと「私は・・だと思う、私はこういうふうなことをしたことがあって〜、」
中学校だと「私はこういうふうなことをしたことがあって〜だから・・だと思う」
高校生も「私はこういうふうなことをしたことがあって〜だから・・だと思う」
で、大学生になると急に「私は・・だと思う。なぜなら〜、そして〜だから、・・だと思う」
という論法になる。
急にヨーロッパの思考になるのだ。
これがかなり嫌。だが、ビジネスや社会人におけるリテラシーとしてはヨーロッパ方式の方が楽。
だが実際生活においては日本式のままだった僕は、妻との会話がなぜここまで伝わらないものなのかが全く理解できなかった。
こうやって文章に起こしまくることで、ようやく理解が追いついてくる。
次からは、この考え方を染み込ませるために、書き方も変えていくつもりだ。
ドイツで生きていくためには、絶対に必要なスキルであるからだ。
とてもいい勉強になった。
ただ、最後に思うのは、これだけ世界がヨーロッパの原理に基づいたイデオロギーと手法でビジネスが広がっているくせに、想像を超えてヨーロッパが支配的でないというのは、なんだか不思議な話である。
本来ヨーロッパやアメリカ人は自分が思う以上に支配的でないといけないのでは?と思う。こんなに子供の頃からビジネス的な考えが当たり前の世界で
なんでこんなにも経済的に優位性を担保できていないのだろうか?

