The Street Tea Seller in Kyoto
春は桜の散策日和。
もし川の土手に、湧き水で淹れた美味しい煎茶を飲ませてくれて、
禅の道を優しく楽しく語ってくれるお爺ちゃんがいたら・・・
会ってみたいと思いませんか?
しかも、投げ銭を入れる筒に「お代はいくらでも結構。ただで飲むのも勝手なり」なんて貼り紙がしてあって、商売家はゼロ。気兼ねは無用です。
けれど「“ただ以下”には まけられません」とも。
* * * * * * * * * *
賀茂川沿いの小径を歩きながら、売茶翁と名乗るそのお爺ちゃんに会いたくてたまらなくなりました。
黄檗宗の高僧として生涯安泰だったはずの身分を捨て、ぼうぼう髭を生やし、六十歳で「ストリート・ティー・セラー」になった人。
その人を顕彰する碑が、賀茂川の「北大路橋」東詰めにあります。
もしよろしければ、その顕彰碑まで 枝垂れ桜の下を散策しながら、
売茶翁の話におつき合いくださいね。
(4,000文字を超えてしまいましたので、お時間の許す時にでも…)
* * * * * * * * * *
散策の出発地点は北山大橋。
900m下流の北大路橋まで、「半木の道」が続いています。


ここの枝垂れ桜は昭和48年に植樹されたもの

右岸(賀茂街道)にはソメイヨシノ
今日は川の水量が少ないです
この「賀茂川」は、出町柳付近で高野川と合流し、「鴨川」と表記を変えて、さらに南へと流れていきます。
* * * * * * * * * *
今からちょうど300年前、江戸時代中頃の京都。
春は桜、夏は清流、秋は紅葉の元で「移動式喫茶店」を開く人がいました。
湧き水を汲み、湯を沸かし、急須で煎茶を淹れて、誰にでも分け隔てなくふるまいます。
日本で誰よりも先に 庶民に煎茶を広めた、売茶翁です。
平安時代には存在していたとされる枝垂れ桜ですが、
売茶翁たちがどのような桜を愛でていたのかは、分かりません…。
日本古来の野生種だったかもしれませんね。

売茶翁はどんな桜を見ていたのでしょう
売茶翁は、住まいを兼ねた小さな店も持っていました。
場所は、鴨川の支流にかかる「第二伏見橋」。東福寺の近くです。
現在は橋の親柱だけが残る暗渠となっていますが、当時は伏見街道を通る人々で賑わっていました。
店の名は「通仙亭」。
店というより、屋台のような粗末な建物。
売茶翁は「蝸舎(カタツムリの棲み家)」と呼んでいました。
店主はまさに仙人のような風貌です。黄檗宗の僧であったため、僧衣に身を包んでいます。
時折、重たい茶道具を担いで 蝸舎を出ては、京都のあちらこちらで茶をふるまいました。
神聖な空気の漂う下鴨神社(糺の森)や、青もみじが鮮やかな東福寺(通天橋)などがお気に入りでした。

今回の記事はこの本を中心にまとめました
(売茶翁研究の第一人者 Norman Waddell氏によるものです)
よもやま話に包んで禅道を説き、朗らかながら鋭く核心を衝く話術で、
売茶翁はたちまち大人気になり、「通仙亭」は文人墨客のサロンと化しました。
「売茶翁に一服接待されなければ、一流の風流人とは言えぬ」とまで言われたそうです。
通仙亭を開いたのが齢、六十のとき。
食べるものに事欠くような極貧でありながら、満ち足りた心持ちとお茶の効用でしょうか、88歳まで長生きしました。
売茶翁の没後に生まれた、大田垣蓮月や富岡鉄斎なども、心から慕っています。蓮月さんの陶芸作品も、煎茶用の急須でしたものね。
本の表紙にある肖像画は伊藤若冲によるものです。
若冲は人物画を描かないことで知られています。
その若冲が「生涯の憧れ」として、何枚も描いているのですから、よほど魅力的な人であったのでしょう。
「売茶翁なくして若冲なし」と言われるほど、若き若冲は影響を受けました。
(二人には44歳の年齢差があります)
* * * * * * * * * *
当時 茶の湯といえば抹茶です。
しかし売茶翁は、格式ばった茶の湯に対して疑問を呈し、
急須で淹れる煎茶を、気軽にふるまうようになりました。
本来は茶禅一如(茶道イコール禅)。
真の茶道の「精神性」を学んだ売茶翁は、上流階級の茶道を「形式的」だと感じていたのです。
売茶翁が、文化人に限らず 多くの人々に愛されたことが、
作者不詳の『落栗物語』に書かれています。
「身分の高い低いは翁にとって何の意味もなく
茶代を払おうが払うまいが気にもしない
誰ひとり、不機嫌な顔を見たことがなく
真の偉人、素晴らしき人として
みんなに愛されている」

* * * * * * * * * *
どうして、売茶翁は煎茶に関する知識や茶葉を得ることができたのでしょうか。
理由の一つは、彼が肥前 鍋島藩の武家の出身であること。
長崎に入る中国文化にいち早く親しむことができたからです。
漢詩や書はもちろんのこと、煎茶についても詳しく学んでいます。
もう一つは、11歳で出家し 日本三禅宗の一つ 黄檗宗の僧として生きてきたことです。
黄檗宗といえば、明(福建省)から渡来した隠元が開祖。
この隠元、インゲン豆を始め、レンコン、スイカ、孟宗竹、木魚など… 様々なものを日本にもたらしてくれました。
煎茶もその一つ。
売茶翁は隠元没後に生まれていますが、隠元が創建した宇治の萬福寺を何度も訪れ、長い時は4年間修行しました。(萬福寺には「売茶堂」があります)
開業当初の売茶翁が使用した茶葉は、鍋島藩から取り寄せた中国産で、お茶は文字通り「茶色」でした。
やがて、日本各地の寺院で栽培される茶や、宇治の茶葉を用いるようになり、甘みのある緑茶となったようです。
* * * * * * * * * *
実は、驚いたことに…
店を開いた時、売茶翁は仏教界の「掟破り」をしていたのです。
まだ身分は月海という僧。
僧は「布施のみ」で暮らすのが「正しい」とされ、
自らの手で収入を得ることは違反行為だったのです。
それでも、売茶翁はこう反論します。
「袈裟の仏徳を誇って、世人の喜捨を煩わせるのは、私の志にあらず」と。
お布施という安定収入にあぐらをかく禅僧たちへの、痛烈な批判です。

孤高の売茶翁に重なります
何やら対立の構図が見え、ハラハラしますが…
そこは機知に富む売茶翁。
今でいう「よくある質問コーナー」を設定して、
架空の質問者(茶を飲みに来た客)に回答する形式で、自分の考えを書き残しています。
「客人からの質問にお答えして」
【質問】僧は寺院に住まい、布施で暮らすものです。布施が来ない場合は、托鉢に出て乞食(こつじき)をするものです。それこそが釈迦牟尼の教えです。
それなのに、あなたは俗人のように都会に住み、お茶を売って生計を立てています。それは仏教の戒律に違反しているのではないですか?
【回答】おっしゃることは分かります。
しかし、すべては「心のあり方次第」。心が清らかであれば、どんな騒々しい場所に住もうとも、そこは浄土なのです。心は「悟りの境地」という寺院に住んでいるのですから。
現在の僧をご覧なさい。身体は寺院の壁に囲まれていても、10人に8,9人は世俗の埃にまみれている。
人々の善意を受け取るのが正しい道、との経典の言葉を引合いに出しては、信者の寄付を欲深く狙っている。
信者の側も、高い布施を払えば払うほど 徳を積んだと勘違いしてしまう。
それこそ、釈迦の教えに反することです。

信念をもった行動だったのですね。
威光を振りかざして布施を集めるのと、
糊口をしのぐために最低限の収入を自らの手で稼ぐのとでは、
どちらが好ましいかは明白ですものね。
「売茶翁」と名乗ってはいますが、本当の目的は茶を売ることではなく、
茶を通して、「あるべきようは」と問いかけていたのではないかと…。
これは私の推測です。
「あるべきようは」とは、鎌倉時代に高山寺を興し、日本初の茶園を作った明恵上人の言葉です。
「それぞれの立場で どうあるべきかを考え 行動しなさい」という教えです。(明恵の植えた茶が 宇治へ伝わり、宇治茶となりました)
* * * * * * * * * *

北大路橋が見えてきました。

売茶翁のすごさは、67歳のときに鍋島藩に願い出て 僧の立場から解放されてからの生き方にあります。
僧の身分を捨て、俗人「高 遊外」と名乗るようになっても、禅道の追求は怠りませんでした。
日常生活のルーティーンを丁寧に行なうことも含め、自らを律して修行を続けました。
驚いたことに、還俗してから真の悟りを開いた、と自ら書き記しています。
それまでは、客との何気ない対話の中でやんわりと禅の心を教えていましたが、積極的に指導するようになったのです。
どこに所属しているか、どんな肩書きか…そんなことは、その人の真の生き方には関係ないのだと思います。
だからこそ、彼を師として慕う人々は、売茶翁をいつまでも「月海禅師」と呼びました。
若き日の過酷な修行、東北地方も含む全国行脚、鍋島藩主の菩提寺での勤め、師への忠義、母親の看取り…
すべてをやり尽くしてから、やっとのことで自分がやりたいことをするために 50歳目前で京の都にやってきた月海。
60歳で売茶翁となって、80歳まで活動を続けました。
いよいよ引退という時、「欲深い人たちの手に渡るくらいなら」と、茶道具一式を燃やしてしまいます。
* * * * * * * * * *
こちらが売茶翁の没後250年に建てられた顕彰碑です。

右手の石碑に刻まれているのは、売茶翁が作った漢詩です。
左手には、若冲の描いた売茶翁と、漢詩の読み下し文。
現代文にしてみます。
「茶道具を担いで 窮屈な棲み家を出て
清らかな水の湧く場所を選び 鴨川に遊ぶ
鍋で淹れる茶は この世の味とは思えない
神仙を求めてわざわざ遠くまで行く必要はないのだ」
「墓石は建ててくれるな。遺灰を鴨川に流してくれ」との遺言どおり、鴨川に散骨されたと伝わります。
* * * * * * * * * *
売茶翁愛が強すぎて、長い記事になってしまいました(かなり削ったつもりなのですが)。
読んで頂いて、ありがとうございます。
(以下は、参考文献についてです)
売茶翁は数々の漢詩や散文を残しています。
それらが弟子たちによって『売茶翁偈語』にまとめられています。
私にはそれが難しすぎて、売茶翁研究の第一人者 Norman Waddell 氏(元・大谷大学教授)の英訳を頼りました。
参考文献:
Norman Waddell. The Old Tea Seller: Life and Zen Poetry in 18th Century Kyoto (Counterpoint,2010)
高遊外売茶翁顕彰会HP http://www.kouyugaibaisao.com/
『売茶翁偈語』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jpinfo:ndljp/pid/932317
狩野博幸ほか『異能の画家 伊藤若冲』(新潮社, 2008年)
