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官能の刃 |短編

ずっと気になっていた、焙煎珈琲の店。

自転車で前を通りかかった時、ちょっと減速して目をやったり、時には立ち止まったりして、覗いていた。なかなか入る勇気が出なかった。

区役所でカラーパンフレットをもらった帰り道、その店に入った。

中は、木目が美しい小さなお店。壁際にたくさんのコーヒー豆の入った瓶がある。あれは何というのだろう。袋に入った豆もある。その袋は紙ではなく、何かの繊維の大きな袋——ああ、南国みたいだ。

「いらっしゃいませ」

愛想の良くない高齢男性が声をかけた。ちょっと気がひける。やっぱり、珈琲に詳しくない場違いな人間が迷い込んできたってバレたかな。

おずおずとカウンターに行く。

「あの、美味しい珈琲を探してて」

「そうですか」

チラッと私を見た。鼓動が早まる。何をもってお前は美味しいと言っているのだ——と問われた気がした。

「コーヒーメーカーですか、それともペーパードリップですか」

「メ、メーカーです。ミルを持ってないので、粉がほしくて」

喉がカラカラになっていた。

店の奥の座席には、新聞を片手に優雅に珈琲を啜っている男性がいた。スーツである。スマホがテーブルの上に置かれている。毎日新聞だ、と分かったのは、題字がこっちを向いていたからだ。

短髪の、いかにも有能なサラリーマン風。襟足が短い。あの髪型、なんていうんだっけ。刈り上げ……多分違う。あの珈琲はなんだろう。

「それなら、このブレンドがおすすめです」

ブレンドをおすすめされて、なぜか傷つく。美味しい珈琲って言ったのに、なぜブレンド? やっぱりミルを持ってないって言ったからかな。

「じゃ、それ、ください」

「何gにしますか」

「あー……何gがいいですか」

またチラッと私を見る。

「100gでお試しされるとよいかと思います」

「じゃ、それでお願いします」

カウンターの中で豆が挽かれる。私のための豆。私のために挽かれていく豆。

楽しみなのに——自分の身が削られていくような気がする。

グラインダーの音の中で、私は何度も熱いつばを飲み下しながら、件のサラリーマンを見遣る。毎日新聞という文字がもう見えない。

男性は「おかわりお願いします」と言った。

グラインダーの前にいた店主は——多分店主だ、とこの時思った——「わかりました」と答えた。その答え方が、珈琲が分かり合っている者同士の阿吽の呼吸のように聞こえた。

グラインダーの音が響く。身の置き所がない。こういう時、どういう態度で待っていればいいのか。壁に置かれている他の珈琲たちを、さも「ふむふむ、なるほど」という態度で見るふりをする。

値段を聞いて、思わず声をあげそうになった。予想より高い。ちゃんと値段を見ていなかった。

袋を抱えて店を出た時は、失ったお金を思って、自分が馬鹿な選択をしてしまった気がした。金を出し、恥を買う。何をやっているんだろう、と思った。

帰宅して、それでもいそいそとメーカーの前に行く。

受け取ってまだ30分も経っていない珈琲の封を、ハサミで丁寧に切る。

途端に、殺気を帯びた香気が私を突き刺す。

鼻から脳のてっぺんまで一瞬で貫通した。遅れて、目がチカチカした。滲んでくる。袋を持つ手を下げたのに、袋の方が手に張り付いたようだった。

香気が止まない。

考えすぎで浮腫んだ私の顔の表皮を剥がしとり、裸の細胞が空気に触れる。

私は何度も深呼吸をする。今しかない、この香りを吸い込みたかった。全身で。

満足してから、ゆっくりとメーカーに粉をセットする。スイッチを入れる。

さっきの鮮烈なものとはまた少し違う、蒸気を伴う温かい香しさが漂ってきた。

うっとりする思いでそれをずっと見ていた私は、出来上がった珈琲を、普段は使わない白磁のコーヒーカップに注いだ。ソーサーももちろんつけた。

テーブルに置いて、その前に座る。取っ手を持って、また吸う。

店の恥も、店主のつっけんどんさも、失った金もすべて忘れた。

恐る恐る口をカップの縁につける。熱い。でも、熱いだけじゃない。苦味がない。

なんという液体だろう、これは。

熱いのに、まろやかで、刺激的なのに、やさしい。

一口、また一口、私は宝物をいただくようにそれを啜った。

背後から物音がした。寝室の扉の音だ。

リビングに置いてあったモンステラの緑が飛び込む。扉の縁の茶色。サイドボードの茶色。窓の白っぽさ。ステンレス。壁の黄土色。その手前にある私の鞄——パンフレットの色を思い出す。

私は手に口を当てながら横を向いた。

青のチェック柄のパジャマ。寝癖。その奥の床のグレー。

私は正面に顔を戻した。水槽の金魚が揺れている。色のない金魚。

「美味しいのよ」

私は言う。

彼は私の手元を一瞥して、冷蔵庫を開ける。

すでに、ただの黒い湯となったそれを、私は黙って啜った。



目が覚めたら、12時40分だった。

天井を見たまま、しばらく動けなかった。今日も、だめだったか。ため息をついて、頭をぼりぼりと掻く。

トイレに行って、顔を洗う。洗面台の鏡の中に、寝癖のついた見覚えのある男がいた。

リビングに出ると、甘い、焦げたような匂いが漂っていた。

あいつが、妙に背筋を伸ばして、普段使わない白磁のカップを抱えている。カウンターに、見慣れない袋が置いてあった。

「美味しいのよ」

背中越しに飛んできた声は、どこか恍惚としていて、少しだけ排他的だ。

俺は冷蔵庫を開け、冷えた麦茶を喉に流し込む。

たかが飲み物一杯に、何をそんなに「戦い」のような熱量を注いでいるのか。起き抜けの体には、その静かな昂りが少し眩しすぎる。

「……行ってくるわ」

一瞥して、俺はギターケースを担いだ。

行っても意味がない、とわかっていた。それでも足は、駅の階段を降りていた。

湿り気を帯びた木の匂いが、俺を引き込んだ。ここが俺の「焙煎所」だ。

壁一面のフェンダーとギブソン。店に入った瞬間から、俺の自意識が静かに踊り出すのがわかった。止められなかった。

「弦、変えたほうがいいですよ。死んでる」

それだけ言って、店主は奥に引っ込んだ。あ、やっぱりそうだよな。

壁の一角に、57年製のストラトキャスターが吊られていた。サンバーストの塗装が、長い時間をくぐり抜けてきた色に焼けている。

俺は断りを入れた。店員が、壁からそれを下ろした。軽い。なのに、密度がある。ネックを握った瞬間から、何かが掌に語りかけてくる気がした。

「それ、鳴りが別格ですよ」

店員が寄ってきた。若い。だが目が本物だ。

「わかります。ピックアップの磁力が落ちてるのに、かえってそれが——」

「そう、枯れた感じになるんですよね。磁力が少し落ちて、出力は強くないのに、芯だけ残ってる。あの時代のストラトって、そこが怖いんですよ」

俺たちはしばらく、その話をした。わかっている人間とこうして話すのは楽しいが、それより今は、手の中の楽器をいじりたい。

アンプに繋いで、Eをひとつ鳴らした。

音が、部屋の空気を変えた。

指の震えを通った振動が、そのまま下に抜ける。固い、きつい。でもそれがたまらない。

慎重に鳴らす。一発で終わらない。
鳴らすたびに、持っていかれる。

掻き鳴らせば、応える。 二音目には、もう違った。

弦の方が、俺の指を選んでいた。
放せば終わる。それだけがわかっていた。それだけが。

「ちょっと考えます。また来ます」

俺は丁寧にギターを戻して、店を出た。

階段を上がると、陽光が眩しかった。何も買っていない手が、妙に軽かった。

地上に出て、少し歩いた。

タワーレコードの入口をくぐる。エレベーターでジャズのフロアへ上がる。

何百枚と流していく中で、一枚のジャケットが目に止まった。色褪せたセピア色。古いジャズのトリオ盤。録音状態は最悪だろう。

だが、ジャケットの男が抱えているギターの「鳴り」が、手に取る前から聴こえた気がした。

俺はそれをレジに置く。表示された金額を見て、少しだけ眉をひそめた。高い。だが、迷いはない。

さっき弾いたストラトに比べれば、これは手の届く場所にある官能だ。

帰り道、駅そばの牛丼屋に寄った。カウンターに座って、並を頼む。隣のサラリーマンが味噌汁を啜っている。特に何も考えず、箸を片手にスマホでストラトを検索した。

帰宅したのは、5時を少し回ったところだった。

リビングにはまだ微かに、焦げたような、それでいて甘い残香が漂っていた。彼女の姿はない。自室にこもっているのだろう。

俺はアンプのスイッチを入れ、買ってきたばかりの盤をトレイに載せる。夕方の帰宅ラッシュの時間帯だ。もう少しボリュームを上げても構わないだろう。ノブをいつもより少し右へ回した。

スピーカーが震え、空気が爆ぜる。

「刃」のような鋭いギターのストロークが、部屋の隅々にまで突き刺さる。

爆音の中で、余計な思考が削ぎ落とされていく。あのストラトの鳴りも、焦げ臭い残り香も、音符に塗れて消し飛んでいく。

悪くない。

かたっと物音が後ろでした。

彼女が白いカップを手にリビングに来ていた。俺が帰ってきたのは、この音量ならとっくにわかっていたはずだ。それでも今まで出てこなかったのは——まあ、そういうことだろう。

「また、新しいの?」

彼女はメーカーに近づき、紙フィルターをセットし始めた。また、コーヒーを淹れるのか。

「本当に好きだね、君は、珈琲が」

彼女は冷凍庫から、豆の袋を取り上げたばかりだった。その動きを止めて、徐ろに俺を振り返った。

「嫌いになれたら、コスパいいってわかってるけどね」

そうして彼女は小さく笑った。

俺は、一瞬、黙った。

嫌いになれたら。
なれないから、困っている。

それは——。

俺は椅子を蹴るように立ち上がり、彼女の背後に歩み寄った。

彼女が冷凍庫の奥へ手を伸ばした瞬間、横から、その手ごと豆の袋を掴んだ。

冷凍庫から溢れた冷気が、俺たちの手首を撫でる。
重なった手のひらだけが、妙に熱い。

彼女の息が、止まった。

そのまま俺は、豆の袋を冷凍庫の奥へ押し戻した。
扉を閉める。冷気が切れる。

振り返った彼女と、目が合った。

彼女の唇が小さく動いた。え、なに、という形に。声にはならなかった。

俺は彼女の唇を思いっきり吸った。彼女もすぐに応えてきた。細い腰を抱きしめ、覆いかぶさるように口づけを深くする。

もはや俺は何をしたいのだろう?

わからないままでいたいと、俺は思った。




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