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うちのマネージャーは最強第35話

第35話
「Look at me」



 最近。

 武元唯衣は少しだけ調子が悪かった。

 体調じゃない。

 レッスンも問題ない。

 仕事もいつも通り。

 ご飯も食べてる。

 寝れてない訳でもない。

 だから余計に厄介だった。

 原因が。

 ちゃんと分かっているから。

 レッスン場。

 鏡張りのフロア。

 四期生達が必死に振りを合わせていた。

唯衣:「そこもうちょい!」

唯衣:「今の惜しい!」

宇衣:「はい!」

桃実:「もう一回お願いします!」

唯衣:「ええよ!」

唯衣:「できるまでやろ!」

 自然と声が出る。

 後輩を見るのは嫌いじゃない。

 頑張っている子は応援したくなる。

 できなかったことができるようになる瞬間を見るのも好きだ。

 だから。

 この時間は本来好きなはずだった。

 そのはずなのに。

 最近は少し違う。

○○:「宇衣ちゃん」

宇衣:「はい!」

○○:「今日、良かったですね素人目でも分かります!」

宇衣:「ほんとですか!?」

○○:「表情が自然になってます」

○○:「自信持って大丈夫です」

宇衣:「やったぁ!」

 宇衣が嬉しそうに笑う。

 ○○も少し笑った。

 ただそれだけ。

 本当にそれだけだった。

 なのに。

 唯衣の視線は勝手にそっちへ向く。

 耳も。

 意識も。

 全部。

 勝手に。

唯衣:(……あかん)

 慌てて目を逸らす。

 別に変なことじゃない。

 ○○は昔からああだ。

 ちゃんと見て。

 ちゃんと褒める。

 良いところがあれば言葉にする。

 だから後輩達も安心する。

 それだけの話。

 なのに。

 胸の奥へ沈めたはずの何かが。

 ○○の声を聞く度に浮かび上がってくる。

 まるで。

 水面の下へ押し込んでも。

 勝手に顔を出してしまう泡みたいに。

唯衣:(集中集中)

 四期生へ向き直る。

 今はレッスン中だ。

 余計なことを考えている場合じゃない。

 そう思った時。

○○:「桃ちゃんも良いですね」

桃実:「ありがとうございます!」

○○:「ターン綺麗でした」

桃実:「やった!」

○○:「武元先生の教え方が良いんでしょうね」

 どくん。

 心臓が大きく鳴った。

 思わず顔を上げる。

 ○○はもう別の方向を見ていた。

 特別な意味なんてない。

 ただ思ったことを言っただけ。

 分かっている。

 分かっているのに。

 嬉しい。

 悔しいくらい。

唯衣:(ほんまにずるい)

 口元を隠すようにペットボトルへ口を付ける。

 冷たい。

 でも。

 顔は熱かった。

 少しして休憩になった。

 四期生達が一斉に○○の周りへ集まる。

愛桜:「○○さん!」

宇衣:「感想聞いていいですか?」

桃実:「私もです!」

 楽しそうだった。

 ○○も自然に輪へ入る。

 前へ出ようとしている訳じゃない。

 目立とうとしている訳でもない。

 ただ。

 ちゃんと話を聞いているだけ。

 それだけなのに。

 みんな安心した顔になる。

 唯衣は少し離れた場所で座り込む。

 ペットボトルを弄る。

 気付けば。

 ラベルの端がぼろぼろになっていた。

 指先が勝手に剥がしていたらしい。

唯衣:(何やってんねん)

 苦笑する。

 相手は後輩だ。

 しかも。

 ○○は何も悪くない。

 優しいだけ。

 いつも通り。

 昔から変わらない。

 なのに。

 胸の奥だけが落ち着かない。

 見なければいいのに。

 気付けばまた視線を向けている。

 どうしようもなかった。

 その時。

○○:「唯衣ちゃん」

 びくり。

 肩が跳ねた。

 反射だった。

○○:「どうしました?」

唯衣:「な、何が」

○○:「今日飛ばしすぎです」

唯衣:「そんなことない」

○○:「あります」

 即答。

 唯衣は思わず目を逸らした。

○○:「最近特にです」

唯衣:「気のせいやろ」

○○:「気のせいじゃないです」

 逃げ道がない。

 昔からそうだった。

 誤魔化せる人はたくさんいる。

 でも。

 この人だけは駄目だった。

○○:「長いので」

 その一言で。

 胸の奥がきゅっと縮む。

 長いので。

 たったそれだけ。

 なのに。

 ずっと見てました。

 そう言われた気がした。

唯衣:「……」

○○:「無理しないでくださいね」

 優しい声だった。

 いつも通り。

 本当にいつも通り。

 だから困る。

 こんなの。

 好きになるなって方が無理やろ。

 ○○は四期生達の方へ戻っていく。

 唯衣だけがその場へ残った。

 少しだけ俯く。

 認めたくなかった。

 だから。

 まだ名前を付けていない。

 でも。

 胸の奥にあるそれは。

 日に日に存在感を増していた。

 見ないふりをしても。

 聞こえないふりをしても。

 もう。

 無かったことにはできないくらいに。



 レッスンは予定より少し長引いた。

 四期生達は最後まで必死だった。

宇衣:「ありがとうございました!」

桃実:「お疲れさまでした!」

愛桜:「失礼します!」

 元気な声が次々と響く。

 唯衣も笑顔で手を振った。

唯衣:「お疲れ!」

唯衣:「帰ったらちゃんと休むんやで!」

 そう言った本人が。

 一番休んでいなかった。

 ドアが閉まる。

 レッスン場は一気に静かになった。

 鏡に映るのは自分と○○だけ。

 唯衣は床へ貼られていた立ち位置用のテープを剥がし始める。

 本来ならスタッフがやる仕事。

 でも。

 気付いたら手が動いていた。

 最近はそんなことが多い。

 何かしていないと落ち着かない。

 考えたくないことまで考えてしまうから。

○○:「ありがとうございました」

唯衣:「ん?」

○○:「今日」

○○:「四期生ずっと見てたじゃないですか」

唯衣:「先輩やしな」

○○:「僕より見てましたよ」

 思わず手が止まる。

 そんなことない。

 そう言おうとして。

 やめた。

 少なくとも。

 見ていた時間だけなら本当だった。

○○:「助かりました」

 さらっと言う。

 まただ。

 そういうの。

 ほんまにずるい。

 剥がしかけたテープが途中で切れる。

 指先へ力が入りすぎたらしい。

 気付かないふりをして剥がし直す。

 すると。

○○:「唯衣ちゃん」

唯衣:「なに」

○○:「最近休憩減りました?」

 どくり。

 心臓が嫌な跳ね方をした。

唯衣:「……は?」

○○:「休憩です」

○○:「前はもう少し座ってたでしょう」

 言葉が出なかった。

 そんなところ。

 誰も見ていないと思っていた。

 レッスンの合間。

 水を飲む時間。

 座る時間。

 四期生と話す時間。

 最近。

 確かに減っていた。

 別に意識していた訳じゃない。

 ただ。

 じっとしていると落ち着かなかった。

唯衣:「気のせいやろ」

○○:「気のせいじゃないです」

 即答だった。

 逃がしてくれない。

○○:「休める時に休まないと駄目です」

唯衣:「そんな疲れてへん」

○○:「疲れてるかどうかの話じゃないです」

 唯衣は顔を上げる。

 ○○は珍しく真面目な顔をしていた。

○○:「頑張るのは良いんです」

○○:「唯衣ちゃんらしいですし」

 胸が少しだけ痛くなる。

 優しい声だった。

 だから余計に。

○○:「でも」

○○:「最近の唯衣ちゃん」

○○:「頑張るために頑張ってる感じがするので」

 息が止まった。

 視線が揺れる。

 剥がしかけていたテープが途中で千切れた。

 今度は誤魔化せなかった。

 図星だった。

 頑張りたい訳じゃない。

 頑張らなきゃいけない気がしていた。

 置いていかれたくなくて。

 認められたくて。

 見てほしくて。

 でも。

 そんなこと。

 言える訳がない。

唯衣:「……意味分からん」

 やっと出た言葉はそれだった。

○○:「なら良かったです」

唯衣:「どこがやねん」

○○:「本当に無理してる人は」

○○:「意味分からんって言わないので」

 少しだけ笑う。

 その顔を見て。

 唯衣は負けたと思った。

 また見抜かれている。

 また。

 自分だけ隠せているつもりだった。

○○:「唯衣ちゃんまで倒れたら困ります」

 静かな声だった。

 特別じゃない。

 きっと誰にでも言う。

 分かっている。

 分かっているのに。

 胸の奥へ落ちたその一言は。

 しばらく消えそうになかった。

 ○○は先にレッスン場を出ていく。

 一人残された唯衣は。

 剥がし終えたテープを握りながら小さく息を吐いた。

 困る。

 その言葉が。

 妙に嬉しかった。

 心配されたい訳じゃない。

 守られたい訳でもない。

 ……いや。

 たぶん違う。

 そうじゃない。

 本当は。

 もっとずっと情けなくて。

 もっとずっと重たい感情だった。

 誰にも頼りたくないふりをして。

 誰にも弱さを見せたくないふりをして。

 それでも心のどこかでは。

 ○○が気付いてくれることを待っていた。

 大丈夫やと言いながら。

 本当は全然大丈夫じゃないことを。

 平気な顔で笑いながら。

 少しだけ無理していることを。

 見抜いてほしかった。

 認めてほしかった。

 気にかけてほしかった。

 いつからこんなふうになったのか分からない。

 でも。

 ○○に見つけてもらえるだけで。

 張り詰めていたものが少し緩む自分がいた。

 それが嬉しくて。

 同時に怖かった。

 こんなにも一人の言葉に振り回されるなんて。

 こんなにも一人の視線を求めてしまうなんて。

 ○○にだけは。

 見つけてほしかった。

 胸の奥へ隠していた感情を。

 誰にも気付かれたくないくせに。

 誰にも踏み込まれたくないくせに。

 ○○だけは別だった。

 ○○だけが気付いてくれればいい。

 ○○だけが分かってくれればいい。

 そんな身勝手な願いが。

 いつの間にか胸の中心に居座っていた。

 一番気付いてほしい人だけは決まっていた。



 それから数日。

 唯衣はいつも通りだった。

 レッスンもする。

 収録もする。

 後輩の相談にも乗る。

 周りから見れば何も変わらない。

 変わったのは。

 自分の中だけだった。

 ○○の言葉が離れない。

『頑張るために頑張ってる感じがするので』

『唯衣ちゃんまで倒れたら困ります』

 たったそれだけ。

 本当にそれだけの言葉だった。

 励まされたわけでもない。

 特別な約束をしたわけでもない。

 なのに。

 ふとした瞬間に思い出してしまう。

 レッスン中も。

 移動中も。

 夜、ひとりになった時も。

 そのたびに胸の奥がざわついた。

唯衣:(忘れろ忘れろ)

 自分へ言い聞かせる。

 けれど、意識して遠ざけようとするほど逆効果だった。

 忘れたいはずなのに。

 気付けばまた考えている。

 まるで触れてはいけない傷口を、無意識に確かめてしまうみたいに。

 その日。

 事務所では四期生の自主練が行われていた。

 唯衣も様子を見に来ている。

 鏡越しに後輩達を見る。

 頑張っている。

 本当に。

 だから応援したくなる。

 その気持ちは紛れもなく本物だった。

 ただ。

 そこへもう一人現れる。

○○:「お疲れさまです」

 聞き慣れた声。

 それだけで。

 胸の奥が小さく波立つ。

 自分でも呆れるくらいだった。

 振り返らなくても分かる。

 足音も。

 声も。

 その場の空気が少し柔らかくなる感じも。

 いつの間にか覚えてしまっていた。

愛桜:「○○さん!」

宇衣:「見てください!」

○○:「はいはい」

 後輩達が集まる。

 ○○も自然に輪へ入る。

 楽しそうだった。

 後輩達も。

 ○○も。

 何も悪くない。

 むしろ微笑ましい光景のはずだった。

 なのに。

 唯衣は少しだけ視線を逸らした。

 見ていたくない。

 見ていると。

 余計なことばかり考えてしまうから。

 その時。

宇衣:「やった!」

 嬉しそうな声が響く。

 つられて視線が向く。

 ○○が何か褒めたらしい。

 宇衣が満面の笑みを浮かべている。

 その瞬間。

 胸の奥がちくりと痛んだ。

 一瞬だった。

 本当に些細な感情だった。

 けれど。

 見過ごせないほど鮮明だった。

唯衣:(最低やな)

 思わず唇を噛む。

 相手は後輩だ。

 しかも大切な後輩。

 応援したい。

 成長してほしい。

 その気持ちに嘘はない。

 それなのに。

 胸のどこかで羨ましいと思ってしまった。

 自分が向けられたいものを。

 誰かが受け取っているような気がして。

 そんな自分が嫌だった。

 少し前まで。

 こんなことはなかった。

 気付けば視線が追っている。

 ○○が誰と話しているのか。

 誰へ笑いかけたのか。

 誰を気に掛けたのか。

 知ったところで何も変わらないのに。

 そんなことばかり気になってしまう。

唯衣:(重症やん……)

 自嘲気味に笑おうとする。

 けれど上手く笑えなかった。

 認めたくなくても。

 もう分かっていたから。

 これは憧れじゃない。

 尊敬だけでもない。

 もっと個人的で。

 もっと身勝手で。

 だからこそ扱いに困る感情だった。

 休憩になった。

 唯衣は一人で自販機へ向かう。

 少し距離を置きたかった。

 冷たい缶を額へ当てる。

 ひんやりして気持ちいい。

 それでも。

 頭の中は少しも静かにならなかった。

唯衣:(なんでやろな)

 好きだと自覚するほど。

 心は楽になるどころか苦しくなった。

 近付きたい。

 もっと話したい。

 そう思うのに。

 近付けば近付くほど、自分の気持ちが知られてしまいそうで怖い。

 見てほしい。

 気付いてほしい。

 でも本当に見透かされたら逃げ出したくなる。

 矛盾だらけだった。

 その時。

○○:「唯衣ちゃん」

 声がした。

 近い。

 思わず肩が跳ねる。

○○:「驚きました?」

唯衣:「びっくりするやろ」

○○:「すみません」

 少し笑う。

 その顔を見るだけで。

 胸の鼓動が落ち着かなくなる。

 自分でもどうしようもなかった。

○○:「ちゃんと休憩してますね」

唯衣:「子供ちゃうねんから」

○○:「でも座ってるので安心しました」

 また。

 そういうことを言う。

 特別な意味なんてない。

 本人にとっては何気ない一言だ。

 だからこそ厄介だった。

 期待してはいけないと分かっているのに。

 心だけが勝手に反応してしまう。

 ○○は缶コーヒーを開けながら隣へ立つ。

 沈黙が落ちる。

 不思議と気まずくはなかった。

 むしろ心地よかった。

 このまま何も起きずに時間が過ぎればいい。

 そう願ってしまう自分に気付く。

 もう十分手遅れだった。

 その時だった。

○○:「唯衣ちゃん」

唯衣:「ん?」

○○:「最近」

○○:「少し無理して笑ってません?」

 心臓が強く跳ねた。

 一瞬、呼吸を忘れる。

 言葉が出ない。

 なんで。

 そこまで分かるん。

 誰にも気付かれないようにしていた。

 冗談を言って。

 笑って。

 いつも通りの武元唯衣でいようとしていた。

 自分でも上手くやれていると思っていたのに。

 この人だけは。

 どうして見抜いてしまうんやろ。

 唯衣は俯く。

 缶を握る指へ力が入った。

 返事ができない。

 口を開けば。

 隠してきたものまで零れてしまいそうだった。

 弱音も。

 寂しさも。

 そして何より。

 ○○へ向けてしまった気持ちも。

 胸の奥で押さえ込んでいた感情が。

 今にも喉元までせり上がってくる。

 言えば楽になるのか。

 それとも。

 今の関係さえ壊してしまうのか。

 答えは分からない。

 分からないまま。

○○:「唯衣ちゃん……?」

 もう一度呼ばれた名前が。

 張り詰めていた心を大きく揺らした。

 顔を上げるべきか。

 このまま誤魔化すべきか。

 その答えを出せないまま――

 唯衣の胸の奥で。

 ずっと見ないふりをしてきた想いだけが。

 静かに。

 けれど確実に。

 後戻りのできない一線を越えようとしていた。



○○:「唯衣ちゃん……?」

 もう一度呼ばれた。

 優しい声だった。

 急かすでもなく。

 責めるでもなく。

 ただ。

 心配そうに。

 唯衣の名前を呼ぶ。

 それだけだった。

 それだけなのに。

 胸の奥で張り詰めていたものが大きく軋む。

 返事をしなきゃ。

 笑わなきゃ。

 いつもみたいに。

 冗談を言って。

 誤魔化して。

 終わりにしなきゃ。

 そう思うのに。

 言葉が出てこない。

 俯いたまま。

 缶を握りしめる。

 冷たいはずなのに。

 手のひらは熱かった。

○○:「何かありました?」

 優しい。

 本当に。

 どこまでも優しい。

 だから困る。

 優しくされる度に。

 隠していた感情が居場所を失っていく。

唯衣:「……なんもない」

 やっと出た声は掠れていた。

 自分でも驚くくらい弱かった。

○○:「そうですか」

 否定しない。

 追及もしない。

 でも。

 信じてもいない。

 そんな返事だった。

 沈黙が落ちる。

 短いはずなのに。

 永遠みたいに長かった。

唯衣:「……なんで」

 ぽつり。

 零れた。

 独り言みたいに。

 止める前に。

 口から出てしまった。

○○:「はい?」

唯衣:「なんで」

唯衣:「そんな分かるん……」

 顔を上げられない。

 上げたら。

 本当に全部見透かされてしまいそうで。

唯衣:「うち」

唯衣:「ちゃんと隠しとったやん……」

 笑っていた。

 冗談も言っていた。

 先輩もしていた。

 大丈夫なふりだってしていた。

 なのに。

 この人だけは。

 いつも見つけてしまう。

○○:「長いですからね」

 静かな声だった。

 特別な答えじゃない。

 でも。

 唯衣には十分だった。

 長いから。

 ただそれだけで。

 見ていてくれた。

 気付いてくれていた。

 その事実が。

 胸を締め付ける。

唯衣:「ずるい……」

○○:「何がですか」

唯衣:「全部や」

 視界が滲む。

 まずいと思った。

 泣くつもりなんてなかった。

 こんなところで。

 こんなことで。

 泣くつもりなんて。

 なかったのに。

唯衣:「後輩にも優しいし」

唯衣:「スタッフにも優しいし」

唯衣:「誰にでも優しいし」

 止まらない。

 言葉が。

 感情が。

 胸の奥へ押し込めていたものが。

 少しずつ溢れ出していく。

唯衣:「そんなん」

唯衣:「期待してまうやん……」

 言った瞬間。

 息を呑んだ。

 しまったと思った。

 今のは駄目だ。

 言ったら駄目なやつだった。

 胸の奥へ沈めておくべきだった。

 だから。

 唯衣は一歩下がろうとした。

 逃げるみたいに。

 終わらせるために。

 でも。

 できなかった。

 腕を掴まれたから。

唯衣:「……っ」

 強くない。

 本当に軽く。

 逃げないように。

 それだけの力。

 なのに。

 身体が動かなくなる。

○○:「唯衣ちゃん」

 その声だけで。

 泣きそうになる。

○○:「僕が見てないと思ってました?」

 呼吸が止まる。

 視線が揺れる。

○○:「そんな訳ないでしょう」

○○:「ずっと見てました」

 後輩を見ている時も。

 場を盛り上げている時も。

 先輩として頑張っている時も。

 誰かのために動いている時も。

 全部。

 見ていたと言う。

 駄目だった。

 もう。

 耐えられなかった。

 目の奥が熱くなる。

 滲んだ視界が揺れる。

○○:「唯衣ちゃん」

○○:「頑張ってるの知ってます」

○○:「無理してるのも知ってます」

○○:「だから」

○○:「もう少しくらい頼ってください」

 その瞬間。

 一粒落ちた。

 それで終わりだった。

 堪えていたものが崩れる。

 涙が次々と溢れてくる。

唯衣:「……っ」

 情けない。

 恥ずかしい。

 止めたい。

 なのに止まらない。

 ○○は何も言わなかった。

 慰めもしない。

 説教もしない。

 ただ。

 一歩近付く。

 そして。

 そっと抱き寄せた。

唯衣:「……」

 温かかった。

 強く抱き締めるわけじゃない。

 でも。

 離れていかない温度だった。

 肩へ額が触れる。

 聞こえる呼吸。

 微かに感じる鼓動。

 近い。

 近すぎる。

 なのに。

 不思議と怖くなかった。

 ずっと張り詰めていた糸へ。

 そっと触れられているみたいだった。

 だから困る。

 強く引っ張られるより。

 優しく触れられる方が。

 ずっと苦しい。

唯衣:「なんで……」

 震える声が零れる。

唯衣:「なんでそんな優しいん……」

 ○○は少しだけ困ったように笑った。

○○:「優しくないですよ」

○○:「唯衣ちゃんだからです」

 胸が大きく鳴った。

 その一言が。

 何よりも。

 ずるかった。

 唯衣は○○の服をぎゅっと掴む。

 離したくなかった。

 もう少しだけ。

 本当にもう少しだけ。

 このままでいたかった。

 胸の奥で。

 ずっと閉じ込めていた言葉が揺れる。

 好き。

 たった二文字。

 でも。

 言えなかった。

 言ったら。

 何かが変わってしまう気がしたから。

 だから。

 唯衣は黙ったまま目を閉じる。

 代わりに涙だけが零れ続けた。



 翌朝。

 武元唯衣は人生で一番事務所へ行きたくなかった。

 理由は明確だった。

 目を閉じても、昨日の光景が何度も浮かんでくるからだ。

 ○○の前で感情を抑えきれなくなった自分。

 嫉妬して、拗ねて、泣いて。

 隠していた気持ちまで晒してしまった。

 恥ずかしさで胃が縮む。

 それでも、あの時の優しい声や温もりまで思い出してしまうから厄介だった。

 会いたくない。

 でも会いたい。

 そんな気持ちの間で揺れ続け、朝から落ち着かなかった。

 昨日。

 泣いた。

 しかも。

 ○○の前で。

 思い出した瞬間。

 唯衣は布団へ顔を埋めた。

唯衣:(無理無理無理無理)

 足をばたつかせる。

 完全に不審者だった。

 でも仕方ない。

 昨日の自分を思い返せば、言い逃れの余地なんてなかった。

 嫉妬して。

 拗ねて。

 泣いて。

 抱きしめられた。

唯衣:(なんなんあれ……)

 特に最後の記憶が離れない。

 肩に残る温もり。

 聞こえていた声。

 服を掴んでいた自分の手。

唯衣:(うわぁぁぁぁ……)

 朝から叫びたかった。

 記憶を消したいのか、消したくないのか、自分でも分からない。

 恋をすると人は馬鹿になるらしい。

 本当だった。

 そして。

 数時間後。

 事務所。

 唯衣は廊下の角からそっと顔を出した。

 完全に不審者だった。

 でも仕方ない。

 心の準備が必要だった。

 ○○がいるか確認しなければならない。

 いた。

 終わった。

 遠くでスタッフと話している。

 いつも通りだった。

 本当に。

 腹が立つくらい。

 いつも通りだった。

唯衣:(なんで平気なん……)

 こっちは昨日からずっと引きずっている。

 なのに。

 あっちは平然としていた。

 少しくらい気まずくなれや。

 そう思った瞬間。

○○:「唯衣ちゃん」

唯衣:「ひゃっ!?」

 変な声が出た。

 反射だった。

○○:「大丈夫ですか?」

唯衣:「だ、大丈夫!」

○○:「そうですか?」

 近い。

 無理。

 心臓がうるさい。

 ○○は首を傾げる。

 本当に不思議そうな顔だった。

○○:「顔赤いですけど」

唯衣:「赤くない!」

○○:「赤いですよ」

唯衣:「赤くない!」

○○:「赤いです」

 なんなんこいつ。

 やめてくれ。

 それ以上見ないでくれ。

 昨日のこと思い出すから。

○○:「熱あります?」

 そう言って。

 自然に額へ手が伸びる。

唯衣:「っ!?」

 反射で飛び退いた。

 自分でも驚くくらい。

 大きく。

○○:「え」

唯衣:「あ」

 終わった。

 本日二度目の人生終了だった。

 気まずい。

 でも。

 ○○は違った。

○○:「すみません」

○○:「急でしたね」

 普通に謝った。

 何も気付いていない。

唯衣:(なんでやねん)

 昨日あれだけ感情をぶつけたのに。

 どうしてこんなに普通なんだろう。

 少し苦しくて。

 でも同時に救われてもいた。

 昨日のことで距離が変わったわけじゃない。

 避けられているわけでもない。

 それが嬉しかった。

 その時。

○○:「あ」

唯衣:「なに」

○○:「昨日より顔色いいですね」

 心臓が止まりそうになる。

 昨日。

 その一言だけで全部思い出す。

○○:「ちゃんと休めました?」

 優しい声だった。

 昨日と同じ。

 何も変わらない。

 だから。

 余計に駄目だった。

唯衣:「……寝た」

○○:「良かったです」

 嬉しそうに笑う。

 その顔を見た瞬間。

 胸の奥がきゅっと締まった。

 昨日の出来事を抱えているのは、自分だけなのかもしれない。

 ○○にとっては、唯衣が少し無理をしていた日。

 でも唯衣にとっては違う。

 抱えていた感情が零れた日だった。

 だから同じ出来事でも、見えている景色はまるで違った。

○○:「唯衣ちゃん」

唯衣:「ん?」

○○:「今日はちゃんと休憩してくださいね」

 まただ。

 そんな顔で言う。

 ただ優しいだけなのに。

 その優しさが胸に残る。

唯衣:(ずるいなぁ……)

 小さく息を吐く。

 たぶん。

 昨日より悪化している。

 間違いなく。

 もっと好きになっていた。

 本人だけが。

 何も知らないまま。



 その日のレッスン終わり。

 メンバー達も帰り始め。

 事務所は少しずつ静かになっていた。

 唯衣は休憩スペースのソファへ座りながらスマホを眺めている。

 いや。

 正確には眺めているだけだった。

 画面なんて全く頭へ入ってこない。

 考えていることは一つ。

 隣に座っている人のこと。

○○:「まだ帰らないんですか?」

唯衣:「……帰る」

○○:「帰る人の顔じゃないですね」

唯衣:「どんな顔やねん」

○○:「考え事してる顔です」

 当たっている。

 当たりすぎている。

 だから困る。

 唯衣はスマホを伏せた。

 少しだけ視線を横へ向ける。

 ○○はパソコンを閉じたところだった。

 いつも通り。

 本当にいつも通り。

 なのに。

 自分だけがずっと振り回されている。

唯衣:(ほんま……)

 好きやなぁ。

 認めた瞬間。

 胸の奥が少しだけ温かくなる。

 苦しいのに。

 嫌じゃない。

 むしろ大事に抱えていたい感情だった。

 その時。

○○:「唯衣ちゃん」

唯衣:「ん?」

○○:「今日はちゃんと休憩してましたね」

 またそれだ。

 思わず笑ってしまう。

唯衣:「監視でもしとるん?」

○○:「してないです」

○○:「見てただけです」

 さらっと言う。

 だから。

 そういうところや。

 見てただけ。

 その言葉一つで。

 胸の奥へ小石が落ちる。

 静かだったはずの水面が。

 何度も波打つ。

○○:「偉かったです」

唯衣:「子供ちゃう」

○○:「知ってます」

唯衣:「絶対思ってへんやろ」

○○:「思ってます」

 少し笑う。

 その顔が優しい。

 優しすぎる。

 まるで。

 尖っていた気持ちを全部丸くしてしまうみたいに。

 沈黙が落ちた。

 気まずくない。

 むしろ心地良い。

 だからこそ。

 唯衣は少しだけ勇気を出した。

 昨日までなら言えなかったこと。

 でも。

 あの涙のあとだから。

 少しだけ。

 言ってみたくなった。

唯衣:「○○さん」

○○:「はい」

唯衣:「一個聞いてええ?」

○○:「どうぞ」

 即答。

 断られると思っていない。

 それもまた悔しい。

唯衣:「断らんの?」

○○:「内容聞いてないので」

唯衣:「普通聞くやろ」

○○:「聞きます?」

 少し笑う。

 その余裕が腹立たしい。

 でも。

 好きだった。

 だから。

 唯衣は小さく息を吸う。

 心臓がうるさい。

 たった一言なのに。

 告白するより緊張する気がした。

唯衣:「……ちょっとだけ」

○○:「はい」

唯衣:「甘えてええ?」

 静かになる。

 数秒。

 唯衣は急に恥ずかしくなった。

 何言ってるんやろ。

 今からでも撤回しようか。

 そう思った瞬間。

○○:「もちろん」

 返事はあまりにも自然だった。

 迷いもなく。

 驚きもなく。

 まるで。

 最初からそうするつもりだったみたいに。

 唯衣は言葉を失う。

○○:「それで?」

唯衣:「それで?」

○○:「何したらいいんですか」

 困ったように笑う。

 その顔を見て。

 唯衣も少し笑った。

 肩の力が抜ける。

 そして。

 本当に小さな声で言った。

唯衣:「……頭」

○○:「頭?」

唯衣:「撫でて」

 言ってしまった。

 顔が熱い。

 たぶん今。

 耳まで真っ赤だと思う。

 逃げたかった。

 でも。

 逃げなかった。

 ○○は少しだけ目を丸くしたあと。

 優しく笑った。

○○:「そんなことでいいんですか」

唯衣:「そんなこと言うな」

○○:「すみません」

 そして。

 大きな手が頭へ触れる。

 ぽん。

 軽く。

 本当に軽く。

 子供扱いするみたいじゃなく。

 頑張った人を労うみたいに。

 優しく。

 ゆっくり。

 撫でられる。

 その瞬間。

 胸の奥で張っていた糸がふっと緩んだ。

 温かい。

 安心する。

 悔しいくらい。

 心地良かった。

○○:「最近頑張ってましたからね」

 優しい声が落ちてくる。

○○:「お疲れさまでした」

 駄目だった。

 その言葉は。

 反則だった。

 認めてほしかった。

 見てほしかった。

 頑張っていることを。

 ずっと。

 気付いてほしかった。

 その全部を。

 たった一言で満たされてしまう。

 唯衣はそっと目を閉じた。

 もう少しだけ。

 本当に少しだけ。

 この時間が終わらなければいいのにと思った。

 でも。

 終わるからこそ。

 大切なのかもしれない。

 やがて。

 頭を撫でる手が離れる。

 少しだけ名残惜しかった。

 本当に少しだけ。

○○:「満足しました?」

唯衣:「……まあな」

○○:「本当ですか?」

唯衣:「半分くらい」

○○:「欲張りですね」

唯衣:「今さらや」

 そう返すと。

 ○○は楽しそうに笑った。

 その笑顔を見ながら。

 唯衣は胸の奥でそっと思う。

 恋は苦しい。

 嫉妬もする。

 不安にもなる。

 でも。

 それだけじゃない。

 好きな人に名前を呼ばれるだけで。

 少し優しくされるだけで。

 世界は驚くほど温かくなる。

 だからきっと。

 もう戻れない。

 ○○が知らないままでもいい。

 そう思っていたはずなのに。

 今日だけは少し違った。

 撫でられた場所に残る熱を感じながら。

 唯衣はそっと○○を見る。

 目が合う。

 ○○は不思議そうに首を傾げた。

○○:「どうしました?」

 その仕草に。

 また胸が締め付けられる。

 好きや。

 本当に。

 どうしようもないくらい。

 だから。

 今までみたいに。

 ただ隣にいるだけでは足りなくなってしまった。

唯衣:「……なんでもない」

 そう言いながら。

 心の中ではちゃんと認める。

 いつか。

 もう一歩近付きたい。

 もっと名前を呼んでほしい。

 もっと頼ってほしい。

 もっと自分を見てほしい。

 その願いは。

 きっともう友達や仲間に向けるものじゃない。

 怖いけど。

 逃げたくないとも思った。

 初めてだった。

 恋を隠すことより。

 恋を叶えたいと思ったのは。

 だからきっと。

 今はまだこの距離でも。

 いつかは違う。

 その時は。

 自分から手を伸ばそう。

 そう決められるくらいには。

 武元唯衣は。

 どうしようもなく恋をしていた。

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