3月某日 感情と思想が大好き
昔から自分の感情を発露するのが苦手だった。「感情が表に出ないね」と言われたことは何度もある。なんとなく、自分は感情がわからない人間なんだな、と思っていた。だが、フィクションでは感情が発露する瞬間を見るのが大好きで、人間は感情があってこそ人間だとも思う。だからか、他人の感情の動きには敏感な方だ。
私にとって感情は自分で表現するものではなく、その場の状況の一部として察知するものとなっているのではないか、と考えている。観察対象と言ってもいいかもしれない。
だから他人といるときに私は感情を出さない。じっと身を潜め、他人の感情を眺めている。"無"か同調・共感していることが多い。だが、強すぎる他人の感情を見ると、なんて面白いんだろう、と興味深く思ってしまい、笑い出すことがある。親しい人以外には隠しておきたい癖の1つである。
自分の感情は一人でいるときに思い出しながら紙上で発露する。本当に好きな本も一人でこそこそ読む。本を読んでいるときは感情が顔に出ているらしいからだ。どうやら私は、自分の考えていることを他人に察知されたくないと思っている節がある。なぜなら、私は噓がつけないからである。ツンデレなんてもってのほかだ。自分の思っていることと逆のことなんて到底言えない。人狼やマーダーミステリといったゲームが苦手な理由もわかる。
反対に、思想についてならいくらでも話せる自信がある。たとえば「結婚したい理由」のような話題に対して、感情面では借り物ばかりの陳腐な意見になってしまうが、「このメリットを使いたいから」という制度に対する意見ならある。とにかく深掘りする性質のようで、「考えすぎ」とよく言われる。考えるだけならタダだから、と思っていたのだが、結構脳を使うものらしく、オーバーヒートすることもたまにある。楽しいからついやってしまいがちだ。よく寝る理由もそこに関係していそうだ。
以前の記事に書いた雑談がわからない理由も、会話に思想を求めてしまうからではないかと思っている。軽い話がなかなかできない。「この人は何を求めて私に話を振るのだろう」と考えてしまうのだ。きっと何も求めていないというのに……。自分の思っていることを他人にも押しつけてしまっている。よくない。
思想バトルと感情のぶつけ合いが好物であるため、同じ熱量で返さないと、と無駄に気負っている。接客業が向いていないはずだ。
小学生の頃、友人のことをとことん嫌っている男の子がいた。彼は友人のことが嫌いなはずなのにわざわざちょっかいをかけてきては悪口を言いに来た。見かねた私が「なんで嫌いなのに話しかけてくるの? 嫌いなら無視すればいいだけの話だよね。なんでわざわざ関わってくるの?」と言うと興が冷めたかのように彼は黙ってどこかに行った。当時の私は「なんだあいつ」と思っていたが、きっと相手もそう思っていたことだろう。裏に隠された感情があったかどうかは知らないが、そういうものがあるということも知らなかったし、ましてや「嫌いな相手に悪口を言ってその反応を見るのが楽しい」なんていう感情があることも知らなかった。
対人関係でまあまあ疲れるのは、反応を示すことだ。意思表示はできるのだが、そこに感情を乗せる作業は意識しないとできない。「人間関係難しい~」と一言で言えば簡単だが、たぶんこの内容で悩んでいる人は少ない気がする。
感情を出すのが楽しい、とはそうそうならないと思うので、どう社会と折り合いをつけるかについてを考えなければなるまいね。AIになれたらいいのにな。倫理的に許されないだろうけど。
