熱いって |掌編
ふとしたときに、指先が熱いと思う。
でもその熱さすら、本当かどうかわからない。
この熱がどこからきたのかわからない。この熱が本当に存在しているのかも、わからない。しかし私は、熱い、と思う。
この感覚を信じられないことが想像できるだろうか。
私が自分というものを疑い出した、そもそものことは覚えていない。
私にかすかに残った正しい脳細胞が、おそらく記憶の宮殿の奥深くに、そもそもを封印してしまったのだと思う、数多のガラクタと一緒に。決して見つけることができないものとして。
だから、そもそもなぜ私が私であることを疑うようになったのかを覚えていない。
だけど、私が何かを思い出そうとしたとき、かならずKの手触りを通り過ぎる。
Kは、私の夫である。
夫であったと言った方が正しいのか、今も夫だ、と言った方が正しいのか、もはやわからない。私が私であることを信じられないのと同じぐらい、Kと私の関係性もまた言葉にできない。
言葉にできないほど、「なんなのか?」という問いが、それを解明したいという欲求の錘をつけて浮上する。
Kは優しい人だった。穏やかな人だった。無口な人だった。笑わない人だった。
だから、Kが笑うと、奇跡のようだった。もう一度笑わせたい、と思ってしまった。それほど嬉しかった。
いつかKを笑わせる私になりたかった。そのためなら、どれほど変容してもよかった。
まるで工場の鋳型に嵌め込まれる生地のようだ。焼かれすぎて、おいしくなった。でも、もうバターにも小麦粉にも戻れない。そういうもの、としてしか見なされない。
Kは言った。「君はすぐに調子に乗るから」
私は調子に乗っているつもりなどなかった。むしろ、調子に乗らないように、必死に周囲を見てきた。ここは楽しく過ごした方がいいという判断のもと、楽しく過ごしていたら、調子に乗る、といわれる。
調子ってなんだろう。私はどんなリズムを打ってしまったというのか。
「正解を教えて」
Kは笑った。
「正解は自分で見つけるもの。人に聞いたら正解じゃない」
Kは賢い人だった。Kと共にいると、自分まで賢くなれる気がした。
そのためには、今の自分が馬鹿だということを認めようとして、馬鹿なふりをした。私が馬鹿であればあるほど、Kはやさしくなった。馬鹿にはやさしいKだが、私が小賢しいことを言うと、容赦なく時が止まった。
Kは私を責めなかった。ただ、彼だけが時を止める魔法を使えた。
もしかして今も、Kの魔法の中にいるのかもしれない。
記憶の扉がぞろりと開く。
なぜだろう。ただ、ペットボトルを持っただけなのに。
「正解を探す姿勢は大事だけど、人に聞こうとする時点で、何かが違ってるよね」
鼓膜を揺さぶる反響。ここは、いつから鍾乳洞になったのだろうか。
ああ、重低音がキラキラと反響して増幅していく。熱い。蒸す。
ああ、そうだ。鍾乳洞じゃない。これは鋳型の中だ。私は焼かれている。巨大なオーブンの中で、ベルトコンベアがゆっくりと動いていく。
熱い、熱い、熱い。
ああ、おいしくなる。おいしくなる。だから、もう正解なんて考えない。
そうして安堵したとき、私は天井にいた。すみっこに。
天使たちがいて、私の周りで雪虫のように飛んでいた。そして下には、泣く私と、うなだれるKがいる。
ああ、お願い、K、その子の話を聞いてあげて。 話を聞かなくていいから、その腕を下ろして。 あなたがあなたでいることをやめてあげたら、その子は楽になるの。 ああ、K、お願いよ。ああ、K。
雪虫が消える。
私は吸引されるように天井から離れて地上に吸い込まれる。そして、目を開ける。
ああ、Kがいる。
そして記憶の扉が閉まる。ペットボトルに口をつける。
冷たい……と思って合っているのだろうか。このぬるま水は。
いつからそこにあり、どこまでいくのか。
この水は。この熱は。
ペットボトルの中で。
彼はもういない。私は一人だ。自由である。
だけど、この指先が熱い理由がわからない。私が知りたいのは病気ではない。どうして知りたいのか、である。
Kが私に魔法をかけて、そして目の前から消えたのかもしれない。
魔法は術者しか解くことができない、と、ある異世界転生ストーリーで見たことがある。
異世界は叶えられなかった願いを叶えてくれる理想郷のように描かれる、そういう作品たち。そこでは、誰かを愛することが、空気のように前提とされている。令和になっても、それがブームである。
人は結局、愛されたいのだろう。愛したいのだろう。
私は異世界転生したくない。
どこに行っても、私は私を道連れにする。姫になっても、悪役令嬢になっても、悪の大魔王になっても、この指先への不信は続くだろう。
転生よりも、誰かにこの頭のデリートボタンを教えてもらえる方がいい。それがどこにあるかを、私は知らない。
実際がどうでもいい。なんでもいい。なんでもいい。どうでもいい。
何に生まれ変わったとしても、
私の指先の熱は、きっとこれからも、つづくだろう。
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