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仕留める |掌編

夜中の一時過ぎに、夫が叫んで、起き上がった。

起きろ!とゆさぶられる。

私は目を閉じたまま聞いていたが、夫が叫び続けるので、仕方なく起き上がった。

「もう、なに」

「ゴキブリだよ!」

枕元をまさぐる音、週刊誌を取る音、丸める音。結婚して八年になるが、夫がゴキブリに気づいたときの音は、他の何の音とも似ていない。

「あんたも来て。ほら、これ持って。そっちの壁見て!」

渡された丸めた週刊誌を受け取る。先週号だ。

なぜいつも枕元にあるのかは、もう聞かないことにしている。まだ少し、夫の手の熱が残っていた。受け取ったら解けたので、丸めると「丸め方が足りない!そんなのじゃ、倒せない!もっとキツく丸めて!」といわれた。

敵はどこにも見えない。夫が舌打ちをした。

「隠れやがった。出てくるまで耐久戦だ、いいな」

よくねぇよ。

私は夫の横顔を見た。

「いつまで?」

「殺すまで」

嘘でしょ。

「……じゃあ、あっちの方の壁を私が叩こうか? そうしたらでてくるかも」

「だめだ! 奴らは俊敏にさせたら、逃げ切ってしまう!」

「締め切ってるから逃げられないじゃん?」

「じゃあ、どっから入ってきたんだよ!」

「そりゃあの薄べったい体だからどこからでも」

「入れたってことは出られるってことだ!だから、動いた時を見逃さず一瞬で仕留めるんだ、それしかない!」

眉が、少し上がっている。こういう顔を、そんなに知らないと思った。

真剣な顔は知っている。疲れた顔も、笑う顔も。でもこの、何かを仕留めようとしている顔は、数えるほどしか見たことがない。そういえば、人間って狩猟民族だっけ、と、どうでもいい知識が脳内をよぎる。

音はしない。夫も動かない。

まんじりともしない時間。

夫は壁をひたすら見ている。私は、ぼーっと壁を見ている。

眠い。

このまま敵を仕留めるまで、夫は本気で寝ないつもりだ。

明日は朝から会議が……。まだ準備してない。どうして今日中に準備しとかなかったんだろう。まさかこんな夜になるなんて。

「コンバット置いてるから、たとえ部屋にいてもいつかコンバット食べていつか死ぬよ。何も今夜殺さなくても」

「だめだ。1匹を許せば侵略を許したことになる。卵でも産み付けられてみろ」

眠い。頭が妙な方向を向き始めている。ゴキブリの死体のおもちゃを枕元に常備しておけば次からはそれで済む——と思い、すぐに、ゴキブリの死体を常備している女というのも大概だ、と思い直した。

夫の手を、横目で見た。週刊誌をきつく握っている。甲に、うっすら筋が浮いていた。指節のあたりが、少し白い。

「ねえ」

「しっ」

夫の目は壁から離れなかった。

私は口を閉じた。

「もう諦めて寝ようよ。ゴキブリより私をみてよ〜ん」

夫の手に触れる。触れたのは私の方だったか、夫の腕が動いたからか、もうわからない。どちらにしても夫は動じなかった。そのまま、壁を見ていた。

「馬鹿なこと言ってないで、あんたも監視しろよ」

夫は今、異常な臨戦体制にある。この昂りを、そのまま使えばいい。
一度ヤってしまえば夫は眠くなる。私は半分寝たままで済む。ゴキブリも、殺されずに済む。地球上の一つの命が救われる。

ゴキブリを仕留めるより、夫を仕留める方が、全員にとって都合がいい——そう踏んでいた。

だが、殺気を帯びた夫の前では、完全に無力だった。

そうして私と夫は背中合わせになってベッドの上でなぜか正座して、自分の側の壁を凝視することになった。夫の背中から漂う緊張と殺気をひしひしと感じながら、私は、もうちょっとで眠気の魔界にひきずりこまれそうだった。

気がついたら三十分も経っている。

ああ、睡眠時間が……

「ねえ」

「なんだ」

「ちょっと」

夫が振り向いた。

夫の顔が、近かった。

暗がりの中で、夫の首元が見えた。
シャツの衿が緩んで、鎖骨の手前まで開いている。昼間は見ない部分だと思った。昼間はネクタイで、夜は布団の中で、こうして向かい合うことは、あまりない。

私は、自分が持っていた丸めた週刊誌を、夫に見せるように頬へ寄せた。

ゆっくりと。

「でないね……どっかいっちゃったのかも?」

夫が無言で、表情も静止したままなので、私は私の手の中の週刊誌に唇を近づけて、ため息を吹きかける。

「もう横になりたいな……あなたもそう思うでしょ? 敵は憎いけど、世の中きっともっといいことがあるって……ねえ?」

丸めた週刊誌を、両手でゆっくりと握り直しながら、夫の横顔を見た。

「何やってんの」

夫が言った。目が細くなっている。
あ、やばい。狩猟民族を邪魔した時に向けられる顔だ。

「待ってる」と私は答えた。

「何を」

一拍おいて、答えた。

「ごきぶり」

夫は何も言わずに、また壁に向き直った。

部屋は物音ひとつしない。さっきまで車の音が遠くで聞こえていたはずなのに、今は息を吸っても反響しそうな気がした。

夫の頭が、コクンと落ちた。

私は週刊誌を握り直した。端の方が、少し湿っていた。



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