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#4 父も変わってる?

父もユニークな人のようでした。

鳥取県の池田光仲藩主であった側室であり、その家族と身の安全を図るために山奥へ避難のが、父の祖先だそうです。
その家族は身の安全を図って山奥に避難したと聞いています。私も何度かその地を訪れましたが、くねくねと曲がりくねった山道の先々に、「ここには兵が常駐していた」と言われるような場所がいくつもありました。

父は多くのきょうだいの末っ子。とてもやんちゃで、野山を駆け巡り、冬には「むしろ」で山から川まで滑り降りるという、今なら危険すぎる遊びもしていたようです。

そんな父の後頭部には、丸く毛のない部分がありました。囲炉裏のそばではしゃいでいたとき、誤って頭から落ちてやけどを負ったのが原因でした。「ハゲ、ハゲ」と友達にからかわれ、よくケンカもしていたそうです。きっと気の強い子だったのでしょう。

祖父のこと

父は、そんな自分の父、つまり私の祖父のことをとても尊敬していたようです。

祖父は、鳥取の山奥から四国八十八ヶ所参りに何度も出かけたそうです。交通の便もない時代、命がけの巡礼だったはずです。今、祖父と話ができるなら、「何を思い、何に感謝し、何を願って歩いたのか」を聞いてみたいと、ふと思います。

祖父には不思議な逸話もあります。山で作業中にナタで足を大きく切ってしまい、出血が止まらず困っていたとき、頭上から大きな葉っぱがふわりと落ちてきたそうです。それを傷口に当てると、不思議と出血が止まり、歩いて家まで帰れたという話です。

また、体調の悪い近所の人にお灸をすえてあげていたこともあったそうです。実際に調子が良くなる人が多く、祖父の元には多くの人が通っていたとか。しかし、祖父は医者ではないため、それは法律に違反する行為でした。何度も牢に入れられたそうですが、「人助けをして何が悪い」と言い張り、頼まれると断らず続けていたそうです。たぶん明治時代の話でしょう。

父の人生のはじまり

父は、そんな祖父から「何か自分の手で生計を立てろ」と言われたのか、山の一部と少しの現金を受け取り、しいたけの栽培を始めました。しかし失敗。大阪で職を探すことに。そのとき、祖母が駅まで見送りに来てくれたそうです。それが、祖母と会った最後だったと、寂しそうに話していた父の顔を今も覚えています。

大阪では、とある会社に就職し、結果的に40年以上勤め上げました。入社の経緯はよく知りませんが、ここでも父らしい「破天荒さ」を発揮していたようです。

体格が良かった父は柔道部に勧誘され、そこでも「ハゲ」とあだ名をつけられたそうですが、その悔しさをバネにがんばったようです。柔道部はめきめきと成績を上げ、父自身も「自分の貢献が大きかった」とよく自慢していました。私たちは話半分で聞いていましたが、ある日「○○柔道部○○年史」という厚い記録集を見つけました。そこには団体戦・個人戦の勝敗記録が図式化され、父の言葉が事実であったことが分かりました。凛々しい柔道着姿の父の写真もあり、「父ながら素敵だな」と思いました。

海外に師範として派遣される予定もあったそうですが、出発前の試合で膝を負傷し、選手生命を断たれました。きっと、とても悔しかったことでしょう。入院中は見舞い客も次第に減り、寂しさを感じたと話してくれた父の言葉から、実力社会の厳しさを学びました。

研究と爆発と、そして労働組合へ

父は会社の研究室に所属しました。あるとき、研究中の失敗か手違いか、研究室の屋根を吹き飛ばしてしまったという話を、父は笑いながら話してくれました。

祖父のお灸で牢屋事件、父の研究室爆破事件…。今の時代なら大騒ぎになるようなことですが、私はどこか「おじいちゃんもお父さんも、やってくれるなあ」と、誇らしく思ってしまいます。

柔道を断たれた父が次に全力を注いだのは、労働組合の活動でした。1970年前後、労使交渉が激しかった時代、父は労働者の先頭に立って闘っていたようです。家では、いつも会社名の入ったレポート用紙に向かい何かを書き、月のほとんどは出張で不在でした。

うろ覚えですが、父は週休二日制の導入や三交代勤務制の見直しなどに関わっていたと聞いたことがあります。組合活動が激化し、父は窓際に追いやられそうになったこともあったようですが、昔の柔道部の先輩が尽力し、助けてくださったと感謝していたのが印象に残っています。

何ごとにも全力で立ち向かっていく――それが私の父でした。

続きは母との出会いです。


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