ベトナム独立運動家の考えた - キリスト教信奉者の侵略・暴力・搾取
最近戦前の話を続いて書きましたので、今回は江戸時代の安南(あんなん=ベトナム)の話にしようと思っていたんですが、それは次回以降にして、先に掲題の話を挙げたいと思います。
もう何年も前からテレビを見なくなりましたが、先日たまたま、ネット動画で最近日本国中で話題沸騰中の、某キリスト教系団体の幹部の方の記者会見を見ました。私は、元々そういった話題に興味薄く、関連ニュースも殆ど見て来ませんでしたが、久々にワイド・シーを興味深く拝見しました。。
イエス・キリスト様と聞きますと、私のような門外漢でも、直ぐに思い浮かべる教えの言葉があります。⇩
「汝(なんじ)の隣人を愛せよ」
世俗の人間ですと、実践に至るには大変難しい教えです。協会に所属して一心不乱に専心して勉強でもすれば、この大慈悲の心を得た悟りの境地に至るのかな、と想像していましたが、ワイドショー画面では、「信者の元夫」という「隣人も隣人、超隣人!」の立場にあるだろう人を「固より一切絶対に愛さない」姿勢が協調されて見えました。。。
「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」
これも、実践に至るには大変難しい、キリスト様の尊い教え。。。の筈。あれ、、💦ワイドショーの画面は、「相手が嘘を言うから、こっちも反撃する」という民主主義国家下での人民の正当権利のみをご主張に見えました。(相手がちょっと叩いて頬にかすった位で、めちゃ怒ってるやん。。。😅)
むむむ。。。若い時からこれだけに専心して来られて、長年キリスト様のお言葉(聖書)を勉強している筈なのに不思議だな??😵💫と、私の様な凡人にとっては単純且つ素朴な疑問が湧きます。。。
実は、私と同じ様にこの素朴な疑問を持っていた人が、仏領インドシナ時代のベトナムにいました。独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)です。(詳細は、こちらをご参考になさってください。→ベトナム独立運動家 ファン・ボイ・チャウの自伝|何祐子|note )
潘佩珠著『天乎(か)帝乎(か)』という本があります。(この本の詳細はこちら→ファン・ボイ・チャウの書籍から知る-他国・他民族に侵略されるとその国・民族はどうなるのか? その(1)|何祐子|note )原本は、クオン・デ候自伝の第14章に書かれている様に、潘佩珠が1920年頃から杭州に拠点を移し、「浙江軍事編集所」の発行する兵事雑誌編集者として働いていた頃、1923年にここで印刷されました。そしてその後、昭和7年(1932)の上海で日本語訳版が出版されています。邦訳者の南溟生氏(日本人)は、『訳者序』と『例言』の中で、「朔北の寒風ようやく和らぎ、野外の漂氷全く融け」た「陽春3月の末」に、中国巡遊の旅の終わりに立ち寄った旧知の老将軍の居宅で、思いがけずクオン・デ候と会ったことを述懐しています。
「突如「紹介する珍客がある」といって、彼は従僕に誰やらを請じて来いと命じた。「これは日本から来られた私の老朋友南溟生先生、ーーアンナン(安南)の王族クオン・デ殿下ーー私達は阮福民先生と呼んでる方…」」
その名を聞く事久しく、いつかは相遭う予感がしていた相手に、南溟生氏は特別な一種の感激を持って面会します。その時に、「クオン・デ候所贈」の本を贈られて、その中から「天乎帝乎」を選んで翻訳をした、と書いています。なぜ、この本を翻訳しようと思ったのか?その動機に、その当時の日本社会の嘆かわしい風潮を挙げ、こう説明しています。
「同州の先覚であるわが日本、今日の状や如何? 青年はただ眼前の享楽を追い、就職の難易と薪俸の多寡をのみ論じて、一片卓犖の気は尋ぬるに由なく、政治家は党争に没頭して議員頭数の争奪に他を顧みるのいとまなし。」
序文の日付は、昭和3年(1928)です。な、なんとも、、、これって、今のこと!?😅😅😅 と声を大にして問いて見たいですが、歴史は繰り返すんですねぇ、多分。えーと、因みに盧溝橋事件の9年前ですね。。。
更にですね、当時日本国内には、
「この時に当たって、安価にして神経衰弱的なるコスモポリタニズムの信者が、光栄ある建国の心を忘れ、人類の歴史を無視して、国基をさえ揺るがさんと謀れり」
と、こんな世情だった様です。この「コスモポリタニズム」をネットで調べて見ますと、言葉の起源は古く、なんと紀元前4世紀のギリシャまで遡るようです。「個人主義的にして普遍主義的な思想」とありますので、「~主義」や「~リズム」とか、「~カルチャー」とか、短い私の半世紀の過去の人生に於いても、振り返れば、泡沫の様にというかスライムの様に変化自在で、いつも忘れた頃に色々な手を代え品を変え、名を変え態を代え、浜辺の波のように繰り返し寄せ来たり。そしていつも『安価=手軽』で身近に近寄って来る。。常にこれに抗するが人類の使命か。故に「普遍」と定義しているのか、と、少々哲学的な気分に浸る主婦の私。。。
何れにせよ、⇧こんな当時の日本の世情を憂い、中国巡遊の旅に上がった南溟生氏は、そこで「排日声」で溢れて「混沌として安定の日を期しがたき支那の現状」を想い、「すなわち鬱を散ずるの便にも」と、ベトナムの国情を説かんと筆をとった、と書いています。
さて、この『天乎帝乎』、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、第1節『緒言』をこんな文章で語り初めます。
「われらが死なんとして死に得ず、活きんとして活き難き苦境に陥ってから、すでに60余年。われらの体質は弱く、知識は浅く、ただ柔順退嬰、人と争わず、天命に従い、天運と諦めやすい。」
生かさず殺さず。ただ搾取する為だけに経済、教育、全てを管理されて行くうちに、人々も自覚せずして、⇧のような「体質は弱く、知識は浅く、ただ柔順退嬰、人と争わず、天命に従い、天運と諦めやすい」民族的傾向が出来上がって来るのだ、、と潘佩珠は、警告しています。こんな民族性の顕著な島国があれば、「気を付けろ、目を覚ませ!」と教えてあげたいですねぇ。。😭
この『天乎帝乎』は、潘佩珠が、「天主(=イエス・キリスト)の使命を奉じて来た」筈のフランス人が、他民族の地を侵略し、悪虐な施政を施し、何故にベトナム人を此れほど苛むのか? という率直な疑問を投げかけた本です。
「我らの今日は墳墓に入りてこそ、はじめて安静を得ん。(中略)我らが生きて幸福なるは、彼らの好まぬところであり、死して自由たらんとするも喜ばぬゆえんである。強権者のわれらに対するは、ただ死にも得ず、生きるも得ざる苦境に置くにある。」
そして、こう続けます。
「この強権者とは誰ぞや。天主の使命を奉じて来たれりと自称するフランス、これである。」
「天主とは、誰ぞや。1922年前に生まれたというイエス・クリスト、これである。」
これに、潘佩珠は疑問を投げかけます。
「天主の使命を奉じ来たって、われらに対することかくの如きは、決してイエス・クリストの希望ではあるまい。また思い及んだところでもあるまい。」
そうですよねぇ。。。キリスト様は、『汝の隣人を愛せよ』と言いました。あ!『隣人』かぁ、『人』だ、『人』だけ愛せばよい、と解釈も出来るのか?と、こんな些末な議論は無用とばかりに、潘佩珠は続けます。
「あるいはわれら人類に非ずして、天帝(=キリストのこと)これを排斥して、その愛子の群れより除けよというのか」
『人ではない』と定義するつもりか? と疑問をぶつけるのです。
「否!否! われらも人類である。かつアジア民族中にあって、中華と相並ぶ古き国である。地理、歴史、人類、文化、一として中華と密接ならざるものがあるか」
戦前のベトナム知識人の文化レベルの高さは、潘佩珠の遺した文章からや、陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏編纂の歴史書(こちらご参考下さい→ 陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏『越南史略(Việt Nam Sử Lược)』の序文をご紹介します。|何祐子|note)や、『天乎帝乎』上海出版本(日本語版)表紙に寄せた、クオン・デ候揮毫(直筆)の達筆さからも伺えます。(一番上の画像写真)
しかし、フランス人は、自分達に従わない安南人=ベトナム人を誰彼構わず、徹底的に迫害しました。
「われらも既に人類である。何がゆえに、これを天父(=キリストのこと)博愛の圏外に排斥せんとするか!諸君もまたすでにわれらを天帝愛護の下に在りと認めるに、彼ら天主(=キリスト)の使命を奉じて来れりと自称する者どもが、なにゆえにわれらを圧制して、この極に至れるか!」
そうなんです。本当に不思議なんですよね。。ワイドショー見てても感じたんですけど、どこで『愛する』『愛さない』の線引きをしているのか。。潘佩珠は、私のこの『不思議』に思う気持ちを、『惑う』という言葉で表現しています。
「願うに、われらの大いに惑わざるを得ざるゆえんは、彼ら天主の使命を奉じて来たると自称する者、その残忍酷薄、人道を無視すること、この極に至れると見ては、いわゆる天父とは果たして何の真理ぞ!」
だから、究極的にはやはりこの疑問が湧きます。⇩
「イエス・キリストとは、果たして如何なる人ぞ!宗教家が日夜説くところの道徳とは、果たして何の意味ぞ! の疑問である。われらは皆、これを知るに苦しむ。」
潘佩珠のような頭脳明晰でも解らない、、私のような普通の主婦では全然解りません。(笑)
『天乎帝乎』の第2章は『人の国を亡ぼし、人種を亡ぼす宗教家』。この章では、フランスのベトナム侵略の誘因を作ったとされる、18世紀初頭のカトリック教神父、ピニョ―・ド・べエーヌのことと、フランスのベトナム侵略の先兵として、この宗教家がどんな働きをしたかの詳細が書かれています。(←後日別途記事を纏めたいと思います)そして、第3章は『ひそかに人種を滅せんとするフランス政治』とし、「乙、人種を隠滅する法律」、「丙、人種隠滅する特別手段」、「丁、人種隠滅の官制」を挙げて、当時の仏領インドシナの悪政を詳しく暴露しています。こちらに→ ファン・ボイ・チャウの書籍から知る-他国・他民族に侵略されるとその国・民族はどうなるのか? その(2)|何祐子|note一部を紹介していますので、ご参照頂ければと思います。
第2章、第3章で、潘佩珠曰く、「一言これをおおえば、彼(=フランス)は、ベトナムを治めるに人道をもってせず、妖魔の術、禽獣の道をもってこれを取り扱うのみ」と、「妖魔」「禽獣」とまで表現するフランスの悪政、「諸君は未だベトナムの地を踏まず、ベトナムの内情を察せず、あるいは予の言を信ぜぬであろう」と、読者の読後の「えー、嘘だー。信じられない。」という反応にもちゃんと釘を刺すという程の悪行の数々。。。それらをぶちまけた上で、第4章『結論』では、このように結論付けています。
「欲海滔々、径を宗教家に借りて、強権家の目的を達する者、何ぞ数うるに勝えん、われら痛みをふくみ、苦を忍び、人に背かれて涙を拭う。思うに茫々たる四海、蕩々たる五洲、慈善道徳の語は、ことごとく虚偽の談である。」
真面目な者は、ただ騙されて涙を拭うのみ。欲の海で、強権者はその目的の為に宗教の名を借りている、と、潘佩珠は言ってます。でも、何故でしょうか。この不条理、不合理に対する真面目な者の訴えは、どうして世間の憐みを集め難く、また孤立しやすいのか? この現象にも、潘佩珠は言及します。⇩
「わが徒涙を揮って人に訴えるも、何人がわれらを憐れもう? いわんや強権家の勢威爵赫々、横謀周到、まさに英米を抑え、日露をはばからしめ、しかもまた偽宗教家が、その波を推して、その虐を助ける。われらいずこに向かってか、その不平を訴うべきぞ!」
なるほどぉ、、、。いつも思うんですけど、この潘佩珠氏は、文章力もさることながら、分析力が鋭いのでいつも感心しきりです。潘佩珠曰く、強権家は常に先周りをして、同調圧力を掛けたり(=勢威爵赫々)、政治家を抱え込んで(=横謀周到)、世論を抑えたり(=まさに英米を抑え)、世論を蔽う目的で関係ない方向で戦争・諍いを誘発してみたり(=日露をはばからしめ)、するんですねぇ、、 えーと、これは100年前の事です、念のため。(笑)😅😅😅 でも、なんとはなしに、今でもとても参考になりますねぇ。。。
潘佩珠は、宗派の異なる、強権家でないところへも、怒りの矛先を向けます。
「あるいはいう、フランス人の奉ずるところはカトリック教であって、他の耶蘇(=キリスト教のこと)とは、その教えを異にすと。(中略)しかしながら偽教の凶悪を見てこれを攻めず、黙認してその悪を済さしめ、人類の痛苦を見て救わざるは、これ自ら私の利を営み、キリストを奉ずるを名として生活する者のみ。道徳を仮りてその私を行なうのみ。耶蘇の仮面を頂いて盗跖の真相をおおう者のみ。」
そういえば、最近日本国中で話題沸騰の某宗教団体以外にも、確か沢山、沢山、同じような団体があった筈なんですけど、最近何故か、ひっそりしてますねぇ。。。これを、潘佩珠は、
「かくの如くであるなら、「人を愛すること己のごとし」という耶蘇教の真理存するか?」
と、指摘しています。実際、どうでしょう…。
こうなると、「じゃあ、キリストが愛する人ってどんな人なのよ?」と、当然潘佩珠も、この事にこう言い及びます。
「ある人のいう、キリストの愛するは、富裕の人のみ。貧賤の人はイエス・キリストの愛する者に非ずと。」
これに、このように反論しているです。
「果たしてしかるか、すなわちわれらの土地金銭は、すでにことごとくフランスカトリック教の奪うところ」
そう極まったのだから、今はもうベトナム人の求めるのは、ただ「天賦人種の小部分のみ」だと訴えます。
「けだしベトナム人の今日フランス人に要求するところは、土地の回復ではない。権利の回収でもない。ベトナム人の要求はすなわち、ただ「天賦人種の小部分のみである。
この小部分とは何か? 曰く願わくばフランス人よ、われらの眼を解いて、その自由に見ることを許せ! われらの耳を放って、その自由に聞くを許せ! われらの手足を放って、その伸屈の自由を許せ! われらの頭脳を釈いて、思想の自由を許せ!」
これを得ただけでもう、「幸福はすでに極点に達したりと言い得る」と言うのです。。。 しかし、この「手足耳目頭脳による幸福」さえも、「カトリック教信奉のフランス人」は、被支配者に対して与えようとはしない。どうしてでしょうか。
『天乎帝乎』の最後、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、宗教を語りながら、他者搾取を止めない者に対して、こう結論しています。
「真に耶蘇(キリスト)復活の時あらば、われらもあるいはまた、再び蘇生するの望みあるべきである。いやしくもしからざれば今日以後の耶蘇教もまた、今日以前のカトリック教のごとし。要するに数語にてこれをおおうことを得る。
彼らはキリスト教を種に生活する者のみ!
彼らは道徳の名を仮りてその私を行なう者のみ!
その外面を金玉にして、その中を敗絮にする者のみ!
耶蘇(キリスト)の仮面を戴いて、盗跖の真相をおおう者のみ!」
以上、仏領インドシナと呼ばれたフランス植民地時代のベトナム独立運動家、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の書、『天乎帝乎』からでした。
今から100年前の本です。
