1985…スクリッティ・ポリッティ『cupid & psyche 85』〜80年代の名盤とデジタルシンセサイザーYAMAHA DX7
1985年、私はまだ十代で、音楽、映画、アートなど、今日に至るまで深く残るインプットが多い年だった。
科学万博(つくば万博、EXPO’85)が開催された年でもあり、未来のテクノロジーにある種の共同幻想を抱いていた時代でもある。
人によって捉え方は違うかもしれないが、私にはそんな時代の空気を感じていた。
事実、日本企業の工業製品のクオリティーは世界一だった。
クルマのデザインも幾何学的で、特にスポーツカーは、こぞってリトラクティブルヘッドライトを採用し、まるでSF映画の宇宙船だ。今見ればレトロフューチャーと思えるデジタルメーターにも未来を感じたものである。
ついでにSF映画と言えば『バックトゥーザフューチャー』と私の最も好きな映画の一つとなった『未来世紀ブラジル』も1985年の公開である。
アートの分野ではコンピュータ・グラフィックや映像が漠然と知れ渡り始めた頃で、新宿伊勢丹美術館で開催されたコンピュータアート展に行ったのも1985年のことであった。その時のパンフレットが以下である。

現代では、わざわざ「コンピュータ〇〇」のような言葉は当たり前すぎて使わないが、当時は「コンピュータ」とか「デジタル」というキーワードが最先端の象徴だったのだ。
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1985年を中心にその前後1年間1984〜1986年あたりは、私がその後に大きく関わることになる音楽業界も、まさにアナログからデジタルへの過渡期であった。
24チャンネルのデジタルテープレコーダー「SONY PCM3324」がレコーディングスタジオに導入され、主にデジタルシンセサイザーやリズムマシーンの出現は世界中のポップミュージックのアレンジ手法やレコードの質感を変えることになった。
12音階でできた西洋音楽の基本構造は変わらないにしても、テクノロジーが象徴的かつ過激に(あるいは過剰に)使われたのが、1980年代音楽の特徴の一つである。
その中心を担ったのがデジタルシンセサイザー「YAMAHA DX7」の存在だったと言っても過言ではないだろう。

YAMAHA DX7の発売は1983年。音楽業界に激震が走った。
DX7のファーストインパクトは、操作パネルにツマミがなく、シンプルで、いかにもデジタルを連想させる未来的な筐体デザインだったことだ。この操作パネルのアクセントカラーのグリーンは、後にボーカロイド「初音ミク」の髪の色となった。
その音は、従来のアナログシンセサイザーでは出せなかったアタックの強い煌びやかな音色に非常に驚かされた。
私がファーストインプレッションで最も驚き感動したのが、チューブラーベルの音色だったと記憶している。
また、それだけでなく、演奏に強弱をつけられるようになり、鍵盤をさらに強く押し込むとモジュレーション(ビブラート、音色変化等)がかかるアフタータッチ機能もDX7が世界初だった。
従来のシンセサイザーの鍵盤には強弱を検知するタッチセンサーがなかったのだ。楽器としての表現力も大きく広げることになった。
そして、それ以上に目を疑ったのはその価格だった。
248,000円という超バーゲンプライスだったのだ。
DX7出現以前にも、ドイツ製のPPG wave2.2という8ビットのデジタルシンセサイザーはあったのだが、価格は200〜250万円ほどでとても高額だった。
また厳密にはシンセサイザーではなくサンプラーではあるが、フェアライトが1200〜1600万円、イミュレーターが200〜300万円である。
これらの高額デジタルシンセ群の中にあっても、音質のクリアさと煌びやかさという点では、DX7が最も優れていたと言える。
DX7は、プロアマを問わず、これまで電子楽器とは無縁の音楽家にも認知され、世界中で爆発的にヒットした。人類史上最も有名になったシンセサイザーであろう。
私は、発売の翌年1984年にこれを手に入れた。
しかし、このDX7…実は致命的な大問題があった。
シンセサイザーとは本来、イメージした音色を自ら作るのを目的とした楽器なのだが、DX7の音色作りは非常に難解なものだったのである。
FM音源方式と呼び、これまでのアナログシンセサイザーとは概念が全く異なるプロセスを理解しないと、オリジナル音色が作れないものだったのだ。
また、たとえ概念を理解してパラメーターを操作しても、目的の音にはなかなか辿り着けず、試行錯誤と半ば偶然の奇跡を期待するしかなかった。
私のようなシンセオタクならそれも楽しいことなのだが、キーボード楽器として演奏だけを目的にした人に、真にこれを使いこなすのは難しかった。
プロの音楽制作現場では専門のシンセサイザープログラマー(マニピュレーター)が存在した時代だ。
では、なぜそんな七面倒くさいなものが爆発的に売れたのか?
その理由は、メーカーが予めプログラムした128音色の入ったROMカートリッジが付属され、初期設定では本体にも32音色がプログラムされていて、音色リストに割り当てられた番号のボタンをを押すだけで、とりあえず誰でもすぐに演奏できるものだったからである。
見た目もツマミだらけのアナログシンセサイザーと違って、そのシンプルなデザインは、逆にシンセサイザー導入のハードルをかなり低くした製品でもあった。
プロアマ問わず多くのミュージシャンは、音色を作らずに、メーカープリセットをそのまま使っていたのが現状だった。
当時、ラジオから流れる新譜も、テレビから流れるCM音楽を耳にしても、DX7の◯番のあの音!とすぐにそれとわかる音が溢れていたものである。
特に後世に残り定番音色となった有名なプリセットがプログラム11番のエレクトリックピアノと15番&16番のシンセベースである。
80年代のAORはそればかりだ。
後に別売の音色プログラムの入ったROMカートリッジがいくつも売られるが、高額だったので本体ほど売れなかったと思われる。
私としては、メーカープリセット音色が一部を除いて気に入らなかったので、ほぼすべて自分で作り直して使っていた。
プリセット音色は、曲よってはそのまま使えるものもあったが、いざ使おうとすると、中途半端にオーケストラ楽器に似せようとした音色ばかりで、ロック系のバンドやバックトラックでキーボード演奏に適した実用的かつシンセサイザーらしいカッコいい音色、現代的に言うとエグい音色が少なかったのだ。
メーカープリセット音色は、楽器屋で幅広いお客にインパクトを与えるためのデモンストレーション用の一面もあるからそれはそれで納得だった。その中途半端に似せたオーケストラ楽器や民族楽器に当時は誰もが驚いたのだ。私も含めて、皆その音色を聴いてDX7を購入したのだ。
それから、もう一つ、音色の明暗を分ける大きなポイントがあった。
90年代以降のシンセサイザーでは考えられないが、DX7には内蔵エフェクターがついていなかったのだ。
DX7に外部エフェクターのコーラスとリバーブを繋ぐと、俄然広がりのある豊かな音に変貌したが、DX7単独では本来の音の良さを引き出すことはできなかった。
当時はまだデジタルリバーブなど高価すぎて手の届くものではなく、せめてエレキギター用のコーラスやディレイを繋ぐだけでもかなり効果的だった。
デジタルリバーブを手に入れるのは、DX7を手に入れてからもう1年、1985年まで待たなければならなかった。
逆に言えば最新のシンセサイザーもエフェクターをオフにしてしまえば意外としょぼい音だったりする。
DX7もエフェクター込みで音作りをすると、かなりのところまで追い込めて、あのレコードのあの音も実はDX7だったんだとという発見もあった。
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そんな1980年代の楽曲の中で、DX7を最も効果的にカッコよく使ったアルバムが、表題のScritti Politti(スクリッティ・ポリッティ)『cupid & psyche 85』ではないだろうかと思っている。
イギリスのこのバンドについての詳細は省くが、当時を振り返ればかなり衝撃的なアルバムであった。
ドラムはほとんどがリズムマシーンではなく生演奏で、ここはやはり80年代らしくゲートリバーブの処理もされている。
ギターもしっかりと入っているが、シンセベースほかDX7で作ったと思しき音がトラックの随所に散りばめられ、どの曲も、ミキシングのステレオパンポットも含めて、あまりにも緻密なアレンジがされているのである。
そして、透き通るようなクリアな質感、リバーブ感の美しさは感動的だった。
絵に例えて表現するならば、多くの油絵の中に、一枚だけシルクスクリーンの絵画があるような感触に私は思えた。
このレコードの質感は、1984年頃にレコーディングスタジオに導入し始められたデジタルテープレコーダーSONY PCM3324の存在と、これまた出たばかりのデジタルリバーブの存在が大きいことは確かだが、元の楽曲の良さとボーカルの声質、緻密なアレンジと音色センスが全てが重なって出来上がったものである。
『cupid & psyche 85』で使っているシンセサイザーはもちろんDX7だけではないが、煌びやかなDX7の良さが非常に活かされているアルバムだと思っている。
それでいて、いかにも「最新のDX7使いました〜」という勢いで使ってしまったら後になって恥ずかしいメーカープリセットの音が入っていない。
海外には、ダサダサ音色を大胆に使ってカッコいい曲に仕上げてしまうアーティストも多いが、スクリッティ・ポリティはそういうタイプではなかった。
ヘッドフォンでよく細部を聴き込むと、もしかしたらプリセットのままかもしれないような音も入ってはいるが、他にも多数のアナログシンセサイザーだったり、フェアライトも上手くバランス良く使われていて絶妙にDX7が前に出ていないのである。
まあ下世話な話をすれば、少なくとも膨大な制作費をかけて作られたアルバムであることは間違いない。
正直、80年代の音楽を聴くと音質が悪かったり、音が薄かったり、時代の古さを感じるものだが、この『cupid & psyche 85』は今改めて聴いても惚れ惚れするような完成度の高さであると思っている。
今回の記事を書こうと思ったのは、あるプロジェクトを進めるに当たって、改めてFM音源方式のDX7を使ってみようと倉庫から引っ張り出してきたからだった。
1985年式の『cupid & psyche 85』はDX7のプログラミングには欠かせないリファレンス音源の一つであることを思い出して取り上げさせていただいた。
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それにしても、1980年代に流行した音は、年号が平成に変わるころには、流行遅れのファッションと同じ、非常にダサいものになった。
代表的なのがオーケストラヒットとゲートスネアドラムとDX7のメーカープリセット音である。
これらの音色は汎用の定番音色として、その後の多くのシンセサイザーや音源モジュールにプリセットで入っていたのだが、90年代になってこれを使うとセンスを疑われたものだ。
実は私は、DX7の煌びやかなエレクトリックピアノは元々好きではなかったが、一時期はついに吐き気がするほど嫌いになってしまっていたのだ。
以来、制作の仕事でDX7を使ったことは一度もなかったのだった。
私の中で、80年代の洋楽は85年の『cupid & psyche 85』で止まっている。
バブル期がきて、ディスコブームでユーロビートが流行ったり、ヒットチャートの曲も多数あったが、やはり私の中の80年代サウンドの象徴的アルバムは『cupid & psyche 85』なのである。
スクリッティ・ポリティは88年に次のアルバム『PROVISION』を出すが、〜85よりもDX7色が強くなっていて、こちらの方がDX7のリファレンス音源としては正解かもしれない。年代的にはおそらくバージョンアップしたDX7 IIを使用しているのだろう。それとDX7の次世代シンセであるローランドD50の音色も隠し味で聞こえる。曲は相変わらず緻密で〜85よりもさらに綺麗な音ではある。トランペットの巨匠マイルス・デイビスも参加しているが、〜85の感動まではなかった。今改めて聴くとこちらも良いが、キラキラしたサウンドにはすでに飽きている頃だった。
その反動か80年代の末期は、むしろ古いジャズとかボサノバ、それに近現代クラシックを聴くことが多かったくらいだ。
次の私の音楽的興味は、90年代に入ってクラブ系のムーブメントがきてからで、80年代のハイファイ志向からローファイへ回帰していった頃である。
