虎の穴は、誰のもとにも訪れる── 美輪明宏さんの生き様を思いながら
死ぬとわかっている。
そう言われると、多くの人は目を逸らします。
でも、本当はみんな知っています。
私たちはいつか必ず死にます。
誰にも止めることのできない事実です。
それでも私たちは、明日の予定を立て、ご飯を食べ、人を好きになり、未来を語ります。
死を知りながら、生きています。
人間とは、不思議な存在です。
大本教の創始者、出口王仁三郎は、
こんな言葉を残しています。
人間が虎の穴に落ちた時、どうすべきか。
逃げても、立ち向かっても、じっとしていても、結局は虎に食われて助からない。
しかし、一つだけ生きる道がある。
食われるのではなく、
こちらから食わせてやる
食われれば何も残らないが、
食わせれば愛と誇りが残る。
これは助かる方法の話ではありません。
助からないとわかった上で、どう在るかという話です。
極限の覚悟です。
もちろん、そのまま日常生活に持ち込む必要はありません。
でも、この構造だけを借りてくると、
人生の様々な場面に重ねることができます。
理不尽な出来事。
報われない努力。
老い。
避けられない別れ。
人生には、自分の力だけでは変えられないことがあります。
そんな時、まるで虎の穴に落ちたような感覚になるでしょう。
人は「自分の力では変えられない運命」に対して、ひとつの選択権を持つことができます。
奪われる側に立つのか。
与える側に立つのか。
奪われる側に立てば、痛みと、失ったものへの未練だけが残ります。
与える側に立てば、結果は変わらなくても、誰かの心に何かを残すことができます。
ここまでなら、よくある話です。
でも、本当はもう一段深い世界があります。
奪われる側と与える側は、
対立するものではありません。
陰陽のように、一つのものの両極です。
与える側を選んだからといって、奪われる側の自分が消えるわけではありません。
恐れもある。
未練もある。
弱さもある。
そのすべてを抱えたまま、
それでも与える極を選んで立つ。
選ばなかった極もまた、自分です。
だからこそ、その選択には意味があります。
この記事を書いていた時、
美輪明宏さんの訃報が飛び込んできました。
寂寥の思いと共に、その生き様が立ち上がってきます。
戦争や被爆、偏見の中を生き、それでも時代ごとに最も弱い立場の人へ寄り添い続けた姿は、何度も虎の穴に落ちながら、それでも愛を与え続けた人だったように思います。
出口王仁三郎の「食われるのではなく、こちらから食わせてやる」という言葉を思う時、その覚悟と生き様が重なります。
奪われても。
傷ついても。
それでも愛を与え続ける。
虎の穴は、いつか誰のもとにも訪れます。
その時に問われるのは、
何を失ったかではありません。
最後に何を残したか。
美輪さんが最後まで伝え続けたものは、
愛でした。
奪われても、
食われても、
愛があれば枯れることはない。
その生き様そのものが、
遺言のように胸に刻まれています。
美輪明宏さんのご冥福をお祈りいたします。
合掌。
