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1000文字掌編「手紙の封」

 私はもともと、切手を舐める女なのである。

 これを告白と呼ぶのは大袈裟だ。けれど告白のつもりで書いている。舐めるのが好きだった、というのではない。物心ついたときには、もう舐めていた。母が舐めるのを見て覚えたのか、それとも人間は放っておけば紙の裏を舐めるようにできているのか、私には分からない。分からないまま三十年、私は舐めてきた。乾いた糊が舌の上でわずかに甘くなり、そのあとに紙の粉が残る。あの甘さを、私は世界でいちばん親しいものだと思っていた。思っていた、と過去に書かねばならぬのが、この話のかなしいところである。

「榊さん、百十円切手、予備あった?」
「はい。何枚御入用ですか」
「五枚」
「シールじゃないものでいいですか」
「いいよ」

 部長は私の渡した切手を、一枚ずつ舐めた。舌の先で裏を撫で、封筒へ押しつける。私はそれを、懐かしいものでも見るように眺めた。仲間がいた、とさえ思った。ばかである。私はほんとうに、そのとき、うれしかったのだ。

「本人には言えないけどさ、ちょっとアレはねえ」
 と、水瀬が声を潜めた。私に、である。同志のつもりで、である。

「コロナだって終わったわけじゃないし。榊さんも今度からシールにしなよ」

「はい」と私は言った。はい、と。たった二音である。二音で、私は三十年を売った。

 部長が舐めるのは汚くて、私が舐めるのは綺麗、という話ではないのだ。水瀬は、私も舐める女だとは夢にも思っていない。思われていないことに、私はすがった。とっさに部長の側から水瀬の側へ、そうっと足を移したのである。人はこれを保身と呼ぶ。私は、裏切りと呼ぶ。

「知らないから嫌なんだよ、こういうのは」
 と水瀬は笑った。知らないから、嫌。私は永く、逆を信じてきた。知られなければ、無い。見られぬところの私は私ではなく、暮らしに付いた薄い汚れにすぎぬ、と。そう思えば楽であった。楽であったが、いま思えば、それが私を薄くした。私は、私を汚れだと思うことで、すこしずつ私を減らしてきたのである。

    *

 翌日は休みだった。ミカの誕生日が明後日だと気づいたのに、私は動画を見た。一本のつもりが、昼を過ぎた。冷凍の飯を食べて、また横になった。郵便局が閉まってしまえば、送れなかった言い訳ができる。私はそれを、正直、待っていた。待っている自分にすこし安心し、安心した自分に、ふかく失望した。安心も失望も、私はいつも、同じ皿から食べている。

 閉局間際に、行った。

「シールタイプをください」

 言えてしまってから、うまく言えた、と思った。試験に受かった子供のような、いやらしい安堵であった。八枚綴りを買い、帰って、花柄の一枚を剥がし、指で押さえた。舐めずに、貼れた。七枚も余った。この七枚が私の善良の証拠のように思われて、私は、すこし笑った。笑いながら、誰に見せる笑いだろう、と思った。部屋には、私しかいないのである。

 ミカへのカードは、二行しか書けなかった。おめでとう。またご飯に行こう。ミカは毎年、長い手紙をくれる。返すには、自分の中から何かを差し出さねばならぬのに、私の中には、差し出せるものがほとんど無い。無いから、舐めることくらいしか、私には無かったのかもしれぬ。

 封をしようと、封筒を裏返した。
 ふたの内側に、透明な糊の筋が、細く光っていた。

 水をつければいい。台所は、すぐそこである。
 私は、動かなかった。

 ミカは知らない。水瀬も知らない。部長すら、知らない。誰も知らぬ私が、いま、ここに、たしかにいる。それは汚れではなかった。それは、私が生まれつき持って生まれた、たったひとつの、私であった。

 封筒を、顔へ寄せた。匂いなどしないはずなのに、あの甘さが、舌の奥から迎えに来た。おかえり、とでも言うように。

 私は笑った。さっきとは、ちがう笑いであった。
 ああ。
 みいつけた。



1000字掌編30日チャレンジ、29日目。
AIに、30日分のタイトルを作ってもらいました。一時間以内に制作という自主条件で、挑戦中です。
今回は『手紙の封』というお題でしたので、封されているものがほどけるその一瞬を書きました。

 1日目「鍵の行方」
 2日目「氷の入ったコップ」
 3日目「母の字」
 4日目「朝の電車」
 5日目「塩の量」
 6日目「隣の声」
 7日目「写真の整理」
 8日目「友人の幸福」
 9日目「傘の骨」
 10日目「時間の貸し借り」
 11日目「声の高さ」
 12日目「週末の約束」
 13日目「名前を呼ぶ練習」
 14日目「コーヒーカップの欠け」
 15日目「雨の夜の帰宅」
 16日目「窓の外の木」
 17日目「忘れた約束」
 18日目「口紅の蓋」
 19日目「二つの傘立て」
 20日目「返事の遅さ」
 21日目「砂糖の位置」
 22日目「走る練習」
 23日目「先に寝る」
 24日目「知らない町の地図」
 25日目「誕生日の電話」
 26日目「夏の嘘」
 27日目「図書館の予約」
 28日目「夕方と影」
✉️29日目「手紙の封」
 30日目「ぬるいお茶」


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