【東京お仕事物語】長葱町田|私の戦い方
町田のホテルで、はじめて“表”の仕事をした。
それまで五年間、私は裏方の調理スタッフだった。
大量の野菜を洗い、刻み、運ぶ。
とくに長葱を刻むのが好きだった。白と緑の境目を、一定の幅で揃えていく時間は、無心になれる。
けれど、いつも暖簾の向こうで働く接客係の姿が気になっていた。
せっかくなら、きちんとした場所で学びたい。
そう思って選んだのが、町田の中では洒落た雰囲気のホテルに入っている懐石料理店だった。
制服を整え、お座敷に入る角度を教わる。茶道で習った歩き方が、ここで役に立った。
ソムリエからは、ワインを一滴もこぼさず注ぐ手首の角度を教わった。
厨房の隅では、料理長が花をいける。器と季節の関係を、横目で盗み見た。
覚えることが多くて、楽しかった。
出勤するといつも、白髪交じりで恰幅の良い中年男性がカウンターの定位置に座っていた。
日に焼けて赤みを帯びた顔に油の浮いたような艶めいた顔。白いポロシャツに半ズボンは、遊び尽くした果てに行きついた姿なのだろう。
都内で熟女バーを数店舗経営しているという。
よくいるただの常連客だと思っていた。
ある日、ようやく慣れたビールサーバーから、慎重にグラスへ注いでいると、その男性がにやにやと笑った。
「ねぇ、唾を入れてよ」
一瞬、意味がわからなかった。
顔を上げず、聞こえなかったふりをした。
店は何事もなかったように回っていく。
数週間後の夜。
その男性が、いつもの席に座っていた。
そこへ、ロングヘアのパーマに昭和の濃い化粧をした女性が、ヒールの音をカツカツと鳴らしながら勢いよく店に入ってきた。
怒っている。般若のような顔で、一直線にカウンターへ向かい、男性の前に立つ。
次の瞬間。
ガシャン。
手に取った皿を、床に叩きつけた。
分厚くて美しい器たちが粉々に割れる。
店の空気が凍る。
「ふざけないでよ!」
怒鳴り声。
また一枚、皿が飛ぶ。
私は呆然として動けなかった。
ただ立ち尽くしていた。
怒鳴り声。
グラスの音。
必死に止めようとする支配人。
店の空気が凍りつく。
呆然としながらも、私は、
「確かに、あれは熟女だな」
と妙に納得しながら立ち尽くしていた。
そこに険しい顔をした支配人が足早にやってきて低い声で言った。
「厨房に入って」
眼前で皿が割れるよりもはるかに衝撃だったのは、この後のことだ。
一つ下のアルバイトの男の子がなんの悪びれもなく言った。
「僕、毎回なつさんのシフト聞かれて、出勤日教えてました」
その瞬間、背中が冷えた。
毎日来ている常連客ではなかった。私の出勤日に合わせて来ていただけだったのだ。
「まさか、私が原因だったとは」
その日を境に、私はホールに立てなくなった。
「奥様がお怒りだから」という理由で、出禁になったのは、なぜか私だった。
翌出勤日の開店前。全員がホールに集まり話し合いになった。
議題は当然、私をどうするかということであった。
支配人は腕組みをして俯く。
店長はしきりに謝罪ような、同情のような言葉を並べ続けてくれていた。
一瞬訪れる沈黙が、重い。
しばらく考え、私は右手を軽くあげて料理長にこう言った。
「長葱、切れます。」
再び、包丁を握る。
カウンターで料理人に手元を見られながら、葱を刻む。
包丁を渡され、まな板の前に立つ。
葱を縦に裂き、芯を抜く。
刃を寝かせて、一定のリズムで刻んでいく。
トントントントン。
幅を揃える。
急がない。焦らない。
音と手の動きがぴたりと重なる。
細く、同じ太さで、静かに積み上がっていく白い線。
上手くできた白髪ネギは、最後にふわっと手のひらでまとめると、綿菓子のようにやわらかく丸まる。
「持ち方、ちょっと違うけど。なかなかうまいじゃん」
料理人が言った。うれしかった。
白い葱が、規則正しくまな板に並ぶ。静かで、正確で、特別なハレの日の食卓につながる仕事は楽しかった。
けれど、やがて限界が来た。
素人なので当然、懐石の調理を任されることはない。
ホールにも戻れない。
表にも立てず、奥にも進めない場所に、長くはいられなかった。
私は文字通りどこにも立つことができなくなってしまっていた。
カウンターの隅にいながらも、例の夫婦がご来店すると支配人からの視線の合図を受け取り、厨房の入り口にさっと身を隠す。
ホールとカウンターを繋ぐ狭い入り口を塞ぐ私に、毎回お皿を持った料理人が
「ちょっとごめんよ」
と哀れみの目線で声をかけながら通る。
明らかに邪魔でしかない。
その後もちょっとした事件があり、なんだかいやになって私は店を辞めた。
接客は向いていなかったんだ。
当時はそう思った。
けれど今思えば、向き不向きの問題ではなかった。
ただ、町田のそのホテルで、
私は初めて、“立つ場所”を自分で選ぶことの大切さを知った。
そしてやっぱり、私は、
黙々と長葱を刻むほうが好きだった。
セクハラをする常連客と、店で暴れた奥様が守られ、
被害者である私がホールに立てなくなる。
誰がどう考えてもおかしい。
その場にいた全員が、論理が破綻していることを理解していたはずだ。
それでも商売は続く。
羽振りのよい馴染み客を出禁にするわけにはいかない。
四方八方から哀れみと同情が向けられながらも、
誰も私と目を合わせられなかった。
みな、静かに下を向いていた。
売り上げは、給与に関わる。
生活がある。家族がいる。
正しさよりも、守らなければならないものがある。
私はその構造を、理解していた。
だから怒鳴らなかった。
泣きわめかなかった。
正義を振りかざさなかった。
代わりに、言った。
「長葱、切れます。」
それは、根っからの負けず嫌いによる意地だった。
同時に、自分の誇りを守るための選択でもあった。
結局のところ、
自分の誇りを守れるのは自分しかいない。
土俵に上がらなくてもいい。
何も持っていなくてもいい。
声を荒げなくてもいい。
それでも、戦うことはできる。
end.
