台湾・嘉義、駅前という名の食の記憶
FOODSCAPE Magazine 連載 アジア食文化都市シリーズ 第2回 ― 台湾・嘉義(チャーイー)
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台湾中部、阿里山の玄関口に、嘉義(チャーイー)という人口およそ27万の小さなまちがある。このまちのソウルフードは、火雞肉飯(フォージーロウファン)。細かく裂いた七面鳥の肉をご飯にのせ、鶏油と特製のタレをかけただけの、安くて、毎日食べられて、誰も特別だとは思っていない丼である。
その火雞肉飯を、人々は今日も嘉義駅前の食堂でかき込んでいる。だが、この駅前は――かつて、まったく別のことが起きた場所でもあった。一杯の丼から、このまちの物語を始めたい。
第1章 山と土が街をつくった
嘉義が「食のまち」たりえたのは、まず地理の必然による。1907年、日本統治下で阿里山森林鉄道の建設が始まった。阿里山の檜を運び出すために敷かれたこの鉄道の起点が、嘉義だった。山の資源が、まず嘉義に集まる構造ができあがる。
さらに、技師・八田與一が手がけた大規模灌漑事業「嘉南大圳」が、水に乏しかった嘉南平野を台湾有数の穀倉へと変えた。山の幸と平野の実りが結節する場所――嘉義の食の豊かさは、この地理の上に立っている。食は、いつだって土地と水の産物なのだ。
第2章 多様性の街が輝いた日 ― 嘉農、1931年
農業都市・嘉義は、一度、台湾じゅうの注目を集めたことがある。1931年、嘉義農林学校(通称・嘉農/KANO)の野球部が、台湾代表として夏の甲子園に初出場し、準優勝を果たしたのだ。
このチームの特異さは、その構成にあった。漢民族、日本人、そして先住民(高砂族)の混成チーム。出自の異なる若者たちが、一つのまちの名の下に結束し、海を渡って本土の強豪を次々に破った。嘉義が育てたのは、農作物だけではなかった。「混ざり合うことの強さ」――それが、このまちの底に流れる主題である。この主題は、のちに食卓の上でもう一度立ち現れることになる。
第3章 駅前で撃たれた画家 ― 二二八事件
嘉義には、街を世界に知らしめた一人の画家がいる。陳澄波(ちん・ちょうは)。台湾人として初めて日本の帝展に入選した人物であり、その入選作の油彩は、ほかでもない嘉義の街角を描いたものだった。彼は、自分の生まれたまちを描いて、世界に届けた。
だが1947年、二二八事件が起きる。戦後、台湾を接収した国民党政権への民衆の抗議は全島に広がり、嘉義はとりわけ激しい戦闘の地となった。水上機場をめぐる攻防では300人を超える死傷者が出たと伝えられる。
そして3月25日。陳澄波は、事態の収拾のために交渉役として赴いた末に拘束され、裁判もないまま、嘉義駅前で公開銃殺された。街を描いた画家が、その街の駅前で撃たれたのである。冒頭で触れた「駅前」とは、この場所のことだ。豊かな食と、流された血。全州がそうであったように、嘉義もまた、この落差の上に立っている。
第4章 偶然と混血から生まれた一杯 ― 火雞肉飯
嘉義のソウルフード・火雞肉飯は、奇妙な出自を持つ。その七面鳥は、台湾の伝統食材ではない。第二次大戦後、台湾に駐留した米軍が持ち込んだ七面鳥が、嘉義近郊の養殖業者のもとで大量に繁殖し、安価なタンパク源として庶民の丼になった。
全州のビビンバが500年の王朝の蓄積から生まれたとすれば、嘉義の火雞肉飯はその対極にある。王朝の格式でも、伝統の継承でもない。戦争と占領という時代の偶然が、異国の鳥をこの土地の日常食に変えた。第2章で見た「混ざり合う街」という主題が、ここでは一杯の丼として結実している。嘉義の食は、はじめから混血だったのだ。
第5章 古い街で、若い料理が芽吹く ― 現代のガストロノミー
「庶民の丼の街」というイメージの上に、いま嘉義は新しい層を重ねつつある。担い手は、地元の食材と歴史的な建物を、現代の技術と感性で読み替える小さな店たちだ。
「這裡(Zheli)」は、日本統治時代の銀行員宿舎をリノベーションした古民家レストランである。嘉義の旬の食材をコース仕立てで供し、その盛り付けは芸術的とまで言われる。歴史的建造物の再生と食を重ねる、象徴的な一軒だ。
完全予約制の私廚(プライベートキッチン)「ROOF」は、地元の新鮮な食材にこだわるおまかせコースで、シェフの創造性と「儀式感」のある食体験を提供する隠れ家である。夫婦で営むフレンチ「Le Pissenlit Bistro」は、自家製パンと無農薬の季節野菜を使い、半年ごとにメニューを刷新する。宜蘭産の櫻桃鴨胸が人気だ。地産・季節性・更新というガストロノミーの王道を、小都市で着実に実践している。長年愛される高級和洋創作料理の「水鳥」は、新鮮な海鮮を活かしたおまかせで、和と洋の交差を体現する。
重要なのは、これらが東京や台北の模倣ではないことだ。地元食材、歴史的建物の再生、そして和・洋・台の混ざり合い――いずれも嘉義という土地にしかない資源に根ざしている。火雞肉飯が「戦後の無自覚な混血」なら、現代のこれらの店は、その混血性を意識的に引き受けた次世代の食だといえる。混ざり合うことの強さという主題は、こうして過去(嘉農)、戦後(火雞肉飯)、現代(私廚)と、三つの時代を貫いて響いている。
第6章 痛みを抱えて、街は今日も食べる
同じ嘉義駅前に、芸術と、暴力と、日常の食が折り重なっている。画家が描いた街角であり、その画家が撃たれた場所であり、今日も人々が七面鳥の丼を食べる場所だ。
嘉義の食は、痛みを消さない。痛みの隣で、日常が続いていく。その当たり前のことの強さこそが、このまちの底力である。
食を地域戦略に据えようとする日本の自治体に、嘉義の歩みが示すものは大きい。
第一に、食の物語は「古さ」や「正統性」だけが価値ではないということだ。全州が蓄積の街なら、嘉義は偶然の街である。戦後の偶然や、多様な背景の混ざり合いこそが、ほかにはない固有性になりうる。
第二に、嘉義は負の歴史を観光から消さなかった。二二八の記憶を、食の日常と同じまちの中に置いている。痛みと豊かさを同じ物語として引き受けたからこそ、まちの語りに深みが生まれる。
第三に、庶民の食と先端の食は対立しない。火雞肉飯の屋台と、歴史的建物を再生した私廚は、同じまちで両立する。「這裡」や「Le Pissenlit」が示すように、地元食材と古い建物の再生を掛け合わせれば、小都市でも独自のファインダイニングは成立する。
そして最後に――自分のまちの食を語ろうとするとき、私たちはつい名物料理の数を数えはじめる。だが嘉義が教えるのは、問うべきはやはり「なぜ、このまちはこの食なのか」という一点だということだ。その問いに歴史で答えられるまちだけが、食を起点に立ち上がることができる。
出典・参考
・Wikipedia「Chiayi」 https://en.wikipedia.org/wiki/Chiayi
・Taipei Times「Highways and Byways: The scars of 228 in Chiayi」 https://www.taipeitimes.com/News/feat/archives/2019/02/22/2003710182
・The Taiwan Gazette「The 228 Massacre in Chiayi」 https://www.taiwangazette.org/news/2019/3/5/the-228-massacre-in-chiayi
・Google Arts & Culture「Chiayi Park (Benten Pond) - Chen Cheng-po」 https://artsandculture.google.com/asset/chiayi-park-benten-pond-chen-cheng-po/
・Wikipedia「火雞肉飯」 https://ja.wikipedia.org/wiki/火雞肉飯
・Wikipedia「KANO 1931海の向こうの甲子園」「嘉義農林学校」
・現代ガストロノミー店舗情報:這裡(Zheli)、ROOF、Le Pissenlit Bistro、水鳥和洋創作料理(編集部調べ)
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(文:美食都市研究会/FOODSCAPE Magazine 編集部)
