うちのマネージャーは最強第35話
第35話
「Look at me」
最近。
武元唯衣は少しだけ調子が悪かった。
体調じゃない。
レッスンも問題ない。
仕事もいつも通り。
ご飯も食べてる。
寝れてない訳でもない。
だから余計に厄介だった。
原因が。
ちゃんと分かっているから。
レッスン場。
鏡張りのフロア。
四期生達が必死に振りを合わせていた。
唯衣:「そこもうちょい!」
唯衣:「今の惜しい!」
宇衣:「はい!」
桃実:「もう一回お願いします!」
唯衣:「ええよ!」
唯衣:「できるまでやろ!」
自然と声が出る。
後輩を見るのは嫌いじゃない。
頑張っている子は応援したくなる。
できなかったことができるようになる瞬間を見るのも好きだ。
だから。
この時間は本来好きなはずだった。
そのはずなのに。
最近は少し違う。
○○:「宇衣ちゃん」
宇衣:「はい!」
○○:「今日、良かったですね素人目でも分かります!」
宇衣:「ほんとですか!?」
○○:「表情が自然になってます」
○○:「自信持って大丈夫です」
宇衣:「やったぁ!」
宇衣が嬉しそうに笑う。
○○も少し笑った。
ただそれだけ。
本当にそれだけだった。
なのに。
唯衣の視線は勝手にそっちへ向く。
耳も。
意識も。
全部。
勝手に。
唯衣:(……あかん)
慌てて目を逸らす。
別に変なことじゃない。
○○は昔からああだ。
ちゃんと見て。
ちゃんと褒める。
良いところがあれば言葉にする。
だから後輩達も安心する。
それだけの話。
なのに。
胸の奥へ沈めたはずの何かが。
○○の声を聞く度に浮かび上がってくる。
まるで。
水面の下へ押し込んでも。
勝手に顔を出してしまう泡みたいに。
唯衣:(集中集中)
四期生へ向き直る。
今はレッスン中だ。
余計なことを考えている場合じゃない。
そう思った時。
○○:「桃ちゃんも良いですね」
桃実:「ありがとうございます!」
○○:「ターン綺麗でした」
桃実:「やった!」
○○:「武元先生の教え方が良いんでしょうね」
どくん。
心臓が大きく鳴った。
思わず顔を上げる。
○○はもう別の方向を見ていた。
特別な意味なんてない。
ただ思ったことを言っただけ。
分かっている。
分かっているのに。
嬉しい。
悔しいくらい。
唯衣:(ほんまにずるい)
口元を隠すようにペットボトルへ口を付ける。
冷たい。
でも。
顔は熱かった。
少しして休憩になった。
四期生達が一斉に○○の周りへ集まる。
愛桜:「○○さん!」
宇衣:「感想聞いていいですか?」
桃実:「私もです!」
楽しそうだった。
○○も自然に輪へ入る。
前へ出ようとしている訳じゃない。
目立とうとしている訳でもない。
ただ。
ちゃんと話を聞いているだけ。
それだけなのに。
みんな安心した顔になる。
唯衣は少し離れた場所で座り込む。
ペットボトルを弄る。
気付けば。
ラベルの端がぼろぼろになっていた。
指先が勝手に剥がしていたらしい。
唯衣:(何やってんねん)
苦笑する。
相手は後輩だ。
しかも。
○○は何も悪くない。
優しいだけ。
いつも通り。
昔から変わらない。
なのに。
胸の奥だけが落ち着かない。
見なければいいのに。
気付けばまた視線を向けている。
どうしようもなかった。
その時。
○○:「唯衣ちゃん」
びくり。
肩が跳ねた。
反射だった。
○○:「どうしました?」
唯衣:「な、何が」
○○:「今日飛ばしすぎです」
唯衣:「そんなことない」
○○:「あります」
即答。
唯衣は思わず目を逸らした。
○○:「最近特にです」
唯衣:「気のせいやろ」
○○:「気のせいじゃないです」
逃げ道がない。
昔からそうだった。
誤魔化せる人はたくさんいる。
でも。
この人だけは駄目だった。
○○:「長いので」
その一言で。
胸の奥がきゅっと縮む。
長いので。
たったそれだけ。
なのに。
ずっと見てました。
そう言われた気がした。
唯衣:「……」
○○:「無理しないでくださいね」
優しい声だった。
いつも通り。
本当にいつも通り。
だから困る。
こんなの。
好きになるなって方が無理やろ。
○○は四期生達の方へ戻っていく。
唯衣だけがその場へ残った。
少しだけ俯く。
認めたくなかった。
だから。
まだ名前を付けていない。
でも。
胸の奥にあるそれは。
日に日に存在感を増していた。
見ないふりをしても。
聞こえないふりをしても。
もう。
無かったことにはできないくらいに。
レッスンは予定より少し長引いた。
四期生達は最後まで必死だった。
宇衣:「ありがとうございました!」
桃実:「お疲れさまでした!」
愛桜:「失礼します!」
元気な声が次々と響く。
唯衣も笑顔で手を振った。
唯衣:「お疲れ!」
唯衣:「帰ったらちゃんと休むんやで!」
そう言った本人が。
一番休んでいなかった。
ドアが閉まる。
レッスン場は一気に静かになった。
鏡に映るのは自分と○○だけ。
唯衣は床へ貼られていた立ち位置用のテープを剥がし始める。
本来ならスタッフがやる仕事。
でも。
気付いたら手が動いていた。
最近はそんなことが多い。
何かしていないと落ち着かない。
考えたくないことまで考えてしまうから。
○○:「ありがとうございました」
唯衣:「ん?」
○○:「今日」
○○:「四期生ずっと見てたじゃないですか」
唯衣:「先輩やしな」
○○:「僕より見てましたよ」
思わず手が止まる。
そんなことない。
そう言おうとして。
やめた。
少なくとも。
見ていた時間だけなら本当だった。
○○:「助かりました」
さらっと言う。
まただ。
そういうの。
ほんまにずるい。
剥がしかけたテープが途中で切れる。
指先へ力が入りすぎたらしい。
気付かないふりをして剥がし直す。
すると。
○○:「唯衣ちゃん」
唯衣:「なに」
○○:「最近休憩減りました?」
どくり。
心臓が嫌な跳ね方をした。
唯衣:「……は?」
○○:「休憩です」
○○:「前はもう少し座ってたでしょう」
言葉が出なかった。
そんなところ。
誰も見ていないと思っていた。
レッスンの合間。
水を飲む時間。
座る時間。
四期生と話す時間。
最近。
確かに減っていた。
別に意識していた訳じゃない。
ただ。
じっとしていると落ち着かなかった。
唯衣:「気のせいやろ」
○○:「気のせいじゃないです」
即答だった。
逃がしてくれない。
○○:「休める時に休まないと駄目です」
唯衣:「そんな疲れてへん」
○○:「疲れてるかどうかの話じゃないです」
唯衣は顔を上げる。
○○は珍しく真面目な顔をしていた。
○○:「頑張るのは良いんです」
○○:「唯衣ちゃんらしいですし」
胸が少しだけ痛くなる。
優しい声だった。
だから余計に。
○○:「でも」
○○:「最近の唯衣ちゃん」
○○:「頑張るために頑張ってる感じがするので」
息が止まった。
視線が揺れる。
剥がしかけていたテープが途中で千切れた。
今度は誤魔化せなかった。
図星だった。
頑張りたい訳じゃない。
頑張らなきゃいけない気がしていた。
置いていかれたくなくて。
認められたくて。
見てほしくて。
でも。
そんなこと。
言える訳がない。
唯衣:「……意味分からん」
やっと出た言葉はそれだった。
○○:「なら良かったです」
唯衣:「どこがやねん」
○○:「本当に無理してる人は」
○○:「意味分からんって言わないので」
少しだけ笑う。
その顔を見て。
唯衣は負けたと思った。
また見抜かれている。
また。
自分だけ隠せているつもりだった。
○○:「唯衣ちゃんまで倒れたら困ります」
静かな声だった。
特別じゃない。
きっと誰にでも言う。
分かっている。
分かっているのに。
胸の奥へ落ちたその一言は。
しばらく消えそうになかった。
○○は先にレッスン場を出ていく。
一人残された唯衣は。
剥がし終えたテープを握りながら小さく息を吐いた。
困る。
その言葉が。
妙に嬉しかった。
心配されたい訳じゃない。
守られたい訳でもない。
……いや。
たぶん違う。
そうじゃない。
本当は。
もっとずっと情けなくて。
もっとずっと重たい感情だった。
誰にも頼りたくないふりをして。
誰にも弱さを見せたくないふりをして。
それでも心のどこかでは。
○○が気付いてくれることを待っていた。
大丈夫やと言いながら。
本当は全然大丈夫じゃないことを。
平気な顔で笑いながら。
少しだけ無理していることを。
見抜いてほしかった。
認めてほしかった。
気にかけてほしかった。
いつからこんなふうになったのか分からない。
でも。
○○に見つけてもらえるだけで。
張り詰めていたものが少し緩む自分がいた。
それが嬉しくて。
同時に怖かった。
こんなにも一人の言葉に振り回されるなんて。
こんなにも一人の視線を求めてしまうなんて。
○○にだけは。
見つけてほしかった。
胸の奥へ隠していた感情を。
誰にも気付かれたくないくせに。
誰にも踏み込まれたくないくせに。
○○だけは別だった。
○○だけが気付いてくれればいい。
○○だけが分かってくれればいい。
そんな身勝手な願いが。
いつの間にか胸の中心に居座っていた。
一番気付いてほしい人だけは決まっていた。
それから数日。
唯衣はいつも通りだった。
レッスンもする。
収録もする。
後輩の相談にも乗る。
周りから見れば何も変わらない。
変わったのは。
自分の中だけだった。
○○の言葉が離れない。
『頑張るために頑張ってる感じがするので』
『唯衣ちゃんまで倒れたら困ります』
たったそれだけ。
本当にそれだけの言葉だった。
励まされたわけでもない。
特別な約束をしたわけでもない。
なのに。
ふとした瞬間に思い出してしまう。
レッスン中も。
移動中も。
夜、ひとりになった時も。
そのたびに胸の奥がざわついた。
唯衣:(忘れろ忘れろ)
自分へ言い聞かせる。
けれど、意識して遠ざけようとするほど逆効果だった。
忘れたいはずなのに。
気付けばまた考えている。
まるで触れてはいけない傷口を、無意識に確かめてしまうみたいに。
その日。
事務所では四期生の自主練が行われていた。
唯衣も様子を見に来ている。
鏡越しに後輩達を見る。
頑張っている。
本当に。
だから応援したくなる。
その気持ちは紛れもなく本物だった。
ただ。
そこへもう一人現れる。
○○:「お疲れさまです」
聞き慣れた声。
それだけで。
胸の奥が小さく波立つ。
自分でも呆れるくらいだった。
振り返らなくても分かる。
足音も。
声も。
その場の空気が少し柔らかくなる感じも。
いつの間にか覚えてしまっていた。
愛桜:「○○さん!」
宇衣:「見てください!」
○○:「はいはい」
後輩達が集まる。
○○も自然に輪へ入る。
楽しそうだった。
後輩達も。
○○も。
何も悪くない。
むしろ微笑ましい光景のはずだった。
なのに。
唯衣は少しだけ視線を逸らした。
見ていたくない。
見ていると。
余計なことばかり考えてしまうから。
その時。
宇衣:「やった!」
嬉しそうな声が響く。
つられて視線が向く。
○○が何か褒めたらしい。
宇衣が満面の笑みを浮かべている。
その瞬間。
胸の奥がちくりと痛んだ。
一瞬だった。
本当に些細な感情だった。
けれど。
見過ごせないほど鮮明だった。
唯衣:(最低やな)
思わず唇を噛む。
相手は後輩だ。
しかも大切な後輩。
応援したい。
成長してほしい。
その気持ちに嘘はない。
それなのに。
胸のどこかで羨ましいと思ってしまった。
自分が向けられたいものを。
誰かが受け取っているような気がして。
そんな自分が嫌だった。
少し前まで。
こんなことはなかった。
気付けば視線が追っている。
○○が誰と話しているのか。
誰へ笑いかけたのか。
誰を気に掛けたのか。
知ったところで何も変わらないのに。
そんなことばかり気になってしまう。
唯衣:(重症やん……)
自嘲気味に笑おうとする。
けれど上手く笑えなかった。
認めたくなくても。
もう分かっていたから。
これは憧れじゃない。
尊敬だけでもない。
もっと個人的で。
もっと身勝手で。
だからこそ扱いに困る感情だった。
休憩になった。
唯衣は一人で自販機へ向かう。
少し距離を置きたかった。
冷たい缶を額へ当てる。
ひんやりして気持ちいい。
それでも。
頭の中は少しも静かにならなかった。
唯衣:(なんでやろな)
好きだと自覚するほど。
心は楽になるどころか苦しくなった。
近付きたい。
もっと話したい。
そう思うのに。
近付けば近付くほど、自分の気持ちが知られてしまいそうで怖い。
見てほしい。
気付いてほしい。
でも本当に見透かされたら逃げ出したくなる。
矛盾だらけだった。
その時。
○○:「唯衣ちゃん」
声がした。
近い。
思わず肩が跳ねる。
○○:「驚きました?」
唯衣:「びっくりするやろ」
○○:「すみません」
少し笑う。
その顔を見るだけで。
胸の鼓動が落ち着かなくなる。
自分でもどうしようもなかった。
○○:「ちゃんと休憩してますね」
唯衣:「子供ちゃうねんから」
○○:「でも座ってるので安心しました」
また。
そういうことを言う。
特別な意味なんてない。
本人にとっては何気ない一言だ。
だからこそ厄介だった。
期待してはいけないと分かっているのに。
心だけが勝手に反応してしまう。
○○は缶コーヒーを開けながら隣へ立つ。
沈黙が落ちる。
不思議と気まずくはなかった。
むしろ心地よかった。
このまま何も起きずに時間が過ぎればいい。
そう願ってしまう自分に気付く。
もう十分手遅れだった。
その時だった。
○○:「唯衣ちゃん」
唯衣:「ん?」
○○:「最近」
○○:「少し無理して笑ってません?」
心臓が強く跳ねた。
一瞬、呼吸を忘れる。
言葉が出ない。
なんで。
そこまで分かるん。
誰にも気付かれないようにしていた。
冗談を言って。
笑って。
いつも通りの武元唯衣でいようとしていた。
自分でも上手くやれていると思っていたのに。
この人だけは。
どうして見抜いてしまうんやろ。
唯衣は俯く。
缶を握る指へ力が入った。
返事ができない。
口を開けば。
隠してきたものまで零れてしまいそうだった。
弱音も。
寂しさも。
そして何より。
○○へ向けてしまった気持ちも。
胸の奥で押さえ込んでいた感情が。
今にも喉元までせり上がってくる。
言えば楽になるのか。
それとも。
今の関係さえ壊してしまうのか。
答えは分からない。
分からないまま。
○○:「唯衣ちゃん……?」
もう一度呼ばれた名前が。
張り詰めていた心を大きく揺らした。
顔を上げるべきか。
このまま誤魔化すべきか。
その答えを出せないまま――
唯衣の胸の奥で。
ずっと見ないふりをしてきた想いだけが。
静かに。
けれど確実に。
後戻りのできない一線を越えようとしていた。
○○:「唯衣ちゃん……?」
もう一度呼ばれた。
優しい声だった。
急かすでもなく。
責めるでもなく。
ただ。
心配そうに。
唯衣の名前を呼ぶ。
それだけだった。
それだけなのに。
胸の奥で張り詰めていたものが大きく軋む。
返事をしなきゃ。
笑わなきゃ。
いつもみたいに。
冗談を言って。
誤魔化して。
終わりにしなきゃ。
そう思うのに。
言葉が出てこない。
俯いたまま。
缶を握りしめる。
冷たいはずなのに。
手のひらは熱かった。
○○:「何かありました?」
優しい。
本当に。
どこまでも優しい。
だから困る。
優しくされる度に。
隠していた感情が居場所を失っていく。
唯衣:「……なんもない」
やっと出た声は掠れていた。
自分でも驚くくらい弱かった。
○○:「そうですか」
否定しない。
追及もしない。
でも。
信じてもいない。
そんな返事だった。
沈黙が落ちる。
短いはずなのに。
永遠みたいに長かった。
唯衣:「……なんで」
ぽつり。
零れた。
独り言みたいに。
止める前に。
口から出てしまった。
○○:「はい?」
唯衣:「なんで」
唯衣:「そんな分かるん……」
顔を上げられない。
上げたら。
本当に全部見透かされてしまいそうで。
唯衣:「うち」
唯衣:「ちゃんと隠しとったやん……」
笑っていた。
冗談も言っていた。
先輩もしていた。
大丈夫なふりだってしていた。
なのに。
この人だけは。
いつも見つけてしまう。
○○:「長いですからね」
静かな声だった。
特別な答えじゃない。
でも。
唯衣には十分だった。
長いから。
ただそれだけで。
見ていてくれた。
気付いてくれていた。
その事実が。
胸を締め付ける。
唯衣:「ずるい……」
○○:「何がですか」
唯衣:「全部や」
視界が滲む。
まずいと思った。
泣くつもりなんてなかった。
こんなところで。
こんなことで。
泣くつもりなんて。
なかったのに。
唯衣:「後輩にも優しいし」
唯衣:「スタッフにも優しいし」
唯衣:「誰にでも優しいし」
止まらない。
言葉が。
感情が。
胸の奥へ押し込めていたものが。
少しずつ溢れ出していく。
唯衣:「そんなん」
唯衣:「期待してまうやん……」
言った瞬間。
息を呑んだ。
しまったと思った。
今のは駄目だ。
言ったら駄目なやつだった。
胸の奥へ沈めておくべきだった。
だから。
唯衣は一歩下がろうとした。
逃げるみたいに。
終わらせるために。
でも。
できなかった。
腕を掴まれたから。
唯衣:「……っ」
強くない。
本当に軽く。
逃げないように。
それだけの力。
なのに。
身体が動かなくなる。
○○:「唯衣ちゃん」
その声だけで。
泣きそうになる。
○○:「僕が見てないと思ってました?」
呼吸が止まる。
視線が揺れる。
○○:「そんな訳ないでしょう」
○○:「ずっと見てました」
後輩を見ている時も。
場を盛り上げている時も。
先輩として頑張っている時も。
誰かのために動いている時も。
全部。
見ていたと言う。
駄目だった。
もう。
耐えられなかった。
目の奥が熱くなる。
滲んだ視界が揺れる。
○○:「唯衣ちゃん」
○○:「頑張ってるの知ってます」
○○:「無理してるのも知ってます」
○○:「だから」
○○:「もう少しくらい頼ってください」
その瞬間。
一粒落ちた。
それで終わりだった。
堪えていたものが崩れる。
涙が次々と溢れてくる。
唯衣:「……っ」
情けない。
恥ずかしい。
止めたい。
なのに止まらない。
○○は何も言わなかった。
慰めもしない。
説教もしない。
ただ。
一歩近付く。
そして。
そっと抱き寄せた。
唯衣:「……」
温かかった。
強く抱き締めるわけじゃない。
でも。
離れていかない温度だった。
肩へ額が触れる。
聞こえる呼吸。
微かに感じる鼓動。
近い。
近すぎる。
なのに。
不思議と怖くなかった。
ずっと張り詰めていた糸へ。
そっと触れられているみたいだった。
だから困る。
強く引っ張られるより。
優しく触れられる方が。
ずっと苦しい。
唯衣:「なんで……」
震える声が零れる。
唯衣:「なんでそんな優しいん……」
○○は少しだけ困ったように笑った。
○○:「優しくないですよ」
○○:「唯衣ちゃんだからです」
胸が大きく鳴った。
その一言が。
何よりも。
ずるかった。
唯衣は○○の服をぎゅっと掴む。
離したくなかった。
もう少しだけ。
本当にもう少しだけ。
このままでいたかった。
胸の奥で。
ずっと閉じ込めていた言葉が揺れる。
好き。
たった二文字。
でも。
言えなかった。
言ったら。
何かが変わってしまう気がしたから。
だから。
唯衣は黙ったまま目を閉じる。
代わりに涙だけが零れ続けた。
翌朝。
武元唯衣は人生で一番事務所へ行きたくなかった。
理由は明確だった。
目を閉じても、昨日の光景が何度も浮かんでくるからだ。
○○の前で感情を抑えきれなくなった自分。
嫉妬して、拗ねて、泣いて。
隠していた気持ちまで晒してしまった。
恥ずかしさで胃が縮む。
それでも、あの時の優しい声や温もりまで思い出してしまうから厄介だった。
会いたくない。
でも会いたい。
そんな気持ちの間で揺れ続け、朝から落ち着かなかった。
昨日。
泣いた。
しかも。
○○の前で。
思い出した瞬間。
唯衣は布団へ顔を埋めた。
唯衣:(無理無理無理無理)
足をばたつかせる。
完全に不審者だった。
でも仕方ない。
昨日の自分を思い返せば、言い逃れの余地なんてなかった。
嫉妬して。
拗ねて。
泣いて。
抱きしめられた。
唯衣:(なんなんあれ……)
特に最後の記憶が離れない。
肩に残る温もり。
聞こえていた声。
服を掴んでいた自分の手。
唯衣:(うわぁぁぁぁ……)
朝から叫びたかった。
記憶を消したいのか、消したくないのか、自分でも分からない。
恋をすると人は馬鹿になるらしい。
本当だった。
そして。
数時間後。
事務所。
唯衣は廊下の角からそっと顔を出した。
完全に不審者だった。
でも仕方ない。
心の準備が必要だった。
○○がいるか確認しなければならない。
いた。
終わった。
遠くでスタッフと話している。
いつも通りだった。
本当に。
腹が立つくらい。
いつも通りだった。
唯衣:(なんで平気なん……)
こっちは昨日からずっと引きずっている。
なのに。
あっちは平然としていた。
少しくらい気まずくなれや。
そう思った瞬間。
○○:「唯衣ちゃん」
唯衣:「ひゃっ!?」
変な声が出た。
反射だった。
○○:「大丈夫ですか?」
唯衣:「だ、大丈夫!」
○○:「そうですか?」
近い。
無理。
心臓がうるさい。
○○は首を傾げる。
本当に不思議そうな顔だった。
○○:「顔赤いですけど」
唯衣:「赤くない!」
○○:「赤いですよ」
唯衣:「赤くない!」
○○:「赤いです」
なんなんこいつ。
やめてくれ。
それ以上見ないでくれ。
昨日のこと思い出すから。
○○:「熱あります?」
そう言って。
自然に額へ手が伸びる。
唯衣:「っ!?」
反射で飛び退いた。
自分でも驚くくらい。
大きく。
○○:「え」
唯衣:「あ」
終わった。
本日二度目の人生終了だった。
気まずい。
でも。
○○は違った。
○○:「すみません」
○○:「急でしたね」
普通に謝った。
何も気付いていない。
唯衣:(なんでやねん)
昨日あれだけ感情をぶつけたのに。
どうしてこんなに普通なんだろう。
少し苦しくて。
でも同時に救われてもいた。
昨日のことで距離が変わったわけじゃない。
避けられているわけでもない。
それが嬉しかった。
その時。
○○:「あ」
唯衣:「なに」
○○:「昨日より顔色いいですね」
心臓が止まりそうになる。
昨日。
その一言だけで全部思い出す。
○○:「ちゃんと休めました?」
優しい声だった。
昨日と同じ。
何も変わらない。
だから。
余計に駄目だった。
唯衣:「……寝た」
○○:「良かったです」
嬉しそうに笑う。
その顔を見た瞬間。
胸の奥がきゅっと締まった。
昨日の出来事を抱えているのは、自分だけなのかもしれない。
○○にとっては、唯衣が少し無理をしていた日。
でも唯衣にとっては違う。
抱えていた感情が零れた日だった。
だから同じ出来事でも、見えている景色はまるで違った。
○○:「唯衣ちゃん」
唯衣:「ん?」
○○:「今日はちゃんと休憩してくださいね」
まただ。
そんな顔で言う。
ただ優しいだけなのに。
その優しさが胸に残る。
唯衣:(ずるいなぁ……)
小さく息を吐く。
たぶん。
昨日より悪化している。
間違いなく。
もっと好きになっていた。
本人だけが。
何も知らないまま。
その日のレッスン終わり。
メンバー達も帰り始め。
事務所は少しずつ静かになっていた。
唯衣は休憩スペースのソファへ座りながらスマホを眺めている。
いや。
正確には眺めているだけだった。
画面なんて全く頭へ入ってこない。
考えていることは一つ。
隣に座っている人のこと。
○○:「まだ帰らないんですか?」
唯衣:「……帰る」
○○:「帰る人の顔じゃないですね」
唯衣:「どんな顔やねん」
○○:「考え事してる顔です」
当たっている。
当たりすぎている。
だから困る。
唯衣はスマホを伏せた。
少しだけ視線を横へ向ける。
○○はパソコンを閉じたところだった。
いつも通り。
本当にいつも通り。
なのに。
自分だけがずっと振り回されている。
唯衣:(ほんま……)
好きやなぁ。
認めた瞬間。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
苦しいのに。
嫌じゃない。
むしろ大事に抱えていたい感情だった。
その時。
○○:「唯衣ちゃん」
唯衣:「ん?」
○○:「今日はちゃんと休憩してましたね」
またそれだ。
思わず笑ってしまう。
唯衣:「監視でもしとるん?」
○○:「してないです」
○○:「見てただけです」
さらっと言う。
だから。
そういうところや。
見てただけ。
その言葉一つで。
胸の奥へ小石が落ちる。
静かだったはずの水面が。
何度も波打つ。
○○:「偉かったです」
唯衣:「子供ちゃう」
○○:「知ってます」
唯衣:「絶対思ってへんやろ」
○○:「思ってます」
少し笑う。
その顔が優しい。
優しすぎる。
まるで。
尖っていた気持ちを全部丸くしてしまうみたいに。
沈黙が落ちた。
気まずくない。
むしろ心地良い。
だからこそ。
唯衣は少しだけ勇気を出した。
昨日までなら言えなかったこと。
でも。
あの涙のあとだから。
少しだけ。
言ってみたくなった。
唯衣:「○○さん」
○○:「はい」
唯衣:「一個聞いてええ?」
○○:「どうぞ」
即答。
断られると思っていない。
それもまた悔しい。
唯衣:「断らんの?」
○○:「内容聞いてないので」
唯衣:「普通聞くやろ」
○○:「聞きます?」
少し笑う。
その余裕が腹立たしい。
でも。
好きだった。
だから。
唯衣は小さく息を吸う。
心臓がうるさい。
たった一言なのに。
告白するより緊張する気がした。
唯衣:「……ちょっとだけ」
○○:「はい」
唯衣:「甘えてええ?」
静かになる。
数秒。
唯衣は急に恥ずかしくなった。
何言ってるんやろ。
今からでも撤回しようか。
そう思った瞬間。
○○:「もちろん」
返事はあまりにも自然だった。
迷いもなく。
驚きもなく。
まるで。
最初からそうするつもりだったみたいに。
唯衣は言葉を失う。
○○:「それで?」
唯衣:「それで?」
○○:「何したらいいんですか」
困ったように笑う。
その顔を見て。
唯衣も少し笑った。
肩の力が抜ける。
そして。
本当に小さな声で言った。
唯衣:「……頭」
○○:「頭?」
唯衣:「撫でて」
言ってしまった。
顔が熱い。
たぶん今。
耳まで真っ赤だと思う。
逃げたかった。
でも。
逃げなかった。
○○は少しだけ目を丸くしたあと。
優しく笑った。
○○:「そんなことでいいんですか」
唯衣:「そんなこと言うな」
○○:「すみません」
そして。
大きな手が頭へ触れる。
ぽん。
軽く。
本当に軽く。
子供扱いするみたいじゃなく。
頑張った人を労うみたいに。
優しく。
ゆっくり。
撫でられる。
その瞬間。
胸の奥で張っていた糸がふっと緩んだ。
温かい。
安心する。
悔しいくらい。
心地良かった。
○○:「最近頑張ってましたからね」
優しい声が落ちてくる。
○○:「お疲れさまでした」
駄目だった。
その言葉は。
反則だった。
認めてほしかった。
見てほしかった。
頑張っていることを。
ずっと。
気付いてほしかった。
その全部を。
たった一言で満たされてしまう。
唯衣はそっと目を閉じた。
もう少しだけ。
本当に少しだけ。
この時間が終わらなければいいのにと思った。
でも。
終わるからこそ。
大切なのかもしれない。
やがて。
頭を撫でる手が離れる。
少しだけ名残惜しかった。
本当に少しだけ。
○○:「満足しました?」
唯衣:「……まあな」
○○:「本当ですか?」
唯衣:「半分くらい」
○○:「欲張りですね」
唯衣:「今さらや」
そう返すと。
○○は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ながら。
唯衣は胸の奥でそっと思う。
恋は苦しい。
嫉妬もする。
不安にもなる。
でも。
それだけじゃない。
好きな人に名前を呼ばれるだけで。
少し優しくされるだけで。
世界は驚くほど温かくなる。
だからきっと。
もう戻れない。
○○が知らないままでもいい。
そう思っていたはずなのに。
今日だけは少し違った。
撫でられた場所に残る熱を感じながら。
唯衣はそっと○○を見る。
目が合う。
○○は不思議そうに首を傾げた。
○○:「どうしました?」
その仕草に。
また胸が締め付けられる。
好きや。
本当に。
どうしようもないくらい。
だから。
今までみたいに。
ただ隣にいるだけでは足りなくなってしまった。
唯衣:「……なんでもない」
そう言いながら。
心の中ではちゃんと認める。
いつか。
もう一歩近付きたい。
もっと名前を呼んでほしい。
もっと頼ってほしい。
もっと自分を見てほしい。
その願いは。
きっともう友達や仲間に向けるものじゃない。
怖いけど。
逃げたくないとも思った。
初めてだった。
恋を隠すことより。
恋を叶えたいと思ったのは。
だからきっと。
今はまだこの距離でも。
いつかは違う。
その時は。
自分から手を伸ばそう。
そう決められるくらいには。
武元唯衣は。
どうしようもなく恋をしていた。
