『不機嫌猫と聖母の涙』:④
「みんな、おはよう。
今日は先生が知り合いのお爺さんから聞いた、とっておきの話を聞かせてあげよう」
化学教師の岩見は、自分の目には見えない教え子たちが、そこに居ると信じて話し始めた。
「ある春の温かい夕暮れの事だったそうだ。
お爺さんは夜桜を見に行こうと思い立って、車で出かけたのだが、桜の名所まであと少しという所で、道路の先で大事故があったようで、通行止めになっていた。
夜桜を見るのは断念せざるを得ない。が、そのまま帰るのではつまらないので、その道の手前に骨董市を開催している公園があったことを思い出して立ち寄ってみる事にした。
公園にはあちこち提灯が下がっていて、骨董品販売の業者や、地元の人たちが、売りたい物を台の上に並べて売っていた。
何か一つ買って帰ろうかと、ぶらぶら見て回っていると、公園の奥の方、台の上に並ぶ骨董品の中に気になる物を見つけた。
それは陶器で出来た高さ30センチぐらいの聖母マリアの置物で、お爺さんはキリスト教徒ではなかったが、その顔立ちが、訳あって長年会えずにいる娘さんによく似ていたので気になったのだ。
売っていたのは地元の農夫らしき少々くたびれた感じの中年の男。
自宅の納屋にあった不用品を売っているようだった。
他の店の売り手のように愛想良く購入を勧める訳でもなく、ミカン箱に腰を下ろして、客には関心無さそうに煙草をふかしている。
マリア像にはそこそこの高値の札が付いていたが、お爺さんは値引き交渉もせずに買って帰宅した。
家に帰り、袋から出して、その像を改めて見ていると、像の中から何の動物かは分からないが小さな鳴き声が聞こえたそうだ。
そのマリア像は中が空洞になっているので、底の方から覗いてみた所、小指サイズぐらいの生き物が潜んでいるのが見えた。
見た目はネズミの赤ん坊に似ているが、嘴があるのでネズミではないようだった。
かと言って鳥の雛でもない。
お爺さんは指を入れて取り出そうとしたが、その動物は奥の方に逃げてしまって指が届かない。
警戒心が強くて臆病な動物らしく、奥の方で身を縮めてブルブル震えている。
そしてたまに「ぴちゅぴちゅ」とか「ルルル」と小さな声で鳴く。
そこでお爺さんが鳴き声を真似てみると、奥の方にいた動物は首を傾げ、近くに仲間がいると思ったのか、そろりそろりと出口の方に向かって来た。
お爺さんが鳴き声を真似ると、また首を傾げてから、そろりそろりと。
そんな事を何度か繰り返し、お爺さんが出口の所で手の平を上に向けて待っていると、その動物は手の平に飛び移った。
短い尻尾を振って、喜んでいたようだとお爺さんは言っていたよ。
お爺さんの家には、友人から譲り受けた保護猫がいて、その猫がお爺さんの手の平で鳴いている動物に興味津々で近づいて来た。
お爺さんの腕に手をかけて、自分にも見せて欲しいとせがむので
『食べたりしたらいけないよ』
と言いながら、お爺さんは自分の手の平を猫に近づけた。
すると、小さな動物はジャンプして、その猫の頭に飛び移り、次には猫の耳の穴の中に入って行ってしまったそうなんだ。
驚いた猫は頭を振って、耳の穴からその動物を出そうとするが出て来ない。
お爺さんも慌てて、猫の耳の穴を覗いて見たが動物の姿は見えない。
動物の鳴き声を真似て呼んでみると、耳の奥の方で微かな鳴き声がするんだが、動物の姿は見えないし、出てくる気配がない。
猫は耳の奥で鳴く動物の声が煩いのか、ひどく不快そうな顔をしていたそうだ。
それ以来、その猫はずっと顰めっ面をしているので、謎の動物はまだ耳の奥にいるんだろう、とお爺さんは言っていたよ。
そのお爺さんはもう亡くなってしまっているんだが、猫はまだ元気に生きていて、どうやら謎の動物も耳の中にまだいるみたいなんだ。
嘘じゃないぞ。
先生はその猫の写真を持ってる」
そう言って、化学教師は自分のスマホの待ち受け画面を表示させ、ニヤリと笑んで
「ほら、不機嫌そうな顔をしているだろう?」
突き出すように生徒の席の方に向けた。
それはジュエルの写真だった──
アオイは化学教師──光樹の話を、自分の祖父が彼に語った作り話として聞いていたが、大災害の数日前に、窓の外を見ていたジュエルが奇妙な声で鳴いていた事を思い出していた。
ぴちゅぴちゅルルル……
そう鳴いていたのではなかったか...?
あれはジュエルの鳴き声ではなく、ジュエルの耳の奥にいる謎の生物の鳴き声……?
まさか──。
化学教師は一度深呼吸をしたあと、決意を込めた目で再び口を開いた。
「先生の君たちへの授業はこれで終わりだ」
そう言って、アオイから聞いていた、出席はしているが見えない教え子が、確かにそこに居るものとして、
一人一人にゆっくりと、優しく視線を向けた。
「君たちには、これから行かなければならない場所がある。
そこには勉強も宿題もない。病気や戦争や災害もない。のんびりと安らげる場所だ。
いずれ僕もそこに向かうが、まさか君たちが先に行くことになろうとは……
君たちが避難していた公民館があんなに脆く崩れるとは……」
化学教師の声が震え、彼はそこで不意に生徒たちに背を向け、天を仰いだ。
涙を堪え、呼吸を整え、再び毅然とした態度で生徒たちの方を向く。
「向こうでミッションの計画でも立てながら、待っていてくれ。
僕がそっちに行った暁には、いつでも受けて立つぞ。
それじゃあ、
約束の地でまた会おう」
それから化学教師は、いつもの授業終わりのように、出席簿を小脇に抱えて教室を後にした。
アオイが彼を追って廊下に出ると、彼は教室のドアに背中を向けてコートの袖で涙を拭っていた。
「あれで良かったのかな……」
呟くように彼が言った。
「生徒達に引導を渡したのね。立派だったと思うわ」
アオイは優しく彼の背に手を当て、頷いた。
「彼らは迷わず行ったはずよ。みんな光に包まれて消えて行ったわ」
「それなら良かった..…….」
アオイと光樹が半壊した校舎から出ると、体育館の出入り口の所に人だかりがしているのが見えた。
集まっているのは校長と保健室の養護教諭、町役場の職員、地元の診療所の医師らだった。
白衣の上に真っ赤なコートを羽織った養護教諭が、光樹の姿に気づき、
「岩見先生」
と呼びながら、走って向かって来た。
「柊麻衣はこれからですか?」
光樹が聞くと、
「先程、ご遺族と一緒に火葬場の方へ」
「そうですか……」
火葬場は近年は使われなくなっていた旧炉を、ディーゼル発電機を使用して稼働させていた。
遺体を骨にするのに時間がかかり、町中から集めた燃料の軽油の量もたかが知れていた。
遺骨は、すぐに引き取れない遺族は寺に預け、葬儀は後日、合同で行われる事になっている。
「そちらの方は?」
と、養護教諭がアオイをチラリと一瞥して光樹に聞いた。
「僕が間借りしている家の大家さんです。いつも体育館で追悼のピアノを弾いてくださっている……」
光樹はアオイをそう紹介した。
「ああ……てっきり彼女さんと教室でデートしてるのかと思いましたわ」
「こんなに大変な事態になってる時に、そういう冗談は」
憮然とした光樹の言葉を無視するように、養護教諭は
「お疲れ様です」
と、事務的にアオイに頭を下げた。
「いえ...」
アオイは心に引っかかるものを感じながら、軽く会釈をした。
「では大家様も一緒にこちらへ」
「何かあったんですか?」
光樹は体育館の出入り口を見遣りながら養護教諭に聞いた。
「今朝来てみたらご遺体が一つ増えていて、誰が搬入したものか身元が分からなくて」
つまり、そのご遺体が知ってる人かどうか見て欲しいという事のようだった。
アオイは気が進まなかったが大人しくついて行った。
「ああ、森下さん。今日もピアノを?」
校長がアオイに声をかけて来た。
アオイは校長とは、体育館のピアノを弾く許可を貰う時に、光樹が仲介して一度会っている。
「いえ、今日はお取り込み中のようなので」
「こちらはすぐに済みますから、是非」
「では後で一曲だけ」
「ありがとうございます。
ご遺族の皆さんも、ピアノを弾いてくださっているのは誰かと、聞いて来られますよ。
みんな自分が生きる事に精一杯で、死者には何もしてやれませんから」
校長の言葉にアオイは曖昧に微笑み、無言で頭を下げた。
遺体安置所となっている体育館内には、死の臭いが漂っていた。
連日の気温の低さが遺体の腐敗を遅らせてはいるが、出血を伴う外傷のある遺体が多く並ぶその場所は、元々血の臭いが苦手な光樹には近づき難い場所だった。
だから、その場所に連日ピアノを弾きに通っているアオイをリスペクトしていた。
聖母のような人だと思う。
光樹は嘔吐きそうになるのを堪えながら、ブルーシートの上に横たわる身元不明の遺体に近づいた。
上品な薄茶色のコートを着たロングヘアの女性だった。
焦げ茶色の革のブーツを履き、歳は20代後半から30代前半ぐらいか。
どういう亡くなり方をしたのか、整った顔に苦悶の様子はなく、まるで眠っているようだった。
着衣に泥などもついていない。
知らない人だと思った。
「会った事もないと思います。僕の知らない人ですね」
光樹が言い、アオイも
「私もこの方の事は何も分かりません」
と続けた。
それを聞いた町役場の職員は深く頷き、
「わかりました。ではやはり身元不明という事で順番通り荼毘に付しましょう。
もし何か分かったり、ご遺族が現れた場合は連絡してください」
と、校長と養護教諭に言って、忙しそうにそそくさと引き揚げて行った。
アオイは校長たちの用事が済むのを待つ間、光樹と一緒に体育館を出て、ピアノを弾く指がスムーズに動くように、手を擦ったり息を吹きかけたりして温めていた。
「手、冷たくなっちゃいました?」
光輝がアオイを気遣って聞いた。
「ううん、そうでもない。弾く前のウォーミングアップみたいなものよ」
「なるほど。……しかし、校長たち遅いですね。すぐに済むって言ってたのに」
体育館の中では、校長と町医者がグランドピアノの前で呑気に談笑していた。
その隣に、養護教諭がアオイ達の方を向いて立っているのだが、アオイには光樹が彼女に睨まれているように見えた。
「光樹君、保健の先生と何かあったの?」
アオイが小声で聞くと
「え? 何もないですけど?」
「でも睨まれてますよ?」
声を顰めてそう言ったアオイに彼は首を傾げた。
「いや、別に身に覚えは」
しばらくすると、アオイの背中に、誰かがドンっとぶつかって通り過ぎて行った。
その衝撃で前のめりに転びそうになってしまったが、何とかバランスを取って転倒は免れた。
「大丈夫ですか?」
「うん..….」
「あら失礼」
振り返ると、ぶつかって行ったのは件の保健室の養護教諭だった。
瓦礫が散乱した校庭を横切って、校門に向かう後ろ姿──
殺伐とした薄暗い灰色の風景の中で、コートの赤色がひどく攻撃的に見えた。
(睨まれていたのは私?
さっき初めて挨拶をした人に、なぜ..….?)
「森下さん、お待たせしました」
校長がアオイに声をかけ、町医者と連れ立ってその場を後にした。
アオイは理不尽な思いを抱えながらピアノに向かったのだった。
𝙉𝙚𝙭𝙩 ︎ ↓
